第十三話
日曜日の駅前は、学校帰りの駅前とは少し違っていた。
制服の生徒が少ないだけで、同じロータリーも、同じ信号も、どこか知らない町みたいに見える。
朝から日差しは強く、バス停の屋根の影がアスファルトに濃く落ちていた。
僕は駅の改札前で、スマホの画面を何度も確認した。
十時二十七分。
待ち合わせは十時半。
三分前なのに、妙に落ち着かない。
鞄の中には、財布とスマホと、昨日病院からの帰りに白石から渡された小さなメモが入っている。
《日曜日の予定》
一、本屋。
二、別の店で何か食べる。
三、写真。
四、手をつないで歩く。
五、帰りたくないって、ちょっとだけ思う。
最後の項目だけ、予定なのか予言なのか分からなかった。
僕がもう一度スマホを見ようとした時、改札の向こうから白石が出てきた。
私服だった。
淡い水色の半袖ブラウスに、白いスカート。
肩から小さめの鞄をかけている。
制服じゃない白石は、いつもの白石なのに、いつもの教室から少しだけ離れて見えた。
たぶん、僕の顔にそれが出た。
白石は改札を抜けるなり、足を止めた。
「見すぎ予備軍」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってます」
「私服だから」
「私服なので」
「似合ってる」
言ってから、今日はちゃんと言えたと思った。
白石は一瞬だけ目を丸くした。
それから、鞄の紐を握り直す。
「日曜日、強いね」
「何が」
「彼氏くんの初手」
「昨日、具体化されたからな」
「そこまで具体化してません」
耳が赤かった。
僕もたぶん、同じような顔をしていた。
駅の自動改札が、後ろで短く鳴る。
人が流れていく。
僕たちだけが、少しだけ流れから外れていた。
「それで」
白石は右手を少し持ち上げた。
「審査通過済み案件です」
「本当に今から?」
「今から」
「駅前だけど」
「駅前こそ正式運用です」
「目立つだろ」
「目立つほど誰も見てないです」
白石はそう言ったあと、少しだけ視線を落とした。
「たぶん」
「今日は二回まで許可だっけ」
「残り一回です」
僕は差し出された手を見た。
一昨日の金曜日、公園から駅まで歩いた時は、袖だった。
今日は、手。
言葉にすると、たったそれだけの違いなのに、距離がぜんぜん違う。
僕は白石の手を取った。
指が重なる。
白石の手は、朝の冷房が少し残っているみたいに冷たかった。
でも、すぐに少しずつ温度が移ってくる。
「普通に」
白石が小さく言った。
「うん」
「手をつないで歩いています」
「実況しなくていい」
「記録です」
「誰に」
「未来の私に」
その言葉に、少しだけ足元が静かになった。
白石は前を向いたまま歩き出す。
僕も隣を歩いた。
駅前の歩道は、日曜日の人たちで混んでいた。
親子連れ。
買い物袋を持った人。
部活帰りではない高校生。
誰かの日常の中を、僕たちは手をつないで歩いている。
それだけのことが、昨日までのどの予定より、ちゃんと普通っぽかった。
本屋は、駅前のビルの二階にあった。
少し前、白石から送られてきたリストを見て、僕が一人でメモ帳を買った場所だ。
入口の自動ドアが開くと、紙とインクの匂いがした。
冷房の風が少し強くて、白石が肩をすくめる。
「ここか」
「ここ」
「高瀬くんが、私のリスト用にメモ帳を買った場所」
「リスト用って言うな」
「違うの?」
「違わないけど」
白石は満足そうにうなずいた。
「では、聖地です」
「本屋に迷惑だろ」
「静かな聖地なので」
店内は静かだった。
雑誌の棚。
漫画の新刊台。
参考書のコーナー。
文具売り場。
前に一人で来た時は、棚の並びなんてほとんど覚えていなかった。
メモ帳を探して、買って、すぐ帰った。
でも今日は、白石が隣にいる。
同じ棚を見ても、前とは違う場所に見えた。
「メモ帳、見る?」
白石が聞いた。
「また買うのか」
「恋人版が必要かもしれません」
「何を書くんだよ」
「彼氏くん観察記録」
「やめろ」
「一ページ目、駅前で照れる」
「事実だとしても書くな」
白石は声を出さずに笑った。
文具売り場の前で、小さなメモ帳をいくつか手に取る。
表紙が青いもの。
罫線が細いもの。
ページの端に小さな花が印刷されているもの。
白石は一冊ずつめくって、真剣に比べている。
「本当に買うのか」
「迷っています」
「そんなに違う?」
「違います。書くことが残るので」
その言い方が、急に静かになった。
白石は手に取った薄い黄色のメモ帳を見ている。
夕焼けプリンの箱より少しだけ薄い色。
「残るなら、ちゃんと選びたい」
僕は返事を急がなかった。
店内に、ページをめくる音がいくつも重なっている。
どこかで子どもが「これ買って」と小さく言った。
白石はそのメモ帳を戻し、隣の棚へ移る。
「今日は、買わない」
「いいのか」
「うん」
白石は本棚の間を歩きながら言った。
「高瀬くんが一人で買ったメモ帳があるから」
「僕のだろ」
「共同事業者の資産です」
「また増えた」
「でも、あれに書いてあるリスト、私のだから」
「そうだな」
「なら、今日は見るだけでいい」
白石は、そう言って僕の手を少しだけ握り直した。
手をつないだまま本屋を歩くのは、思っていたより難しかった。
棚の前で人とすれ違うたび、手を離すか迷う。
白石も同じように迷っているのが、指先の力で分かる。
一度、参考書コーナーの角で小学生とぶつかりそうになり、僕たちは同時に手を離した。
その瞬間、白石が小さく「あ」と言った。
すぐに、何でもなかった顔をする。
「通行上の一時解除です」
「申請制?」
「緊急時は事後報告で可」
「便利だな」
「便利じゃないと運用できません」
小学生が通り過ぎる。
僕は白石の手を見た。
白石も、僕の手を見た。
今度は何も言わず、もう一度つないだ。
さっきより自然だった。
たぶん、少しだけ。
参考書コーナーには、夏休み用の問題集が積まれていた。
英語。
数学。
現代文。
表紙には「一週間で完成」とか「これだけで総復習」とか、やけに頼もしい言葉が並んでいる。
白石は数学の薄い問題集を一冊持ち上げた。
「一週間で完成」
「終業式前にやる量じゃないな」
「人生、一週間で完成しないかな」
「しないだろ」
「ですよね」
白石は問題集を棚に戻した。
その手の動きは軽かった。
けれど、少しだけ遅かった。
終業式。
あと五日。
夏休み前の学校生活は、もう数えられるところまで来ている。
僕は、その数字を口にしなかった。
白石も言わなかった。
代わりに、漫画の棚へ移動した。
表紙に大きな目の女の子と、壁に手をつく男の子が描かれている。
白石がそれをじっと見る。
「壁ドン」
「急に何」
「資料で見たことがあります」
「また世間か」
「少女漫画方面の世間」
「範囲が急に狭くなったな」
白石は表紙を見たまま、少し考える。
「実際にされたら、怖くない?」
「場所によるんじゃないか」
「階段の踊り場とか?」
「それは通行の邪魔」
「防災上よくない」
「現実的だな」
白石は漫画を棚に戻した。
「では、壁ドンは見送り」
「何の審査だったんだよ」
「恋人っぽいことリスト」
「増やすな」
「手をつないで歩くだけで忙しいので」
そう言って、白石はつないだ手を少し持ち上げた。
その仕草は軽かった。
でも、指先は離れなかった。
本屋を出る前に、白石は店の入口近くで足を止めた。
「写真」
「本屋で?」
「買ってないから、証拠がない」
「証拠品にこだわるな」
「今日は、残るものが少ないので」
その声に、僕は少しだけ引っかかった。
残るものが少ない。
買い物をしなかったから、レシートも袋もない。
でも、本当はそれだけではない気がした。
僕はスマホを出した。
「撮るか」
「本棚を?」
「入口と、手」
「手?」
白石は自分の手元を見る。
僕たちはまだ、手をつないでいた。
「顔は?」
僕が聞くと、白石は少し迷った。
「今日は、手」
「顔じゃなくていいのか」
「顔は、終業式の日にとっておく」
とっておく。
その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
僕は何も言わず、つないだ手と本屋の入口が少しだけ入るように写真を撮った。
画面の中で、僕たちの手は思ったより普通に見えた。
普通すぎて、少し怖かった。
この写真だけ見たら、誰も、あと数日で白石がこの町を離れるなんて思わない。
白石は画面を見て、うなずいた。
「採用」
「展示品?」
「まだ未定」
「珍しいな」
「今日は、まだ名前をつけないでおきます」
白石はそう言って、スマホをしまった。
そのあと、駅前の路地にある小さなベーカリーカフェに入った。
ファミレスではない別の店。
白石が「ファミレスはこの前行ったから、別の店」と言って選んだ場所だった。
ガラスケースの中には、サンドイッチと小さなケーキ、丸いクリームパンが並んでいる。
店内は狭く、二人掛けの席が三つだけ。
窓際の席に座ると、通りを歩く人の足元が見えた。
白石はトレーの上のクリームパンを見ている。
「プリンじゃない」
「日曜だからな」
「プリンではない甘いもの」
「浮気みたいに言うな」
「夕焼けプリンには内緒です」
「プリンに誠実でいろ」
白石はクリームパンを半分に割った。
中から、黄色いクリームが少しはみ出る。
「半分こ、再実施」
「アイスで達成済みだろ」
「パン部門は未達成です」
「部門が増え続ける」
「うちは多角経営なので」
白石は半分を僕へ差し出した。
僕は受け取る。
指が少し触れた。
もう手はつないでいないのに、その一瞬だけで、さっきまでの手の温度を思い出した。
クリームパンは、柔らかかった。
パン生地は少しだけ甘くて、クリームは冷えている。
白石は一口食べて、目を細める。
「これは、普通においしい」
「普通」
「普通に」
「プリンの時と同じ感想だな」
「高瀬くんの語彙が移りました」
「悪影響だろ」
「でも、普通って便利」
白石は窓の外を見た。
「すごくおいしいって言うと、特別な日みたいになる」
「今日も特別じゃないのか」
「特別だけど」
白石は指についたクリームを紙ナプキンで拭いた。
「特別にしすぎると、帰る時さびしい」
僕はクリームパンを持つ手を止めた。
白石は笑っていない。
泣きそうでもない。
ただ、窓の外を歩く人たちを見ている。
買い物袋を持った母親。
手を引かれている子ども。
自転車を押す老人。
誰かの日曜日が、当たり前みたいに流れていく。
「今日を普通にしたいのか」
僕が聞くと、白石は少し考えた。
「普通にしたい。でも、忘れたくはない」
「難しいな」
「難しいです」
白石はカップの水を少し飲んだ。
氷が小さく鳴る。
「楽しいのに、楽しいって思うたびに、あと何回こういう日があるのかなって考える」
僕は何か言いそうになって、飲み込んだ。
また来ればいい。
あの日、海で僕はそう言った。
簡単に言う、と白石は返した。
今なら、その意味が少し分かる。
また来ればいい。
言葉としては簡単だ。
でも、同じ日曜日は戻ってこない。
今日の白石の私服も、駅前の暑さも、本屋でつないだ手も、この店のクリームパンも、全部今日のものだ。
「また来よう」
それでも、僕は言った。
白石がこちらを見る。
「簡単に言った」
「分かってる」
「じゃあ、なぜ」
「簡単じゃないって分かった上で、言いたかった」
白石は、少しだけ目を伏せた。
「強いね」
「強くはない」
「じゃあ、ずるい」
「それは前にも聞いた」
「大事な言葉なので」
「便利に使うな」
「大事なものは、何度使っても減りません」
「誰の許可だよ」
「白石法」
白石は笑った。
今度はちゃんと笑った。
でも、その笑いはすぐに消えなかった。
ゆっくり残って、窓の外の光に混ざった。
店を出ると、午後の空は少しだけ白く曇っていた。
午前中の強い日差しがやわらいで、風に湿り気が混ざっている。
駅前の通りを歩きながら、白石が空を見る。
「降るかな」
「雨?」
「相合傘、未達成なので」
「ここで狙うのか」
「でも、傘がない」
「僕は折り畳み持ってる」
白石がこちらを見た。
「準備がいい」
「前に入れたままだった」
「過去の高瀬くん、えらい」
「現在の僕は?」
「傘を開いたら評価します」
ポツ、と歩道に小さな点が落ちた。
続いて、もう一つ。
雨は強くなかった。
けれど、すぐ止む感じでもない。
僕は鞄から折り畳み傘を出した。
黒い傘。
二人で入るには、少し小さい。
「相合傘、実施可能」
白石が言う。
「かなり狭いぞ」
「資料では、狭い方がそれっぽい」
「また資料」
「今回は世間ではなく、漫画棚です」
「あれか」
「壁ドンは見送り。でも、相合傘は実施です」
僕は傘を開いた。
小さな音がして、黒い布が広がる。
白石がその下に入る。
自然に、距離が近くなった。
肩が触れる。
腕が触れる。
傘の端から落ちる雨粒が、白石の鞄に少し当たった。
僕は傘を白石側へ寄せる。
すると、僕の右肩が濡れた。
白石はすぐに気づいた。
「高瀬くん、傾けすぎ」
「そっち濡れるだろ」
「共同事業です」
白石は傘の柄に手を添えた。
僕の手のすぐ下。
「半分」
「傘も半分こか」
「はい」
雨は細かく、駅前のタイルを少しずつ濃くしていく。
日曜日の人たちが、足早に屋根の下へ向かっている。
僕たちは、急がなかった。
傘の中だけ、外より音が近い。
白石の呼吸。
雨の粒。
靴音。
それから、つないでいないのに近い手。
白石の肩が、また僕の腕に触れた。
避けようと思えば、避けられる距離だった。
でも、白石は避けなかった。
僕も、傘を持つ手を動かさなかった。
黒い傘の下で、二人分の歩幅だけが少し遅くなる。
「狭いね」
白石が言った。
「だから言っただろ」
「でも、ちょうどいいです」
「どこが」
「離れなくて済むところ」
返事を探している間に、雨の音が少しだけ強くなった。
白石は傘の柄に添えた指を、ほんの少し僕の手に近づける。
触れそうで、触れない。
でも、その距離のままでも、今日は十分近かった。
雨は十分もしないうちに弱くなった。
雲の隙間から日差しが戻り、傘の端から落ちる雨粒が急に明るくなる。
駅前のロータリーが見えてきた。
バスが入ってくる。
日曜日が、少しずつ終わる方へ流れていく。
白石は傘の中で、歩く速度を少しだけ落とした。
「楽しい日って」
声が小さかった。
「終わるの早いね」
その言葉を聞いた瞬間、僕は今日一日を頭の中で巻き戻した。
駅前で待っていた時間。
私服の白石。
手をつないだ本屋。
買わなかったメモ帳。
本屋の入口で撮った手の写真。
クリームパンの半分こ。
小雨。
狭い傘。
その全部が、もう少し前のことみたいに遠くなっている。
「まだ終わってない」
僕は言った。
白石がこちらを見る。
「強めに来た」
「終わってないだろ」
「駅前だよ」
「改札まではある」
「短い」
「短くても、まだある」
白石は、傘の柄を握る僕の手に、自分の指を少しだけ重ねた。
「じゃあ、改札まで」
「うん」
「ゆっくり」
「ゆっくり」
駅の屋根の下に入ると、傘を閉じた。
濡れた布から、雨の匂いが立つ。
白石はハンカチで鞄の端を拭いた。
僕の右肩を見て、少しだけ眉を寄せる。
「濡れてる」
「少し」
「半分こ失敗」
「次はうまくやる」
「次」
白石はその言葉を繰り返した。
ほんの小さく。
僕はすぐに言い足さなかった。
次がある。
そう言いたい。
でも、それを簡単な言葉にしたくなかった。
白石は改札の前で、僕の方を向いた。
「今日、普通でした」
「本屋行って、パン食べて、雨に降られて、傘に入っただけだからな」
「それが、普通」
「そうだな」
「でも」
白石はスマホを取り出して、本屋の入口で撮った写真を一度だけ見た。
「普通なのに、残したい」
「じゃあ、これは残そう」
白石はスマホの画面を見たまま、親指を止めた。
本屋の入口。
重なった手。
買わなかったメモ帳の代わりに残った、一枚。
「……軽く聞こえる」
「軽くは言ってない」
「じゃあ?」
「今日の分は、ちゃんと残したい」
白石は目を伏せた。
「なら、受理します」
定期券を取り出す前に、白石は僕の手を取った。
ほんの一瞬だけ。
今日の最初みたいに、ちゃんと指を絡めるのではなく、指先だけを重ねる。
「今日の分」
「分割払いか」
「日曜日は高価なので」
「高級品だったか」
「はい」
白石は笑った。
それから、手を離した。
「また明日」
その言葉は、いつもより少しだけ寂しそうだった。
でも、ちゃんと明日に向いていた。
「また明日」
僕が返すと、白石は改札に定期券を触れさせた。
ゲートが開く。
白石は一歩進んでから、振り返る。
「写真」
「送る」
「本屋の手のやつ」
「了解」
「あと」
白石は少しだけ考えた。
「今日、帰りたくないって、ちょっと思いました」
五番目の予定。
僕は鞄の中のメモを思い出した。
「僕も」
白石は目を丸くした。
それから、満足そうにうなずく。
「達成」
そう言って、今度こそ改札の向こうへ歩いていった。
白石の後ろ姿が、人の流れに混ざっていく。
私服の水色が、駅の光の中で少しずつ遠くなる。
僕はスマホを開いた。
さっき撮った写真を見る。
本屋の入口で重なった手。
顔は写っていない。
それなのに、今日の白石がそこにいる気がした。
何でもない一日みたいに見える。
普通の一日。
でも、その普通が、あと何回あるのかを考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
僕は写真を一枚、白石に送った。
すぐに既読がついた。
返信は短かった。
『日曜日、採用』
僕はその文字を見て、少し笑った。
それから、スマホをしまう。
駅の外へ出ると、雨はもう上がっていた。
濡れたアスファルトに、夕方の光が薄く広がっている。
今日の空は、病室に持っていける形では残らない。
容器もない。
レシートも、メモ帳も買わなかった。
それでも、手のひらには、白石の指の温度がまだ残っていた。
僕はその手を軽く握って、駅前の道を歩き出した。




