第十二話
金曜日の朝、隣の席に白石がいた。
それだけのことなのに、僕は教室の入口で一度足を止めた。
二週間前の金曜日、そこは空席だった。
机の横に鞄はなく、椅子は朝から一度も引かれず、僕は放課後に夕焼けプリンを二つ買って、結局ひとりで一つを食べた。
一週間前の金曜日、白石は戻ってきた。
屋上へは行けなかったけれど、階段の踊り場でプリンを食べて、空き容器がただの空き容器ではなくなった。
そして今日。
七月十四日。
白石は隣の席にいて、ノートを開いて、シャープペンの芯を出しすぎて折っていた。
「朝から縁起が悪い」
白石は折れた芯を見て言った。
「芯が折れただけだろ」
「金曜日の第一被害者です」
「被害者認定が早い」
「犯人は筆圧」
「自首してるな」
白石は折れた芯を小さくティッシュに包んだ。
その動きがやけに丁寧で、僕は少し笑いそうになって、やめた。
笑ったら、たぶん白石は「芯を悼んでください」と言う。
言いそうだ。
言いそうだと思えるくらいには、昨日より空気が戻っていた。
完全ではない。
水曜日の朝に手をつないで、金曜日係が更新されて、彼氏くんという名前が増えた。
それでも木曜日の教室では、宮野と白石が廊下で短く話していた。
僕は少し離れたところに立っていた。
会議じゃなくて、一緒に。
白石はそう言った。
だから僕は、二人の会話に割り込まなかった。
宮野は謝って、白石はうなずいた。
何を話したのか、全部は聞いていない。
ただ、白石が最後に「大丈夫って言うとまたややこしいから、今日は保留で」と言って、宮野が少しだけ泣きそうな顔で笑ったのは見えた。
保留。
それは、関係が終わっていない時の言葉だった。
朝の教室はいつも通り騒がしい。
男子が小テストの範囲を今さら確認し、誰かが購買の新作パンの話をしている。
窓際のカーテンが、七月の風で膨らんだ。
白石は新しい芯を出して、今度は慎重に文字を書いた。
僕はその横顔を見ていた。
見すぎた。
白石が、こちらを見ないまま言う。
「彼氏くん」
僕は反射的に背筋を伸ばした。
「何」
「反応が新入社員」
「まだ慣れてないんだよ」
「研修期間です」
「研修内容は」
「呼ばれるたびに、落ち着く」
「難易度が高い」
白石はノートの端に、小さく丸を描いた。
そこに、金曜日、と書く。
「今日は、ちゃんと金曜日」
「毎週そうだろ」
「今日は特に」
白石は窓の外を見た。
グラウンドでは、朝練を終えたサッカー部がボールを片付けている。
僕の視線が一瞬そちらへ流れたことに、白石は気づいたはずだった。
でも何も言わない。
何も言わないまま、ノートの端にもう一つ、小さな丸を描く。
そこには、プリン、と書かれた。
「二つ」
白石が言った。
「買う」
「まだ何も言ってません」
「言う前に分かる」
「先読み機能つき」
「金曜日係だからな」
「兼任ですね」
「肩書きが増えてきた」
「高瀬くん、名刺が必要」
「どこに出すんだよ」
「《ミモザ》」
白石が口元だけで笑った。
その顔は、昨日までのぎこちなさを全部消すほどではなかった。
でも、ちゃんと今日のものだった。
放課後、僕たちは《ミモザ》へ向かった。
七月の金曜日は、校門を出るだけで空気の密度が変わる。
昼間の熱がアスファルトに残り、信号待ちの間に靴の中までぬるくなる。
遠くで蝉が鳴いている。
一匹だった声は、いつの間にか何匹分にも増えていた。
白石は日陰を選びながら歩いている。
僕はその半歩横を歩いた。
手はつないでいない。
学校から駅前までの正式運用は、まだ審査中らしい。
でも、横断歩道で車が曲がってきた時、白石の指が一瞬だけ僕の袖をつまんだ。
安全対策、と言わなかった。
僕も言わなかった。
信号が青に変わる。
白石は袖を離して、何でもない顔で歩き出す。
「今のは」
僕が言うと、白石は前を向いたまま答えた。
「袖です」
「見れば分かる」
「なら説明不要です」
「そういうことじゃなくて」
「審査中なので」
「何の」
「手の正式運用」
「袖はいいのか」
「暫定処置」
「便利だな」
「彼氏くん相手なので」
その言葉で、僕は返事に遅れた。
白石は勝った顔をしない。
ただ、耳だけが少し赤い。
《ミモザ》の前には、すでに何人か並んでいた。
金曜日限定の小さな列。
二週間前も、僕はここに並んだ。
白石が来ない教室へ戻るために。
一週間前も、僕はここに並んだ。
踊り場で、白石と食べるために。
今日は、隣に白石がいる。
僕の前でも後ろでもなく、隣に。
店のガラス戸の向こうに、夕焼けプリンが並んでいる。
薄いオレンジ色のジュレが、店内の照明を受けて光っていた。
「何個買う?」
白石が聞いた。
「二つ」
「即答」
「指定があったから」
「彼氏くん、プリン二つ」
「業務命令?」
「違います」
白石はまっすぐ僕を見る。
「恋人特権です」
列の前の人が少し動く。
僕は一歩進むのが遅れた。
白石が小さく息を抜く。
「急に強いな」
「水曜日から考えていたので」
「考えてたのか」
「言い方を」
「そこまで」
「初回特典が必要です」
「プリン二つが?」
「私が言います」
「何を」
「恋人特権」
もう一度言われて、今度は僕が顔をそらした。
店のガラスに、少しだけ自分の顔が映っている。
たぶん、かなりひどい顔をしている。
白石がそれを見て、満足そうにうなずいた。
「高評価」
「白石評価、最近怖い」
「恋人仕様なので」
「仕様変更が多い」
「更新制です」
店に入ると、冷房の風と甘い匂いが流れてきた。
おばあさんがカウンターの向こうで顔を上げる。
「あら」
その一言だけで、何かを見抜かれた気がした。
白石が先に頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は二人で?」
「はい」
白石はそこで一度止まった。
僕の方を見る。
僕は財布を出していた手を止める。
「二人で、です」
白石が言い直した。
おばあさんは目を細めた。
「いい金曜日ね」
その言い方が、やけに自然だった。
からかいでも、詮索でもない。
ただ、金曜日がちゃんと続いていることを見ている声だった。
「夕焼けプリン、二つください」
僕が言うと、おばあさんは頷いて、箱を用意した。
白石は隣で、店内の棚を見ているふりをしている。
でも、口元が緩んでいる。
会計を済ませ、淡い黄色の箱を受け取る。
箱は軽い。
でも、今日の箱は、二週間前のものとも、一週間前のものとも重さが違った。
店を出ると、白石が箱を指さした。
「持ち方、慎重」
「傾けたら困る」
「プリンを守る彼氏くん」
「名称が長い」
「略して」
「略すな」
「彼氏くん」
「結局それか」
白石は歩き出した。
駅前のベンチではなく、今日は学校へ戻る道の途中にある小さな公園へ向かった。
木陰に古いベンチが一つある。
遊具は滑り台と鉄棒だけ。
放課後の小学生たちはまだ来ていなくて、公園は空いていた。
白石はベンチに座り、鞄からウェットティッシュを出した。
「準備がいいな」
「プリンは行事なので」
「儀式感が増してる」
「恋人後初金曜日なので」
また不意打ちで言われる。
僕は箱を開けながら、返事を探して失敗した。
夕焼けプリンが二つ並んでいる。
透明な容器。
薄いオレンジ色のジュレ。
カスタード。
底のカラメル。
スプーンを渡すと、白石は両手で受け取った。
その手つきは、いつも以上に丁寧だった。
でも、今日の白石は一口目の前に目を伏せなかった。
僕を見る。
「いただきます」
「いただきます」
二人でふたを開ける。
プラスチックの軽い音が、木陰に落ちた。
白石は一口食べて、目を細める。
僕も食べた。
冷たい。
卵の味と、オレンジの香り。
けれど、それだけで片付けるには、いろいろな金曜日が混ざっていた。
「どう?」
白石が聞く。
「うまい」
「普通」
「普通にうまい」
「前にも聞いた気がします」
「プリンの感想は難しいんだよ」
「彼氏くん、語彙審査中」
「厳しいな」
「じゃあ、今日だけ追加点があります」
「何で」
「一緒に食べているので」
白石はそう言って、自分のプリンをもう一口食べた。
僕はスプーンを持ったまま、箱の端に置かれたふたを見た。
食べ終われば、また容器が残る。
空き容器。
夕焼けの材料。
行ってきました展の展示品。
今までなら、その先をすぐ考えていた。
どう使うか。
どこに置くか。
何に残すか。
でも今日は、まだ中身がある。
白石が隣で食べている。
それだけを、もう少しそのまま見ていたかった。
「高瀬くん」
「何」
「見すぎ」
「悪い」
「プリンを見てた?」
白石が、わざとらしく容器の方へ視線を落とした。
「どっちも」
言ってから、完全に失敗したと思った。
白石のスプーンが止まる。
こっちを見るまでに、妙な間があった。
「今の」
「なし」
「再発行申請します」
「そんな制度はない」
「あります。恋人特権です」
白石はそう言って、口元を隠した。
笑っている。
たぶん、かなり笑っている。
僕は自分のプリンを食べる。
冷たさで落ち着くと思ったのに、全然落ち着かなかった。
公園の木の葉が風で鳴る。
遠くの道路から、バスのブレーキ音が聞こえる。
七月の午後はまだ明るくて、夕方になるには少し早い。
白石はプリンを食べ終えると、容器をすぐには片付けなかった。
膝の上に置き、底を光にかざす。
「今日の容器は」
僕が聞くと、白石は容器越しに空を見た。
「恋人後初金曜日容器」
「名前が長い」
「略して」
「略さなくていい」
「じゃあ、長いまま採用」
白石は容器を見下ろす。
「でも、今日は材料っていうより、記録かな」
「記録」
「ちゃんと来た金曜日の記録」
その言葉で、あの日の空席がまた頭の中に浮かんだ。
誰も座っていない隣の席。
食べられなかったプリン。
洗ってしまった容器。
捨てられなかった透明な形。
「来たな」
僕が言うと、白石はうなずいた。
「来ました」
「金曜日に」
「金曜日に」
「隣に」
「隣に」
沈黙が落ちる。
でも、それは気まずい沈黙ではなかった。
白石は鞄からスマホを出した。
「写真、送る」
「美和子さんに?」
「うん。恋人後初金曜日報告」
「そのまま送るのか」
「さすがに文面は整えます」
白石は容器をベンチの上に置き、プリンの箱と一緒に写真を撮った。
僕の手が写り込んでいた。
「消す?」
僕が言うと、白石は画面を確認した。
「消さない」
「手だけだぞ」
「彼氏くんの手なので」
「手にも肩書きがついた」
「重要部位です」
「言い方」
白石はメッセージを打つ。
画面は見ないようにした。
でも、白石の指が何度か止まるのは分かった。
明るい報告。
楽しい報告。
その形に整えるまで、言葉を選んでいる。
やがて、送信音が鳴った。
白石はスマホを伏せる。
「送った」
「何て」
「金曜日、ちゃんと来ました。プリンも二つです」
「それだけ?」
「あと、彼氏くんが変な顔をしました」
「送るなよ」
「送ってないです」
「危ない」
「でも、お母さんなら見抜く」
「何を」
「だいたい」
白石は笑った。
その笑い方が自然だったので、僕も安心しかけた。
安心しかけたところで、スマホはなかなか鳴らなかった。
一分。
二分。
公園の外を、小学生の声が通り過ぎる。
鉄棒の近くに、蝉の抜け殻がひとつ残っていた。
白石はスマホを伏せたまま、容器のふたを重ねている。
一枚。
二枚。
きれいに重ねたあと、もう一度ずらして、また揃える。
「病院、忙しい時間かもな」
僕が言うと、白石はすぐに頷いた。
「検温とか、たぶん」
「たぶん禁止じゃないのか」
「今日は許可」
「そうか」
白石はそう言ったあと、返事の来ないスマホを見た。
美和子さんが、僕たちの金曜日にいつでもすぐ返事をくれるわけではない。
そんな当たり前のことを、僕は少しずつ覚え始めていた。
病室には、僕たちの時間とは別の時間が流れている。
プリンを食べ終えても、写真を送っても、金曜日が来ても、そこだけは簡単にこちらへ合わせられない。
「白石」
「何」
「待ってる間、歩くか」
白石は僕を見る。
「どこへ」
「駅まで。暑いけど」
「理由は?」
「座ってると、スマホばかり見るだろ」
白石は一瞬だけ目を丸くした。
それから、容器を箱に戻す。
「彼氏くん、改善が早い」
「予定にする前に聞いた」
「そこ、大事です」
「覚えたからな」
僕たちは公園を出た。
手はつながなかった。
でも、白石はさっきより近い距離で歩いていた。
駅前へ向かう道は、金曜日の夕方に少しずつ近づいている。
商店街の店先には、夏祭りのポスターが貼られていた。
赤い提灯。
金魚すくい。
花火大会の文字。
この前の使い残しの花火が、鞄の中で小さく鳴った。
まだ保留案件。
でも、いつかちゃんとやり直すもの。
白石もその音に気づいたのか、僕の鞄を見た。
「あの時の花火まだ持ってる?」
「持ってる」
「えらい」
「捨てないって言ったからな」
「約束を守るタイプ」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「守る」
白石は満足そうに前を向いた。
駅前のロータリーに着く頃には、白石の歩く速度が少し落ちていた。
「休むか」
僕が聞くと、白石は少し迷ってから頷いた。
バス停の近くにある屋根つきのベンチに座る。
目の前をバスが通り過ぎ、排気ガスの匂いが熱い空気に混じった。
白石は夕焼けプリンの箱を膝に置き、スマホをその上に伏せた。
「眠い?」
「質問の仕方が改善されてる」
「眠いかどうかなら、聞いてもいいかと思って」
「眠いです」
白石は素直に言った。
そのあと、何か付け足そうとして、やめる。
僕は鞄の位置を変えた。
白石の肩が、ゆっくり近づく。
最初は偶然かと思った。
でも、二度目のバスが通り過ぎた時、白石の頭が僕の肩に触れた。
軽い。
けれど、確かに重さがある。
僕は動かなかった。
動いたら、全部なかったことになりそうだった。
白石は目を閉じていた。
眠っているのか、眠るふりをしているのかは分からない。
ただ、呼吸が少しずつ深くなっていく。
バス停の時刻表。
駅前の信号。
自転車のブレーキ音。
そういうものを見ながら、僕は肩の重さだけを意識していた。
スマホが震えたのは、それから少ししてだった。
白石の膝の上で、画面が短く光る。
白石は目を開けた。
「寝てた?」
「少し」
「重かった?」
「少し」
白石は顔を上げ、僕を見る。
「嘘でも軽いって言って」
「軽かった」
「順番」
「悪い」
白石は箱の上のスマホを取った。
けれど、画面を見る前に、小さく言った。
「でも、好き」
駅前の音が、妙にはっきり聞こえた。
バスのエンジン。
信号の電子音。
遠くの店から流れるセールの声。
その中で、白石はスマホの画面を開いた。
僕は返事をするタイミングを失った。
失ったまま、隣で画面を見る。
美和子さんからだった。
『金曜日、おかえり。プリン二つ、いいね。今日は少し眠ってたので返信遅れました。ひなたも陽斗くんも、ちゃんと食べてください。容器は洗ってから持ってきてね。会長より』
最後に、小さな夕焼けの絵文字がついていた。
白石は画面を見たまま、笑った。
「会長、権限が強い」
「容器の指示まで出てる」
「現場把握が早い」
「返信、来てよかったな」
「うん」
白石は頷いた。
けれど、その返事は少しだけ遅かった。
眠っていた。
返信が遅れた理由は、それだけだ。
それだけなのに、白石の指が画面の端を押さえたまま止まっている。
僕は励まさなかった。
大丈夫とも言わなかった。
ただ、隣に座っていた。
白石はスマホを胸の前で持ったまま、駅前の方を見る。
「眠ってたんだって」
「ああ」
「ちゃんと寝られたなら、いいことです」
「そうだな」
「でも、返信が遅いと、ちょっとだけ怖い」
白石は自分で言ってから、少し驚いたような顔をした。
たぶん、怖いと言えたことに驚いたのだと思う。
「怖かったか」
「ちょっと」
「そっか」
「今の、ちゃんと受理してください」
「受理する」
白石はスマホをしまった。
「では、次の議題です」
「急だな」
「怖い話だけで終わると、金曜日が気まずくなるので」
「議題は?」
「日曜日」
「日曜日?」
「ご褒美デート日です」
「自分で言うのか」
白石は一瞬だけ目を泳がせた。
「違う。恋人後初デート日です」
「訂正して強くなった」
「合法です」
「何をするんだ」
「本屋に行く」
僕は少しだけ反応に遅れた。
「本屋?」
「この前、高瀬くんが一人でメモ帳を買ったところ」
「知ってたのか」
「聞きました」
「誰に」
「高瀬くんに。前に」
「言ったか?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「今日は二回まで許可」
白石は指を一本立てる。
「本屋。あと、別の店で何か食べる。ファミレスはこの前行ったから、少し変える」
「普通リストの続きか」
「恋人版です」
「難易度が上がってる」
「手をつないで歩く、も追加」
「それは」
「審査通過済み」
「いつ」
「さっき」
白石は言い切った。
僕は、肩に残っている重さを思い出した。
白石もたぶん、同じことを思い出している。
耳が赤かった。
「日曜日、ちゃんと彼氏くんする?」
「仕事内容が曖昧すぎる」
「では、具体化します」
「はい」
「手をつなぐ。写真を撮る。本屋で迷う。帰りたくないって、ちょっとだけ思う」
最後の一つだけ、声が小さかった。
僕は頷いた。
「する」
「即答」
「予定にしていいんだろ」
「これは私が言ったので」
「じゃあ、予定にする」
白石はうなずいた。
バスが停まり、人が降りてくる。
金曜日の夕方が、駅前に少しずつ溜まっていく。
帰り際、白石は夕焼けプリンの箱を軽く持ち上げた。
中には、洗う前の容器が二つ。
今日の金曜日の形が残っている。
「容器、洗わないと会長に怒られる」
「今日中に?」
「明日、病院に持っていく」
「行くのか」
「うん。写真も見せる」
「僕も?」
白石は首を傾けた。
「来る?」
「行っていいなら」
「聞くの、えらい」
「業務改善したからな」
「じゃあ、採用」
白石はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「でも、明日は短めで」
「分かった」
「日曜日に、ちゃんと遊ぶので」
「分かった」
「彼氏くん」
「何」
「忙しいね」
「後悔はしてない」
白石は、満足そうに頷いた。
「なら、いいです」
駅の改札前で別れる。
水曜日みたいな痛い沈黙はなかった。
白石は改札に定期券を触れさせる前に、こちらを振り返る。
「また明日」
その言葉が、ちゃんと戻ってきた。
昨日でもなく、今日でもなく、明日へ向かう形で。
「また明日」
僕が返すと、白石は小さく手を振った。
淡い黄色の箱を抱えて、改札の向こうへ入っていく。
僕はその背中を見送った。
彼氏くんは、まだ何をすればいいのかよく分からない。
でも、白石の肩の重さと、袖をつままれた感触だけが、身体の近くに残っていた。
日曜日、手をつないで歩く。
それはもう、僕の中で予定になっていた。




