第十一話
水曜日の朝、昇降口はいつもより音が大きかった。
下駄箱の扉が閉まる音。
誰かのローファーが床を叩く音。
傘立てに残った折り畳み傘の金具が、風で小さく触れ合う音。
七月の朝はもう暑くて、開け放たれた昇降口から湿った空気が流れ込んでいた。
僕は自分の下駄箱の前で、靴を履き替えないまま立っていた。
手には、昨日の使い残しの花火の袋。
持ってくるつもりはなかった。
でも、机の上に置いたままにしておくと、あの河川敷だけが部屋の中に残る気がした。
だから鞄に入れた。
入れたあとで、何をするつもりなのか分からなくなった。
白石に返すのか。
捨てるのか。
持っているだけなのか。
袋の中で、火のつかなかった細い棒がかすかに鳴る。
その音が、昨日の改札前の沈黙に似ていた。
「高瀬くん」
声がして、顔を上げた。
宮野だった。
鞄を肩にかけ、片手にスマホを持っている。
いつもなら少し明るめに声をかけてくるのに、今日は下駄箱の列の手前で止まった。
「昨日、ごめん」
最初にそう言った。
僕は返事に詰まった。
宮野のせいじゃない、と言うのは簡単だった。
でも、それはたぶん、白石が言うべきことを僕が先に奪う言葉になる。
「僕が頼んだ」
だから、そう言った。
宮野は目を伏せる。
「でも、私も広げた。何かできるならって思って」
「分かってる」
「白石さん、来てる?」
「まだ見てない」
「そっか」
宮野はスマホを握り直した。
「今日、私から謝る。けど、タイミングは見る」
「それでいいと思う」
「高瀬くんは?」
僕は花火の袋を見た。
「分からない」
宮野は、それ以上聞かなかった。
「じゃあ、先に行くね」
宮野が校舎の奥へ歩いていく。
その背中を見送ってから、僕は靴を履き替えた。
昇降口に朝の光が入っている。
白いタイルの上に、生徒たちの影が短く落ちていた。
その中に、白石の姿はまだなかった。
教室へ行くべきだった。
席に着いて、何でもない顔をして、白石が来るのを待つ。
でも、足は廊下の端へ向かった。
昇降口から少し離れた、自動販売機の横。
そこなら、教室へ向かう生徒の流れから少し外れる。
昨日の夜、白石から連絡は来た。
『病院、落ち着いた』
それだけだった。
僕は『よかった』と返した。
既読はついた。
そのあと、何も来なかった。
スマホを何度も見ていいと言われた。
実際、何度も見た。
でも、見るたびに画面は変わらなかった。
自動販売機の低い音を聞きながら立っていると、昇降口の方で少しざわめきが動いた。
白石ひなたが入ってきた。
制服の上に、薄いカーディガン。
髪はいつもより低い位置で結んでいる。
淡い黄色の紙袋は持っていなかった。
代わりに、普通の鞄だけを肩にかけている。
昨日の河川敷も、一昨日の海の容器も、ファミレスの写真も、今日は見えない。
それが少し怖かった。
白石は僕に気づいた。
一瞬だけ足を止める。
それから、こちらへ歩いてきた。
歩く速さはいつもと同じくらいだった。
でも、目は少しだけ眠そうで、口元は何かを置き忘れたみたいに静かだった。
「おはよう」
僕が言うと、白石はうなずいた。
「おはよう」
それだけで、会話が終わりかけた。
こんなに短い白石の返事を、僕はあまり知らない。
「昨日」
言いかけて、止まる。
謝る順番を間違えたくなかった。
でも、正しい順番なんて分からない。
白石は自動販売機の横に並んで立った。
距離は、少し空いている。
教室の隣席より遠い。
一昨日の海の防波堤より遠い。
昨日のファミレスの写真より、ずっと遠い。
「お母さんは?」
「熱、下がった」
「そっか」
白石は、缶コーヒーの見本を見ていた。
飲むつもりはなさそうだった。
「宮野さんから、連絡きた」
「僕にも来た」
「謝ってくれた」
僕は頷いた。
「悪い人じゃないね」
「分かってる」
「だから、余計に困る」
白石の声は低くなかった。
泣きそうでもなかった。
ただ、昨日よりもまっすぐだった。
「悪意があったら、怒ればいいから」
僕は花火の袋を持つ手に力を入れた。
「ごめん」
白石はすぐには答えなかった。
自動販売機の中で、冷えた缶が並んでいる。
赤いラベル。
青いラベル。
透明なペットボトル。
どれも買われるまで動かない。
「白石の普通を守りたかった」
僕は言った。
「終業式の日、ちゃんと笑えるようにしたかった。病室の夕焼けも、もっと大きくできると思った。空き容器を集めたら、美和子さんにも、もっと見せられるって」
白石は黙っている。
「でも、僕が勝手に、白石の普通じゃないところを広げた」
花火の袋が手の中で鳴った。
「白石の普通を守るつもりで、僕が普通じゃなくした」
言葉にすると、ひどく単純だった。
単純なのに、昨日の僕には見えていなかった。
「ごめん」
白石は缶コーヒーの見本から目を離さなかった。
「助けてほしくないわけじゃない」
小さな声だった。
でも、逃げている声ではなかった。
僕は頷いた。
「宮野さんが嫌だったわけでもない」
その言葉も、否定できなかった。
「終業式に写真を撮りたいって思ってくれたことも、病室の夕焼けを大きくしたいって思ってくれたことも、嫌いじゃない」
白石はそこで、ようやく僕を見た。
「でも、私の知らないところで、私が説明されていくのが怖かった」
僕は何も言えなかった。
「お母さんが病気で、島に引っ越す子。かわいそうな子。大丈夫じゃない子。そういう名前で先に席を取られると、私があとから行っても、座る場所がなくなる」
昨日の言葉が戻ってくる。
かわいそうな白石さんの席は、たぶんどこにでもある。
でも、普通にポテトを食べて、変なドリンクを作って、花火に火がつかなくて笑う白石の席は、すぐなくなる。
「私、自分でも面倒くさいこと言ってるのは分かってる」
白石は自分の指先を見た。
「心配しないで、とは言えない。助けないで、とも言えない。でも、かわいそうって顔で囲まれると、私が何を言っても、その前に『無理しなくていいよ』って言われる気がする」
「うん」
「無理しなくていいよ、って優しい言葉なのにね」
白石は少しだけ笑おうとした。
今度は、途中でやめた。
「それを言われると、私は何を頑張ればいいのか分からなくなる」
廊下を、生徒が何人か通り過ぎた。
こちらを見ないようにしているのか、本当に気づいていないのか分からない。
チャイムまでは、まだ少し時間があった。
「僕も」
僕は言った。
白石がこちらを見る。
「白石のためって言いながら、たぶん自分のためだった」
「高瀬くんの?」
「金曜日がなくなるのが、怖かった」
自分で言って、やっと分かった気がした。
「部活を辞めて、放課後が空いて、そこに白石が来た。最初はプリンを食べられて怒っただけだったけど、いつの間にか、金曜日が白石のいる時間になってた」
白石は黙って聞いていた。
「白石がいなくなるって分かってから、予定を入れれば大丈夫だと思った。一昨日の海。昨日のファミレスと花火。病室の夕焼け。写真。空き容器。やることを増やせば、なくならない気がした」
花火の袋を見下ろす。
「でも、予定にすればするほど、白石を急がせてた」
「……急がせてた?」
「そうだと思う。笑うのも、残すのも、思い出にするのも。全部、間に合わせようとしてた」
白石の目が、少しだけ動いた。
「僕は、白石を助けたいって思ってた。たぶん本当だと思う。でも、それだけじゃなかった。僕も、金曜日を失いたくなかった」
自動販売機の明かりが、白石の横顔を薄く照らしていた。
「だから、昨日間違えた」
白石は、何も言わなかった。
怒っているのか、考えているのか、許そうとしているのかも分からない。
でも、逃げてはいなかった。
僕も逃げたくなかった。
「白石」
名前を呼ぶ。
今日、何度目か分からない。
ルールみたいに呼ぶのではなく、今度はちゃんと届かせるために呼んだ。
「助けたいんじゃなくて」
言いかけて、違うと思った。
助けたい気持ちが嘘だったわけじゃない。
「いや、助けたいのも本当だけど」
白石のまつげが、ほんの少し揺れた。
「それだけじゃなくて、一緒にいたい」
言った瞬間、廊下の音が遠くなった。
「白石が大丈夫な日も、大丈夫じゃない日も。変なことを言う日も、何も言えない日も。笑える日も、笑えない日も」
白石は瞬きをしなかった。
僕は言葉を止めなかった。
止めたら、もう言えない気がした。
「僕は、白石と金曜日を続けたい」
自動販売機の機械音だけが残った。
いつもなら、ここで白石が何か言う。
白石法。
採用。
たぶん禁止。
そういう言葉で、重くなりすぎた空気を少し軽くする。
でも、白石は何も言わなかった。
ただ、僕を見ていた。
その沈黙が長すぎて、僕はもう一歩だけ踏み込んだ。
「好きだ」
言ってから、心臓が遅れて跳ねた。
「白石が好きだ」
白石の指が、カーディガンの袖をつまんだ。
いつもの癖みたいに。
でも、すぐに離す。
「今、言うんだ」
声はかすれていなかった。
でも、少しだけ震えていた。
「昨日、間違えたから」
「間違えたら、告白?」
「順番としては最悪だと思う」
白石は、そこで初めて目を伏せた。
「うん。かなり最悪」
「知ってる」
「でも」
その先がなかなか来ない。
廊下の向こうで、チャイム前の予鈴が鳴った。
短い音が、校舎の中へ広がっていく。
白石はそれを聞いて、少しだけ息を吸った。
「私も、昨日ずっと考えてた」
僕は黙って続きを待った。
「怒ってた」
それは、聞くべき言葉だった。
「でも、金曜日係を解雇したいとは思わなかった」
思っていたより変な方向から返ってきて、僕は一瞬だけ反応に遅れた。
白石は、その遅れを見て、少しだけ口元を動かした。
「ただ、業務改善命令は出します」
「何を」
「私のことを、私抜きで会議しない」
「する」
「大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないだろって決めつけない」
「する」
「予定にする前に、私に聞く」
「する」
白石はそこで、僕の手元を見た。
「あと、その花火」
「これ」
「保留案件です」
僕は花火の袋を持ち直した。
「捨てないで」
「捨てない」
「いつか、ちゃんとやり直す」
「分かった」
白石は小さく頷いた。
それから、僕を見た。
「採用」
息が止まった。
何を、とはすぐに聞けなかった。
聞いたら、何かが決まってしまう。
でも、聞かない方が怖かった。
「何を」
白石は少しだけ視線を逸らした。
耳が赤い。
自動販売機の明かりのせいでは、たぶんない。
「高瀬くん」
「僕を?」
「うん」
白石は、今度は逃げなかった。
「私の、金曜日係に」
その言い方は、いつもの白石らしかった。
でも、いつもの逃げではなかった。
大事なものに、変な名前をつける。
美和子さんが言っていた通りだった。
「それ、今までと同じじゃないのか」
僕が言うと、白石は首を振った。
「更新です」
「更新」
「あと」
白石は一度、言葉を飲み込んだ。
それから、かなり小さな声で続けた。
「彼氏くん」
廊下の音が消えた気がした。
いや、消えていない。
誰かが走っているし、教室から笑い声も聞こえるし、予鈴のあとのざわめきも残っている。
でも、その全部の中で、今の言葉だけがまっすぐ残った。
「今、何て」
「再発行はありません」
「聞こえたけど」
「じゃあ聞かない」
白石は顔をそむけた。
でも、逃げなかった。
僕は花火の袋を持っていない方の手を見た。
一昨日の海で、安全対策と言った手。
昨日の河川敷で、届かなかった手。
今、白石の手は、制服の横にある。
近い。
でも、勝手に触れるにはまだ遠い。
僕が言う前に、白石が自分の手元を見た。
「……申請制です」
「申請していいか」
「理由は」
「彼氏くんだから」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなった。
白石は目を丸くした。
それから、口元を押さえる。
「強い」
「言わせたの、そっちだろ」
「採用後の初手が強い」
「手だけに?」
「今のは減点」
「悪い」
白石は少し迷ってから、手を半分だけこちらへ出した。
「今日は、安全対策じゃなくて」
僕は頷いた。
「普通に」
僕は、その手を取った。
指先が触れて、一昨日とは違う形で重なる。
完全につないでいる。
手のひらが合っている。
白石の手は少し冷たかった。
でも、離れなかった。
「普通に、手をつないでる」
白石が言った。
「そうだな」
「普通、すごいね」
「今さらか」
「今さらです」
予鈴のあとのざわめきが、少しずつ教室の方へ引いていく。
僕たちは自動販売機の横に立ったまま、手をつないでいた。
あと数分で、この場所もいつもの学校に戻る。
白石は手元を見た。
「教室、行く?」
「行く」
「手は?」
「離す?」
聞くと、白石は少し考えた。
「教室までの正式運用は、まだ審査中」
「じゃあ」
「階段の前まで」
「採用」
「高瀬くんが言うんだ」
「たまには」
白石は笑った。
昨日の笑い方とは違った。
無理に作った笑いではなかった。
完全に晴れたわけでもない。
まだ昨日の傷は残っている。
宮野のことも、クラスのことも、何も解決していない。
でも、白石は自分の足で立っていた。
そして、僕の手を握っていた。
階段の前まで、僕たちは並んで歩いた。
誰かに見られたかもしれない。
見られなかったかもしれない。
どちらでもよかった。
階段の手前で、白石が手を離す。
離したあと、指先を一度だけ握り込んだ。
「今日」
白石は階段の手すりに視線を落とした。
「宮野さんには、私から話す」
「分かった」
「高瀬くんも、あとで一緒にいて」
「いる」
「会議じゃなくて」
「一緒に、ね」
「分かってる」
白石は頷いた。
「彼氏くん、初日から呼び出し多いね」
「忙しいな」
「後悔した?」
「してない」
白石は少しだけ視線を落として、それから言った。
「じゃあ、高評価です」
そう言って、階段を上がっていく。
僕はその後ろを歩いた。
鞄の中には、使い残しの花火が入っている。
火がつく前のまま。
でも、もう暗いだけには見えなかった。
教室に入る直前、白石が振り返った。
「また明日、じゃなくて」
「ああ」
「今日も、よろしく」
言葉としては普通だった。
でも、それは昨日途切れたものを、今日の朝にもう一度結び直す声だった。
「よろしく」
僕が答えると、白石は小さく頷いて教室へ入った。
窓際の席。
隣同士の机。
いつもの場所。
でも、昨日までとは違う。
教室に入る前、僕はさっきまで白石の手を握っていた方の手を、軽く握り込んだ。
金曜日係は、今日、更新された。
その隣に、もう一つだけ名前が増えた。




