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第十話

火曜日の放課後、ファミレスの窓際の席で、白石はメニューを両手で開いたまま固まっていた。

外はまだ明るい。

七月の夕方は、なかなか夜にならない。

窓の向こうの道路には、部活帰りの自転車が何台も流れていて、店内には冷房とポテトの匂いが混ざっていた。

「悩んでるのか」

「普通の高校生っぽさを最大化する注文を考えています」

「そんな基準でメニューを見るな」

「ポテトは確定」

「だろうな」

「ドリンクバーも確定」

「だろうな」

「問題は、ミニパフェを足すと浮かれすぎかどうかです」

「浮かれに上限を設けるな」

白石は真剣な顔でメニューを見下ろした。

昨日、海で「ここにいたい」と言った人と同じ人なのに、今日はポテトの量で悩んでいる。

それが少し安心で、少しだけ危うかった。

安心した瞬間に、僕はすぐ調子に乗る。

昨日の夜から、今日の予定を何度も確認していた。

ファミレスで宿題。

そのあと、河川敷で花火。

花火ができる場所も調べた。

水を入れる折りたたみ容器も用意した。

風向きも見た。

そこまでしておいて、僕は昼休みに宮野へ声をかけていた。

終業式の日に、白石がちゃんと笑えるようにしたい。

病室の夕焼けを、もう少し大きくできないか。

白石がこの学校にいた証を、何か形に残せないか。

できれば、夕焼けプリンの空き容器も集めたい。

そう言った。

宮野は最初、少しだけ黙った。

それから「白石さん本人は知ってる?」と聞いた。

僕は、まだ、と答えた。

宮野はもう一度黙った。

その沈黙の意味を、僕はその時、都合よく聞き流した。

「高瀬くん」

白石がメニュー越しに僕を見る。

「顔が作戦会議」

「どんな顔だよ」

「頭の中でホワイトボード使ってる顔」

「ファミレスでそんな顔するやつ嫌だな」

「なので、ポテトを注文してください」

「処方箋みたいに言うな」

ポテトとドリンクバー、白石のミニパフェ、僕のハンバーグセットを注文した。

白石は問題集を鞄から出す。

昨日の海の容器が入った淡い黄色の紙袋は、椅子の内側に置かれていた。

蹴られない場所。

倒れない場所。

白石は最近、紙袋の置き場所を決める時だけ、少し慎重になる。

「宿題、本当にやるんだな」

「ファミレスで宿題はリスト項目です」

「逃げ道なし」

「宿題から逃げると、増えます」

「妙に実感こもってるな」

「提出物は追ってくるので」

「怪談みたいに言うな」

白石はシャープペンを持った。

二次関数のグラフが、問題集の上でいくつも曲がっている。

白石は一問目から、眉を寄せた。

「放物線、態度が大きい」

「数学に人格を与えるな」

「こっちに開いたり、下に開いたり、自由すぎる」

「式を見ろ」

「人生も式を見たら分かる?」

「分かったら怖い」

「じゃあ数学、意外と謙虚」

「どこがだよ」

ポテトが来ると、白石はすぐに一本取った。

先が少し焦げている、細いやつだった。

「当たり」

「基準は?」

「カリカリ」

「分かりやすい」

僕も一本取る。

白石は自分の紙ナプキンの上に、カリカリしたポテトを一本だけ残した。

「何それ」

「最後に食べる用」

「楽しみを温存するタイプか」

「高瀬くんは?」

「先に食べる」

「楽しみを先払いするタイプ」

「ポテトで性格診断するな」

「白石評価です」

白石は笑った。

口元に塩がついて、すぐに紙ナプキンで押さえる。

それだけの動きが、昨日の海で指が触れた時より自然に見えた。

普通の高校生っぽい。

白石が言ったリストの中にあったもの。

今、たぶん僕たちはそれに近いところにいる。

近いからこそ、僕は欲張った。

この時間を、もっと残したいと思った。

白石のために。

たぶん、自分のためにも。

ドリンクバーでは、白石がメロンソーダとオレンジジュースを混ぜた。

グラスの中は、変に明るい緑色になった。

「人生に迷った色」

「また人生」

「今日は中型です」

「飲み物に背負わせるには重い」

白石は一口飲んで、静かにグラスを置いた。

「協議中」

「失敗だろ」

「まだ判決は出ていません」

僕も少し飲まされた。

炭酸とオレンジが、口の中で仲良くなりきれない。

「どう?」

「転校初日のクラスみたいな味」

白石はストローから口を離して、肩を揺らした。

笑いをこらえたせいで、目元が少しだけ崩れる。

「それ、採用」

「何に」

「今日の記録」

白石はスマホを出して、テーブルを撮った。

ポテト。

問題集。

ドリンクバーの謎色。

白石のシャープペン。

僕の消しゴム。

そして、端に少しだけ写り込んだ淡い黄色の紙袋。

「人物は?」

僕が聞くと、白石の手が止まった。

「撮る?」

「リストにあっただろ。写真」

「昨日も撮った」

「今日もあっていい」

白石はスマホの画面を見た。

前髪を少し直し、それから何でもない顔を作る。

「じゃあ、証拠写真」

「証拠が増えるな」

「行ってきました展、資料部門」

白石がスマホを持ち上げる。

僕は反射的に顔を引きかけて、やめた。

画面の中で、白石の肩が近い。

ファミレスのテーブル越しではなく、同じ時間の中に押し込められる距離だった。

小さな電子音が鳴る。

白石は画面を確認して、満足そうにうなずいた。

「高瀬くん、宿題に敗北した顔」

「白石も謎色に勝ってない顔してるぞ」

「いい写真です」

「どこが」

「普通っぽい」

その声が、ちゃんと軽かった。

僕はそれを信じた。

信じたかった。

ファミレスを出る頃には、空が夕方へ傾き始めていた。

河川敷までは歩いて十五分。

コンビニで手持ち花火を買い、僕は鞄から折りたたみ容器を出した。

「水入れ」

「用意がよすぎる」

「調べた」

「高瀬くんの予定、どんどん装備が増えるね」

「火事になったら困るだろ」

「高瀬くん、青春より安全管理が先に来る」

「火が出るイベントだからな」

「正しいけど、少しだけロマンが避難しました」

「ロマンは後から戻ってくる」

「避難訓練みたいに言わないで」

河川敷には、まだ何組か人がいた。

ランニング中の大人。

犬の散歩をしている人。

川沿いのベンチでスマホを見ている高校生。

水面は夕方の色を細く拾っていた。

昨日の海ほど広くはない。

でも、空が近い。

白石は草の上に紙袋を置いた。

ファミレスのレシートが、袋の口から少しだけ見えている。

中には、さっき撮った写真と、昨日の海の容器もある。

「今日も展示品が増えるな」

「審査はこれからです」

「厳しい?」

「ファミレス部門は通過見込み」

「花火部門は?」

「火がつけば」

「プレッシャーをかけるな」

僕は花火の袋を開けた。

ライターの火を近づける。

風で消えた。

もう一度。

また消えた。

白石がしゃがんで、両手で風よけを作る。

「白石防風壁」

「頼りなさそう」

「有志の壁です」

「ありがとう、有志」

三回目で、ようやく火が移った。

赤い火花が、手元で細く散る。

白石は少し距離を取って、それでも目を離さなかった。

「採用」

「何が」

「火」

「やっと面接通過か」

「書類が長かった」

「火に書類はない」

白石は笑った。

その声は、ファミレスより外へ広がった。

僕は次の花火を取り出す。

今度は白石に渡した。

白石は少し迷いながら受け取る。

「私、昔、すぐ落とす係だった」

「花火を?」

「うん。火が近づくと、手が勝手に安全第一になります」

「それは本能として正しい」

「今日は改善希望です」

「じゃあ、僕が風よけする」

「有志の壁、交代制?」

「交代制」

僕が手で風を遮ると、白石がライターを近づけた。

小さな火が、花火の先に移る。

白石の指が一瞬だけ固まる。

すぐに、白い火花が伸びた。


「ついた」

「ついたな」

「私、成長」

「おめでとう」

「今のは、ちゃんと高校生っぽい」

「花火に火がついただけだけど」

「でも、自力です」

白石はそう言って、少しだけ得意げに花火を見た。

「見てて」

僕は返事の代わりに、花火の先を見た。

白い火が、赤へ変わる。

赤が細かく散り、足元の草を一瞬だけ照らす。

白石の横顔も、そのたびに明るくなったり暗くなったりした。

僕はスマホを取り出した。

「撮る?」

「うん」

白石は花火を少し持ち上げた。

画面の中で、火花と白石の顔が一緒に入る。

撮ろうとした瞬間、僕のスマホが震えた。

画面の上に通知が出る。

宮野からだった。

『容器、何個か集まりそう。写真の件も声かけてみた。白石さんにはどこまで話していい?』

白石の視線が、火花からスマホへ落ちた。

たぶん、全文は読めていない。

でも、「容器」「写真」「白石さん」の文字は見えたはずだった。

花火が、手元で短く音を立てる。

白石は最後まで燃えきる前に、花火を水へ入れた。

じゅ、と音がして、火が消える。

「宮野さん?」

声はいつも通りにしようとしていた。

でも、少し平らだった。

「うん」

「何の話?」

僕はスマホを消した。

それが余計によくなかった。

白石は僕の手元を見る。

「消さなくていいよ」

「違う」

「何が?」

「悪い話じゃない」

白石は黙っていた。

川の向こうで、自転車のライトが一つ流れる。

僕はスマホを握ったまま、言葉を探した。

ここでちゃんと言えばよかった。

宮野に相談した。

白石の終業式を、ちゃんと残したかった。

病室の夕焼けを、もっと大きくしたかった。

空き容器があれば、白い壁にもっと広く夕焼けを作れると思った。

クラスの写真も、制服で笑う白石を残せたらいいと思った。

全部、そう言えばよかった。

でも、僕の口から出たのは、順番の悪い説明だった。

「終業式の日に、写真を撮れたらと思って」

白石の目が動いた。

「写真?」

「白石が、この学校にいた証になるだろ」

「証」

「あと、病室の夕焼けも、もっと大きくできるかもしれないから」

「それで?」

白石の声が、少し小さくなる。

「空き容器を、集めようと思って」

「誰から?」

「宮野に相談した」

「宮野さんに」

「宮野なら、変に広げずに考えてくれると思って」

スマホがもう一度震えた。

今度は画面を見なくても分かった。

宮野だ。

白石も分かったと思う。

僕は通知を確認しないまま、スマホをポケットに入れた。

白石は草の上に置いた紙袋を見た。

ファミレスのレシートが、袋の口から少しだけ見えている。

「それ、私に言う前に?」

「驚かせようとか、そういうんじゃなくて」

「うん」

「終業式の日、ちゃんと笑えるようにしたかった」

「うん」

「病室の壁も、もっと広く夕焼けにできたらって」

「うん」

白石の返事が、短くそろっていく。

それが怖かった。

花火の袋の中には、まだ何本も残っている。

未使用の細い棒が、暗い色のまま束になっていた。

「高瀬くん」

白石は僕を見た。

「私のこと、みんなに配ったの?」

その言葉は、怒鳴り声ではなかった。

だから逃げ場がなかった。

「配ったって」

「お母さんのこと。病室のこと。引っ越すこと。容器を集めてること。終業式に笑いたいこと」

「全部は言ってない」

「じゃあ、どこまで?」

僕は答えられなかった。

言っていないことを数えようとしている時点で、もう間違えていた。

言った内容は覚えている。

でも、それが白石にとってどこからアウトなのかを、僕は考えていなかった。

宮野なら大丈夫。

クラスの数人なら大丈夫。

善意なら大丈夫。

そのくらいにしか、考えていなかった。

白石は、笑おうとした。

失敗した。

「そっか」

「白石」

「大丈夫」

その言葉で、僕の中の何かが跳ねた。

昨日の海で、言わせたくなかった言葉。

今日は、僕が言わせてしまった。

「大丈夫じゃないだろ」

白石の顔から、今度こそ笑いが消えた。

川の音が急に近くなる。

白石は花火の袋を持ち上げた。

まだ火のついていない花火が、袋の中で小さく鳴る。

「じゃあ、どう言えばいいの」

「白石」

「大丈夫って言わないと、私、学校に来られないよ」

僕は動けなかった。

白石は紙袋を抱え直した。

その中には、ファミレスのレシートも、さっき撮った写真も、昨日の海の容器もある。

今日までの普通が入っている。

でも今、その袋ごと白石が遠くに行くように見えた。

「私が毎回ちゃんと大丈夫じゃない顔してたら、みんなが優しくしてくれるのは分かってる」

白石は言った。

「でも、その優しさの中で、私はどこに座ればいいの」

返事をしようとして、何も出なかった。

「かわいそうな白石さんの席は、たぶんどこにでもある。でも、普通にポテト食べて、変なドリンク作って、花火に火がつかなくて笑う白石の席は、すぐなくなる」

白石は未使用の花火を見下ろした。

「高瀬くんが悪い人じゃないのは、分かってる」

その言い方が、いちばん痛かった。

「でも、私の普通を増やそうとして、私の普通じゃないところを配らないで」

白石は花火の袋を僕に差し出した。

「これ、持ってて」

「一緒に持って帰れば」

「今日は、いい」

「病院まで送る」

「今日は、いい」

二回目は、はっきり断られた。

僕は花火の袋を受け取るしかなかった。

軽い。

使い残しの花火は、こんなに軽いのかと思った。

白石は紙袋だけを抱えて、河川敷の階段を上がった。

僕も少し遅れてついていく。

駅までの道で、白石はほとんど話さなかった。

スマホは一度も見なかった。

僕のポケットの中では、さっきから通知が溜まっている気がした。

宮野からかもしれない。

クラスの誰かからかもしれない。

誰からでも、今は見たくなかった。

改札の前で、白石は立ち止まった。

「宮野さんには、私から言う」

「僕が」

「私から言う」

その声は、さっきより静かだった。

「みんなが悪いわけじゃないから」

「……うん」

「でも、明日はちょっと、教室で笑えるか分からない」

僕は定期券を持つ白石の手を見た。

指が紙袋の持ち手を押さえている。

「白石」

名前を呼ぶと、白石は少しだけ顔を上げた。

「何」

その返事で、いつもの形に戻った気がした。

でも、戻ったのは形だけだった。

「ごめん」

白石はすぐには答えなかった。

改札の光が、彼女の靴先を照らしている。

人が横を通り過ぎるたび、短い電子音が鳴った。

「今日は、受理できない」

白石はそう言った。

「白石法?」

僕は、間違ったことを聞いた。

白石は笑わなかった。

「うん。白石法」

定期券が改札に触れる。

ゲートが開く。

白石は内側へ入った。

いつもなら、ここで何かを言う。

また明日。

採用。

金曜日係。

そういう、次につながる言葉。

でも、今日は違った。

「連絡はする」

「分かった」

「スマホ、何回か見てていいよ」

「見る」

白石は少しだけ待った。

いつもなら、ここで何かを足したはずだった。

係っぽく、とか。

金曜日係だから、とか。

でも、今日は何も足さなかった。

「じゃあ」

短い言葉だけを残して、白石は階段を下りていった。

僕は改札の外に立ったまま、使い残しの花火の袋を持っていた。

家に帰っても、メモ帳は開かなかった。

鞄の中に入れたまま、机の横へ置いた。

今日のことを予定の続きみたいに書くには、何かが違っていた。

スマホを見る。

宮野からのメッセージが来ていた。

『ごめん。私、広げすぎたかも』

僕は返事を打てなかった。

机の上に、使い残しの花火の袋を置く。

袋の中で、細い棒がいくつも同じ方向を向いている。

火がつく前のまま。

今日の僕の善意は、そこでまだ暗い色をしていた。

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