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第九話

月曜日の放課後、駅のホームには夏の匂いがこもっていた。

電車が来るたびに熱い風が押し寄せ、制服のシャツが背中に貼りつく。

ホームの向こうには、線路の先へ続く低い空があった。

白石は僕の隣で、電光掲示板を見上げている。

昨日の病室で「海、採用」と言った人と同じ顔をしているのに、今日は少しだけ落ち着かない。

鞄の紐を、指で何度も持ち直していた。

「本当に行くんだね」

「昨日、採用されたからな」

「現場判断、強い」

「現場監督が言ったんだろ」

白石は、口元だけで小さく笑った。

駅の売店から、冷たい飲み物のケースを開ける音がした。

どこかで誰かがアイスの袋を破っている。

夏が、あちこちで小さく開封されているみたいだった。

僕の鞄の中には、メモ帳と、折り畳み傘と、空き容器が一つ入っている。

昨日、病室で中心候補になったあと、試作一号とは別に紙袋へ戻された容器だ。

海へ行くと決めた時、白石がそれを取り出して、僕に渡した。

「海にも連れていこう」

そう言われた時、僕はすぐに意味を聞けなかった。

海に空き容器。

普通に考えれば、変だ。

でも、もうそれを変だとだけ思える段階ではなかった。

「夕焼けプリン、今日はないけど」

白石が言った。

「月曜だからな」

「金曜日じゃない海、初出です」

「初出とか言うな」

「じゃあ、新規事業」

「また事業にする」

「夕焼け部門、海洋進出」

「規模が大きくなってきたな」

電車が来た。

車体の銀色が、午後の光を受けて白く見える。

扉が開くと、中から冷房の匂いと、人の汗の匂いが一緒に流れてきた。

白石は一歩だけ遅れて乗った。

僕はその後ろに続く。

座席は空いていなかった。

吊り革につかまると、白石は僕の隣に立った。

電車が動き出す。

車輪の音が、駅の屋根を抜けて、だんだん軽くなっていく。

白石の髪が、冷房の風で少し揺れた。

その先が、僕の袖に触れる。

一瞬だけ。

白石は気づいていないふりをした。

僕も、窓の外を見るふりをした。

町の建物が少しずつ低くなっていく。

コンビニ。

駐車場。

小さな川。

遠くに、青い線が見えた。

「あ」

白石が窓に顔を寄せた。

「見えた」

「海?」

「たぶん」

「たぶん禁止じゃないのか」

「今のは期待なので許可」

電車の中はそれほど空いていない。

けれど、白石の声だけは少し近く聞こえた。

期待。

その言葉を、白石は軽く言った。

でも、軽く言わなければ口に出せないものみたいにも聞こえた。

海沿いの駅で降りると、空気が変わった。

駅前のロータリーを抜けた瞬間、潮の匂いが鼻に届く。

学校から駅まで歩いた時のアスファルトの熱とは違う。

湿っていて、少し錆びた匂い。

遠くでカモメらしい声がして、白石が顔を上げた。

「本物っぽい」

「海だからな」

「普通の高校生が来る海って、こういう感じなんだ」

「普通の高校生代表みたいに言うな」

「資料不足なので」

「資料って何だよ」

「世間のうわさ」

「信用するな、そんなもの」

駅から海までは、歩いて十分ほどだった。

道の途中に古い商店があり、その隣に小さなコンビニがあった。

白石はそこで足を止める。

「アイス」

「普通リストか」

「はい。アイス半分こ」

「二つ買えばいいだろ」

「半分こに意味があります」

「どこに」

「一本を二人で割るところ」

「説明がそのままだな」

「そのままが大事な時もあります」

冷凍ケースの前で、白石は真剣に悩んだ。

ソーダバー。

チョコモナカ。

バニラカップ。

二色の棒アイス。

「半分にしやすいものがいい」

「合理的だな」

「普通は実用性から入ります」

「本当に?」

「白石法では」

「便利だな」

結局、二つに割れるタイプのソーダアイスを買った。

店の外に出ると、白石は袋を開けようとして手を止める。

「割る係」

「僕か」

「しわしわ担当より難易度低めです」

「割った瞬間、片方落ちたら?」

「査定に響きます」

「急に怖い」

僕は袋からアイスを出し、中央のくぼみに指を当てた。

力を入れる。

思ったより硬い。

白石が横から見ている。

「苦戦中?」

「静かにしてろ」

「真剣」

「アイスの将来がかかってる」

「将来が短い」

ようやく、ぱきん、と音がした。

二本に分かれたアイスの片方を白石へ渡す。

白石はそれを受け取り、少しだけ掲げた。

「普通リスト、一歩前進」

「おめでとうございます」

「業務感が強い」

「じゃあ、どう言えばいいんだ」

白石は少し考えたあと、アイスの先を見た。

「……うれしい…とか」

その言い方が普通すぎて、僕は返事に詰まりかけた。

白石はすぐにアイスをかじる。

「冷たい」

「アイスだからな」

「歯に直接くるタイプ」

「普通の感想だな」

「普通、達成中なので」

僕もアイスを食べた。

ソーダの味が、舌の上で一気に冷える。

海へ向かう道の先で、光が揺れていた。

防波堤に着く頃には、アイスは半分以上なくなっていた。

白石は溶けた雫が指に垂れないように、手首を変な角度にしている。

「食べ方が不器用」

「高瀬くんにだけは言われたくない」

「不器用枠だからな」

「枠を自覚し始めた」

「昨日から多用されすぎて諦めた」

白石は笑った。

その声は、病室の壁に落ちた夕焼けを見ていた時より、ずっと軽かった。

海は、思っていたより近くにあった。

防波堤の向こうで、水面が細かく光っている。

波は大きくない。

ただ、何度も何度も、同じ場所へ戻ってくる。

白石は防波堤の段差に腰を下ろした。

僕も隣に座る。

距離は、教室の机ひとつ分より近い。

でも、病室で写真を撮った時よりは離れている。

その曖昧な距離が、今の僕たちらしかった。

白石はアイスの最後の一口を食べ、棒を袋に戻した。

「海、採用」

「今さら?」

「現場確認後の正式採用です」

「審査が多いな」

「海は審査員が厳しそうなので」

「誰だよ、審査員」

「私」

「自分だった」

白石は少しだけ首をかしげてから、海へ視線を戻した。

風が吹いた。

今度は髪が僕の袖に触れただけでは済まず、腕のあたりにふわっとかかった。

白石が慌てて髪を押さえる。

「失礼しました」

「髪に謝られても」

「管理者なので」

「髪の?」

「一応」

白石は髪を耳にかけた。

その耳が少し赤く見えたのは、夕方の光のせいかもしれない。

まだ夕焼けというほどではない。

けれど、空の端はすでに少しだけ色を変え始めていた。

僕は鞄から空き容器を取り出した。

白石が目を丸くする。

「持ってきたんだ」

「持っていこうって言ったのお前だろ」

「うん。でも、本当に持ってくるところが高瀬くん」

「褒めてるのか」

「白石評価ではかなり」

透明な容器は、海の前では少し頼りなく見えた。

昨日の病室では、壁に色を作る道具だった。

今日は、何も映していない。

ただの空っぽの器。

でも、白石はそれを両手で受け取った。

中を覗く。

それから、海の方へかざした。

容器の底に、水面の光が小さく揺れた。

「夕焼けじゃないな」

僕が言うと、白石はうなずいた。

「まだね」

「じゃあ、早かったか」

「でも、海が入った」

「入った?」

「気分的に」

「雑だな」

「大事な雑です」

白石は昨日聞いたのと同じ言葉を、少し違う顔で言った。

容器を膝の上に置く。

その透明な底に、海の光がちらちらと残っている。

「行ってきました展に入れられる」

「もう展覧会になるのか」

「予定です」

「展示品は?」

「しわしわ夕焼け、海の容器、アイスの袋」

「アイスの袋も?」

「半分この証拠」

「証拠品が増えていくな」

「忘れないためなので」

その言葉で、会話が少しだけ止まった。

白石は海を見ている。

僕は容器を見ていた。

忘れないため。

白石は、何でも名前をつける。

係。

部門。

候補。

証拠。

冗談みたいな名前で、消えていくものを机の上に置こうとしている。

「白石」

呼ぶと、白石は海を見たまま返事をした。

「はい」

「今、ここにいたい?」

白石の指が、容器の縁で止まった。

波の音が、防波堤の下で細く砕ける。

少し離れたところで、自転車のブレーキが鳴った。

「……いたい」

白石は、いつもの言葉に変えなかった。

「学校にもいたいし、病室にもいたいし、ここにもいたい」

風が吹く。

制服のスカートの端が揺れる。

「引っ越したくない」

それは、思っていたより短い言葉だった。

短いから、逃げ場がなかった。

白石は容器を見下ろしている。

その中には、まだ何も入っていない。

「お母さんのことは、嫌じゃない」

白石は続けた。

「島の病院が悪いわけでもない。先生も、たぶんちゃんとしてる。引っ越した方がいい理由も、分かってる」

「うん」

「でも、分かってることと、行きたいことは別だった」

僕は、何も言わなかった。

励ます言葉を探すと、たぶん余計なものになる。

白石は、容器の縁を親指でなぞる。

「昨日、病室で夕焼け作ったでしょ」

「ああ」

「あれ、すごくうれしかった」

「うん」

「でも、うれしいことがあると、余計に思うんだよね」

白石は一度、息を整えた。

「ここにいたいって」

目元が、少しだけ間に合わなくなる。

けれど、涙は落ちなかった。

白石は落とさないようにしていた。

僕は右手を膝の上に置いた。

白石の手は、そのすぐ近くにある。

触れようと思えば触れられる。

でも、今はまだ、その一歩が大きすぎた。

「大丈夫って言うところだった?」

僕が聞くと、白石は小さくこちらを見た。

「どうして分かったの」

「金曜日係なので」

「すごい」

「すごくはない」

「でも、止めた」

「言わせたくなかった」

白石は何も言わなかった。

海の方へ顔を戻す。

「じゃあ、何て言えばいいのかな」

「今、ここにいたい、でいいんじゃないか」

「それ、さっき言った」

「じゃあ、それでいい」

「何も解決しないよ」

「しなくていい時もあるだろ」

自分で言ってから、少しだけ怖くなった。

何も解決しない。

その言葉は、頼りない。

けれど、今の白石に「大丈夫」と言わせるよりは、まだましな気がした。

白石は容器を両手で持ったまま、海を見ていた。

「ここにいたい」

今度は、さっきより少しだけはっきり言った。

「うん」

「学校にもいたい」

「うん」

「お母さんともいたい」

「うん」

「金曜日も、なくしたくない」

「なくならない」

白石がこちらを見る。

「そこは、すぐ言うんだ」

「それは、言える」

「根拠は?」

「僕が買う」

白石はまばたきをした。

それから、ゆっくり視線を落とす。

「強いね、金曜日係」

「プリン限定だけどな」

「限定品、強い」

しばらく、二人とも黙っていた。

海の風が、さっきより少し冷えてくる。

防波堤の上は、座っていると意外と不安定だった。

白石が少し体勢を変えた時、足元の小石が転がった。

僕は反射的に手を伸ばしかける。

白石も、同じタイミングで手を出した。

指先が触れた。

昨日のバスと同じくらい短い。

でも、今日はすぐ離れなかった。

白石が、手元を見ている。

僕も見ていた。

完全につないでいるわけではない。

手の甲と指が、少し重なっているだけ。

「安全対策」

白石が言った。

声は海の方を向いていた。

「何の」

「防波堤は危険なので」

「そうだな」

「なので」

「安全対策だな」

それ以上は、何も言わなかった。

風が吹くたび、白石の髪がまた僕の袖に触れる。

今度は、どちらも謝らなかった。

空は少しずつ夕方へ寄っていく。

本物の夕焼けは、病室の壁に作ったものよりずっと広かった。

広すぎて、どこを見ればいいのか分からないくらいだった。

白石は空き容器を片手で持ち上げる。

もう片方の手は、まだ安全対策の位置にある。

容器の底に、海と空の色が重なった。

昨日の病室では、セロファンが白い壁を夕方にした。

今日は、本物の空が容器の中に少しだけ入った。

「これ、持って帰る」

白石が言った。

「予定通り?」

「予定以上」

「展示品?」

「うん」

「名前は」

白石は少し考えた。

「海へ行ってきました容器」

「そのままだな」

「そのままがいい日もあります」

僕はうなずいた。

そういう日なのだと思った。

帰りの電車に乗る前、白石は駅前の水道で容器の外側を軽く拭いた。

中は濡らさなかった。

「洗わないのか」

「今日は、まだ」

「何か残ってる?」

「たぶん」

「たぶん禁止」

「じゃあ、残ってる」

白石はハンカチで容器を包み、紙袋に入れた。

袋の中には、アイスの袋も入っている。

半分この証拠らしい。

電車の窓には、帰り道の空が映っていた。

白石は座席に座ると、少し眠そうに目を細めた。

昨日よりも、病室にいた時よりも、顔色は悪くない。

でも、疲れていないわけではない。

聞かない。

そう決めて、僕は窓の外を見た。

白石の肩が、電車の揺れで少しこちらへ寄る。

触れる寸前で止まる。

また揺れる。

今度は、ほんの少しだけ触れた。

白石は起きていた。

たぶん。

それでも、何も言わなかった。

僕も言わなかった。

駅に着く頃、白石は紙袋を膝の上に抱え直した。

「今日の海」

「うん」

「ちゃんと、放課後でした」

「海なのに?」

「学校から続いてる感じがした」

白石はそう言って、改札の光を見た。

「あと、海は少しずるい」

「何が」

「帰りたくなくなる」

その言葉に、僕はすぐ返さなかった。

駅の人混みが、僕たちの前を流れていく。

白石は紙袋の持ち手を握っている。

そこには、空き容器と、アイスの袋と、海へ行った時間が入っている。

「また行けばいい」

「簡単に言う」

「電車時間、分かったし」

「……本当に、予定にするんだ」

「する」

白石は笑った。

今日の笑い方は、海の風を少しだけ含んでいた。

駅前で別れる時、白石は紙袋を軽く持ち上げた。

「行ってきました展、展示品追加です」

「審査は?」

「お母さん会長なので、たぶん通ります」

「たぶん禁止」

「通ります」

「ならよかった」

白石はうなずいた。

それから、少しだけ迷って言う。

「明日」

「うん」

「普通リスト、もう一個」

「何を?」

「ファミレスか、花火」

「急だな」

「急がないと、夏に置いていかれるので」

その声は軽かった。

でも、海で聞いた「ここにいたい」が、まだ底の方に残っている。

「分かった」

僕は言った。

「調べる」

「また?」

「予定にする」

白石は紙袋を胸の前で抱えた。

「強いね」

「プリン限定じゃなくなってきたな」

「いいことです」

白石はそう言って、手を振った。

僕も手を上げる。

彼女の後ろ姿が、駅前の人混みに混ざっていく。

紙袋の淡い黄色だけが、しばらく見えていた。

家に帰って、メモ帳を開く。

放課後の屋上には線が引いてある。

その横に、踊り場。

病院。試作一号。

夕焼け工房。

そして、その下に書く。

海。アイス半分こ。安全対策。

少し考えてから、最後にもう一つ足した。

ここにいたい。

それは、予定ではなかった。

でも、消してはいけない気がした。

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