かみさまのホテル
九十九が言ったように、宿泊の予約がどっと増えた。理由を聞いてみれば、案外、簡単な理由らしい。
「冬至は一年で一番長い夜やけ」
「え、それだけですか」
柚葉の驚きの声に、九十九は不思議そうな顔をする。まるで、そういうもんやろ、とばかりに零に目配せをする。
「まぁ、何人かは料理長のご馳走を楽しみにしとるんやと」
「柚子風呂とかされないんですか?」
柚葉の冬至の思い出と言えば、もっぱら湯に浮かべた黄色い果実だった。朝からカゴいっぱいの柚子を洗い、香りが出るように岩に少しだけ擦りつける。外にでずっぱりの作業は体の芯まで冷えたが、客の綻んだ赤い頬を見るのは好きだった。
ああ、そういうもんもあるなぁと顎に手をあてた九十九は、零と目だけで話をしたようだ。
「よし、柚葉。楽しそうやし、支配人に頼みに行こう」
戸惑いの声は、零にそでを引かれたことで飲み込んでしまう。
カウンターの前を通りすぎようとしたら、新たな客が受付に陣取っていた。青白い顔で淡々とこなす受付係の影井の顔が明らかにほっとする。目線の先は九十九だ。客に詫びを入れて、駆け寄ってくる。
「九十九さん、接客お願いできますか」
あいよ、と請け負った九十九が前に出る。少年の前には相撲取りのような婦人がいた。着物の合わせの上に、紙風船がふくれたような顔が乗っている。並ぶ目も鼻も頬につぶされてしまいそうだ。怖く見えないのは、ふぐのように可愛らしい瞳が瞬いているからだろう。
九十九は物怖じせずに進み出て、そこいらの大木よりも太い婦人の真っ正面に立つ。
「どうされたか」
「きょねんどおなずへやさとまりで。あさもばげままとおなずぐらいだすてほすい」
婦人の話は濁音混じりで耳慣れない韻を踏み、柚葉はもちろん影井も全く聞き取れていない様子だった。
唯一、何度も頷いているのは九十九だけだ。
「きがえはあるはんで、ねまぎはいね。ぢかぐにみやげやはあるが。まごよろこぶようなもがほすい」
婦人の勢いに押されていると、後ろから新たな客がやって来た。今度は線の細い紳士だ。帽子と杖を脇にかかえて長い背を折るように礼をする。青白い顔で微笑まれても寒気しかしない。
青白さなら負けていない影井が零に視線を送った。
願われるより先に動いていた零は前に進み出て軽く膝を折る。着物姿なのに、洋装のような振る舞いを優雅にこなして、手で奥にある階段を案内する。
気付けば、婦人も紳士も柚葉の前から居なくなっていた。我に返り、カウンターに引っ込んでいた影井に詰め寄る。
「宿泊帳を見せていただけますか」
初めて、影井がきょとりとした幼子のような顔を見せた。怯えてもいない、かしこまってもいない、真ん丸な瞳がゆっくりと瞬きをする。
「ございません」
存在事態を知らないような物言いも含めて、柚葉は衝撃を受けた。宿泊客の住所と名前を控えることは、国の法律で決まっている。もし、疫病が出た時、経路を辿るためとなっているからだ。
「今までの分、全部ですか? 問い合わされたら、どうするっていうんです」
つい声を荒げてしまった柚葉に圧され、影井はぽろりと溢す。
「わたしが答えます」
嘘をつくことを知らないような無垢な瞳だった。
衝動のままに支配人の部屋の扉を叩いた柚葉は、はたりと気がつく。
一番、不気味だったのは支配人ではなかったか、と。
庶民も名字を持つようになった世の中で、ホテルの支配人であるにも関わらず名乗りもしない。柚葉の素性も探らずに、女将になれと言う。
仕事をしたくないという理由だけで片付けていいのだろうか。能天気な笑顔を信じていいのだろうか。勇気づけたのは、本心なのか意図したものなのか。
考えれば考えるほど、深読みしてしまう。
おや、と降ってきた声に、柚葉は振り返った。
「何か、ご用かな?」
首を傾げて、ゆれた髪は湿っている。収まりのいい髪をゆるく結び、無精髭に半纏姿の支配人は、袖で隠すように着替えを抱えていた。こうも寒いと朝風呂も入りたくないと子供みたいな言い訳をしながら階段を降り、柚葉の前に立つ。
たじろく姿が無垢な瞳に映っていた。
にこにこと言葉を待つ相手に降参した柚葉は口火を切る。
「宿泊帳をつけていないと聞いて……」
「必要ないでしょ」
「必要ないわけないですよね、捕まりますよ」
柚葉の気迫に支配人の柔和な目が丸くなる。
「昨今は、神様までしょっぴく時代になったのか」
「かみさま?」
話が噛み合わない二人が見つめ合う。方や驚きを隠せない顔、方や知らなかったのかと意外そうな顔。
「言ってなかったっけ?」
「すっ」
「す」
「すっとぼけないでください! あたり前のようにおっしゃっていますけど、神様を相手にするお宿なんて聞いたことありません!」
勢いのままに叫んだ声が反響するように余韻を残す。
息が乱れたままの柚葉は、やってしまったと青ざめた。ここから追い出される。自分本意な絶望にぐちゃぐちゃの頭が冷えていく。
ふむ、と朝風呂には入るのに無精髭は剃らない支配人が顎を撫でた。瞼を閉じ、苦悩の表情を浮かべるが、今日の晩御飯に悩んでいるような姿にしか見えない。片目だけを開けて、柚葉を見下ろす。
「神様を相手にする仕事はしたくないと?」
首を切られると覚悟していた柚葉は情けなくもぽかんと口を開けてしまった。もしかしなくても、柚葉の希望をくもうとしているのだろうか。
はは、と笑い声を上げた支配人が世間話をするようにちょいちょいと手を振る。
「偏屈な人を相手するのと変わらないのだから、やってみればいいじゃあないか。ほら、行くところに困ってるんだし、路頭に迷うのも、神様のホテルで働くのも、変わりはしないよ」
歌うように紡がれた言葉が、柚葉を惑わす。
すぐに取って食ったりするような輩はいないさ、と言葉が締めくくるのと柚葉の肩を叩くのは同時だった。




