飛び入り客
料理長の作ったニジマスのムニエルは絶品だった。牛酪のコクをさわやかな香草が引き立て、洋風の料理だというのに、米がとてもおいしく感じられた。
心配していた九十九や零の態度も変わった様子がない。気が抜けて仕事初日ということもあって、早々に床についたら、もう朝が来ていた。
腹が満たされ、よく寝たら、気にしていたことがちっぽけなものに思えてくる。人間って生きるために単純にできていると柚葉は体を伸ばした。
朝といっても、冬の空には朝日の兆しは見えない。骨の髄まですり込まれた習慣に感心しつつ、かけていた着物を見上げた。
孔雀緑の着物と亜麻色の帯。
従業員は色味は違えど、皆、緑を身につけていた。九十九は若葉を思い起こさせる明るいもので、零は朝露と似た緑を帯びた白い着物に胡桃色の帯、帯揚げは深い緑だ。支配人は黒い半纏姿だったが、首元に光る石は翡翠に違いない。
擦り切れた寝間着をぬいで、真新しい袖に腕を通した。帯を締め、いつもより念入りに髪をまとめる。姿見がないので似合っているかはわからないが、心がくすぐったかった。こんなに上等な着物を身につけたのは五つの祝い以来だ。手で後れ髪がないことを確認して、階下に降りる。
一階につくと、すでに影井が受付で慎ましく立っていた。
柚葉がよく通る声で挨拶をすれば、気聞いとりづらい声で返される。
「本日のお客様はいらっしゃいますか」
「おひとり様だけ」
飛び入りでと自信のなさそうな声がついてくる。
「昨晩、遅くに来られたんですか」
問いを重ねる柚葉は急ぎで大変だっただろうと同情したら、どうも違うらしい。
「先程、来られました」
「え、先程って、朝に?」
信じられずに確認すれば、受付係は小さく頷いた。
宿泊部屋は整っているとはいえ、もてなしの段取りがわからない。九十九と零は調理場だと聞いた柚葉は急ぐ。
調理場の扉を開けると、二人はすでに朝食を食べ終えようとしていた。
挨拶を交わして、柚葉は二人に詰め寄る。
「お客様がいらっしゃったと伺ったのですが、どうしましょう」
「どうも何も、寝ちょるけ何もせんでええやろ」
「寝てるんですか」
おう、と頷いた九十九はなぁ、と隣の零に同意を求め、彼女も首を縦に振った。
「ぶち疲れとるんやて」
はぁ、と柚葉が気のない返事をすれば、九十九が白い歯を見せる。
「はよ食べ。腹が減っとったら、なぁんもできんじゃろ」
見計らったように、海苔に巻かれた握り飯と汁物、漬け物がのった盆が置かれた。柚葉は料理長に礼を言って、手を合わせる。あたたかい内に、と汁物をすすれば火傷をした。
「おらたちは大広間にいるき、あとで来てくれな」
素知らぬ顔で我慢していた柚葉に声をかけた二人は早々に出ていく。
急がねばと柚葉は握り飯を口いっぱいに詰め込んだ。詰め込みすぎたと後悔していると、目の前に水が置かれる。
大事に食べなさいな、と軽く窘めた料理長が隣に腰かけた。
「ねぇ、お里の料理、教えてくれない? 今日来たお客さん、ねぶとが食べたいって言ったのよ。さすがにないと答えたんだけど、申し訳ないでしょう」
柚葉は頬に手を添える困り顔を数秒、見返した。大のねぶと好きの常連客に心当たりがあったが、こんな遠く離れた場所に現れるわけがないと頭から追い出す。口の中のものを飲み込んでから、つらつらと答える。
「よくお出ししていたのは、鯛めし、たこ飯で、もぶり酢もよく喜ばれていました。後はせんざき、ていう鶏の料理があって」
ああ、と思い出したように料理長は顔を明るくする。
「忘れてたわ。せんざきね、せんざき。雉がちょうどあるから、それにしましょ」
かぼすがあったはずと料理長は機嫌よく立ち上がった。
柚葉は戸惑いながらも鼻歌まじりの料理長を見送る。
「どんな料理か知ってるんですね」
感心を通り越し、困惑を抱く言葉をごまかすよう、握り飯を押し込んだ。




