聖女の家出
「はああああ……!!!」
まるで一斉に大輪の花が咲いたかのように、イリーナの顔が信じられないほど明るく輝いた。
彼女の目の前にそっと置かれたのは、ふわふわの生地に真っ白な生クリームがこれでもかと盛られた、夢のような【3段重ねの特製パンケーキ】だった。
「イリーナさん、ずっとパンケーキが食べたかったんですか?」
鈴音も目の前に同じものを置き、フォークを片手に尋ねる。
「はいっ! 聖女は『常に身体を清らかに保たなければならない』って言われていて、日々の食べ物も厳しく制限されてるんです。こういう、街の甘いお菓子なんて、生まれてから一度も食べたことがなくて……!」
(おいおい、イリーナ。気持ちは分かるが、声がデカすぎないか?)
「あっ! ……す、すいません」
ハッとしたイリーナは、慌てて両手で口を抑え、声のトーンをひそひそ話のレベルへと落とした。
(いくら鈴音の【隠蔽】の魔法が効いてるとはいえ、自分の口から『聖女』なんて単語は出さない方がいい。さっきから窓の外を、白ローブの集団が物凄い血相で何往復も走り回ってるからな)
「そうですね。それに、私の隠蔽のスキルなんて、教会の中にいる本物の強い魔法師の人が見たら、一発で見破られちゃうかもしれませんし……」
鈴音が真面目な顔で注意を促す。
「……はい、気をつけます」
イリーナは自省するように、シュンと青い頭を下げてしまった。
「よし! じゃあ、そんな暗い話は終わりにして、早速食べましょーか!」
鈴音は場を盛り上げるように、元気よく話題を切り替えた。
「は、はいっ! いただきまーす!」
イリーナは口元から涎を垂らしそうな勢いで、ナイフで小さく切ったパンケーキをフォークで掬い、口へと運んだ。
「はむっ……。――っ!!! う、うみゃーいっっ!!!!」
一口入れた瞬間、イリーナはあまりの美味しさに身悶えし、感動のあまり瞳に涙を浮かべた。
「うん! うみゃいです! 鈴音さん、これ、もっとおかわり注文しましょう!」
イリーナは早くも次の皿を見据えて目を輝かせている。
(よく食うなぁ、二人とも……。鈴音が大食いなのはマルドの街で知ってたけど、イリーナも相当な甘党だな?)
「はむっ! ……ふわい! せいどはああいおのひんひさえてあすから!」
(口いっぱいに詰め込みすぎて何言ってるかサッパリ分からん。聖女は甘いものを禁止されてますから、って言いたいのか?)
(落ち着け落ち着け。まあ……そんなに美味いなら、連れ出した甲斐があったってことで良かったな)
「えすへ! おっおはへてくらはい!」
(お前も口いっぱいに頬張りながら相槌打つんじゃねえよ! もっと落ち着け!)
「うむぐっ……、ぷはっ! 分かってますけど、だって本当に美味しいんですもん! ねー、イリーナさん!」
鈴音はゴクンと飲み込み、イリーナに同意を求める。
「ねー!」
イリーナも嬉そうに満面の笑みで返す。
贅沢なスイーツを前に、お互いに口の周りを生クリームだらけにしながら笑い合う二人のやり取りは、傍から見ていてえらく微笑ましかった。
(はぁ……、なんか親戚の女子高生たちのピクニックを見てる気分だわ。俺も歳を取るのは嫌だねぇ)
大満足するまでパンケーキを平らげたイリーナは、お腹をさすりながら、次に「女の子らしいオシャレをしてみたいです!」と言い出した。
俺たちはそんな彼女の願いを叶えるため、今度はルシアニアで一番トレンディと言われている高級洋服店へと足を運んでいた。
「あーっ! これなんか、イリーナさんに絶対似合いそうですよ!」
鈴音は完全に火がついたようで、店のラックから次々と可愛らしいドレスやフリルのついた服を引っ張ってくる。
「ほ、本当ですか……? 私、いつも教会の決まったローブしか着たことがなくて、よく分からなくて……」
試着室の中で、完全に鈴音の「着せ替え人形」と化しているイリーナが、カーテンの隙間から心配そうに顔を出す。
「お客様! 素晴らしいです、めちゃくちゃお似合いですよ!」
鈴音の隣では、隠蔽魔法で見え方が変わっているはずの店員ですら、イリーナの持つ圧倒的なスタイルの良さと気品に気圧されて、大騒ぎしていた。
(……確かに、何を着せても完璧に着こなすな。顔の認識が隠蔽されてるとはいえ、全体のシルエットや素材が良すぎるから、モデルみたいだわ)
『ちょっと詠太さん、隣で何イリーナさんに発情してるんですか! このドスケベサラリーマン!』
(うるせえ! 似合うっていう真っ当な称賛しか言ってねえだろ! どこが発情だ!)
「け、喧嘩はダメですよ……?」
カーテンの奥から、イリーナがおろおろしがちに声をかけてくる。
「「このドスケベ(鈴音)が!!」」
俺と鈴音の声が、本日二度目の完璧なシンクロを果たす。
「……あはは。本当に、お二人は仲が良いんですね……」
イリーナはそれを見て、クスッと笑った後、どこか少しだけ寂しそうな、悲しげな色を瞳に浮かべた。
「イリーナさん……?」
鈴音がその変化に気づき、小首を傾げる。
「あっ、なんでもないですよ! ただ、本当に息がピッタリで、仲が良いな〜って思っただけです!」
イリーナは慌てて、いつもの明るい笑顔を作ってみせた。
「そんなことないですよ〜。ただの、腐れ縁ってやつです!」
鈴音がふくれっ面でステータス画面を小突く。
(ああ、本当に文字通りの、魂レベルの腐れ縁だからな……)
「あはは……」
イリーナはどこか羨ましそうに、もう一度小さく笑った。
その後も、俺たちはイリーナの「やりたかったことリスト」を一つずつ、全力で消化していった。市場の屋台で珍しい果物を買い食いしたり、綺麗な噴水広場でただぼんやりと空を眺めたり――。
「……はあ。さすがに、たくさん歩いて疲れましたね」
夕暮れ時のオレンジ色に染まった街中を歩きながら、鈴音が心地よい疲労感と共にポツリと呟いた。
街の影が長く伸び、大聖堂の尖塔が夕日に照らされて美しく輝いている。
「……ごめんなさい。私の我儘な家出に、一日中付き合わせちゃって」
イリーナが申し訳なさそうに、うつむきながら言った。
「え? あっ、いやいや! 気にしないでください、私たちもすっごく楽しかったですから! 本当に、地元で友達と放課後に遊んでる時みたいで……」
「……友達……」
イリーナが、消え入りそうな小さな声でその単語を呟く。
「え?」
鈴音が聞き返した、その瞬間。
「いや! なんでもないです!」
イリーナはバッと顔を上げると、突然タタタッと前に走り出し、鈴音の数歩前でくるりと振り返って立ち止まった。
「イリーナさん……?」
夕暮れの光をその身に背負いながら、イリーナは鈴音と、そして俺のいる空間を交互に見つめ、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。
「今日は、本当に楽しかったです! 私、生まれてから今日が、間違いなく一番最高の日でした! この日の思い出は、一生、絶対に忘れません!」
「イリーナさん……」
「……では、もう教会の方も大変なことになっているでしょうし、帰らなくちゃいけないので、私、帰りますね!」
「えっ? もう、帰っちゃうんですか……?」
鈴音が名残惜しそうに一歩を踏み出す。
「はいっ! ウタゴエさんも、鈴音さんも、本当にありがとうございました!」
イリーナは最後に、夕日に負けないくらい大輪の花のように綺麗な笑顔を咲かせた。
けれど、その笑顔の裏には、どこか秋の終わりに散っていく桜のような、胸を締め付ける切なさが混じっているように見えた。
イリーナは何度も大きく手を振り返しながら、大聖堂の巨大な正門の中へと、走って戻っていった。
彼女が敷地内に入ってしばらくすると、遠くの奥の方から、
『せ、聖女様ーーーっ!? 一体どこに行かれていたのですか!?』
『無事か! 怪我はないか! 捜索隊を呼び戻せ!』
という、悲鳴にも似た凄まじい大騒ぎとざわめきが、こちらまで地響きのように伝わってきた。
(……っと。俺たちもこれ以上ここに居座ってたら、不審者として巻き添えを喰らいそうだし、さっさと今日の宿へ行くか)
「……そうですね」
鈴音は、イリーナが消えていった大聖堂の門をじっと見つめたまま、いつもより少しトーンの暗い声で返事をした。
(……どうかしたか、鈴音)
「……なんでもないです。ただ、明日はあの子が主役の『大聖祭』ですよね。……明日、聖女としてのイリーナさんの姿を、近くで見に行きましょうか、詠太さん」
(……ああ。そうだな。あいつがどんな顔をして仕事をしてるのか、拝みに行ってやろうぜ)
夕闇が街を包み込む中、俺たちは少しだけ後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、静かに今夜の宿へと向かって歩き出すのだった。




