離れてくれへんから
「……どういう意味」
喉が乾いていた。
美月は俯いたまま、何も言わない。
さっきからそればっかりだった。
でも今の言葉だけは、聞き流せなかった。
“知ったら離れへん”
それはつまり、何かを隠してるって認めたようなものだった。
「なあ、美月」
できるだけ落ち着いた声を出そうとする。でも少し震えてしまう。
「何の話してる」
美月の指先がぎゅっと握られる。
白くなるくらい強く。
「……言いたくない」
「なんで」
「言ったら、終われへんから」
「終わりたくないから聞いてんだろ」
思ったより強い声が出た。
美月の肩がまた小さく跳ねる。
その反応を見るたびに、自分が責めてるみたいで苦しくなる。でも、止まれなかった。
「俺さ、ずっと分かんなかったんだよ」
息を吐く。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「急に距離置かれて、知らない男いて、好きな人できたとか言われて」
笑いそうになる。
全然笑えないのに。
「意味分かんないだろ、普通に」
美月は黙ったままだ。
「俺、何回も考えた」
声が少しずつ掠れていく。
「俺が冷たかったのかとか、飽きられたのかとか、何かしたのかとか」
言葉にするたび、胸が痛くなる。
「でもお前、何も言わないじゃん」
沈黙。
時計の針の音が妙に大きい。
美月はずっと下を向いていた。
長い髪が顔を隠して、表情が見えない。
それが嫌だった。
「顔見て話せよ」
その瞬間、美月の肩が小さく震える。
ゆっくり顔が上がる。
目が赤かった。
今にも泣きそうだった。
「……嫌いやないよ」
呼吸が止まる。
「え」
「嫌いになったわけちゃう」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
頭が真っ白になる。
じゃあなんで。
なんでこんなことになってる。
「じゃあ何で……」
声がうまく出ない。
美月が泣きそうな顔のまま笑う。
無理やり作ったみたいな笑顔だった。
「うちがおったら、悠真しんどなるから」
「意味分かんねえよ」
即答だった。
本当に分からなかった。
「しんどいわけないだろ」
「なるねん」
「ならない」
「なる」
「なんで決めつけんの」
少しずつ感情が混ざっていく。
怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。
美月は苦しそうに目を伏せた。
「……うち、あかんから」
「何が」
「もう、前みたいには無理やねん」
その言い方が、妙に引っかかった。
“好きじゃない”じゃない。
“無理”。
その違いが、頭に残る。
「……病気?」
気づけば聞いていた。
美月の身体が止まる。
一瞬だった。
でも、確かに。
「は」
「違うの」
返事がない。
その沈黙だけで十分だった。
心臓が嫌な音を立てる。
「……マジで?」
美月が顔を逸らす。
「大したことないから」
「嘘つけ」
反射的に言っていた。
「大したことないやつが、こんな別れ方するかよ」
美月の目に涙が溜まる。
でも、こぼさないようにしてるのが分かった。
「……ごめんな」
「だから謝んなって!」
また声が大きくなる。
もう感情の抑え方が分からなかった。
「なんで一人で抱え込むんだよ!」
美月がびくっとする。
その顔を見た瞬間、胸が痛む。
怒鳴りたいわけじゃない。
泣かせたいわけでもない。
ただ、知りたかった。
なんでこんなことしたのか。
なんで俺を遠ざけるのか。
「俺、そんな頼りない?」
掠れた声で聞く。
美月が勢いよく首を振る。
「違う」
「じゃあ」
「……優しいから」
またそれだった。
美月が涙を堪えながら笑う。
「悠真、絶対離れてくれへんやん」
「当たり前だろ」
即答だった。
そんなの、考えるまでもない。
好きだから。
一緒にいたいから。
それだけだった。
でも、その言葉を聞いた瞬間、美月の目から涙が落ちた。
ぽつ、と。
静かに。
「……ほら」
泣き笑いみたいな顔で、美月が言う。
「そういうとこやねん」
その顔を見た瞬間、胸が締め付けられた。
やっぱりおかしい。
浮気した人間の顔じゃない。
誰かを裏切った人間の顔じゃない。
もっと別の何かだった。
壊れそうなのを必死に隠してるみたいな、そんな顔だった。
「美月」
名前を呼ぶ。
美月が少しだけ顔を上げる。
「ちゃんと言え」
今度は怒鳴らなかった。
できるだけ優しく言った。
「何があったのか、ちゃんと聞くから」
美月の唇が震える。
何か言いかけて、止まる。
長い沈黙。
時計の音だけが流れる。
それから、美月が小さく呟いた。
「……忘れていくねん」
「え?」
「色んなこと」
息が止まる。
美月は泣きそうな顔のまま、静かに笑った。
「最近、ちょっとずつ記憶抜けてくねん」




