思い出せへん
「……は?」
うまく聞き取れなかった。
いや、聞き取れてはいた。でも頭が理解を拒否していた。
記憶が抜ける?
何言ってるんだ。
そんなの、ドラマとか映画の中の話だろ。
でも美月は笑わなかった。
冗談を言ったあとの顔じゃなかった。
静かに俯いて、自分の指先を見ている。
「病院、行ったんか」
やっとそれだけ聞けた。
美月が小さく頷く。
「……春くらいから、ちょっと変やってん」
声が弱い。
初めて聞くくらい弱々しかった。
「講義の予定忘れたり、昨日話したこと抜けたりして。最初は疲れてるだけやと思ってたんやけど」
そこで少し言葉が止まる。
「悠真との約束、忘れた日あったやろ」
思い返す。
あった。
待ち合わせを勘違いして、一時間遅れてきたこと。
珍しいなって笑って終わった。
「あと、好きな映画のタイトル出てこんかったり。駅、乗り過ごしたり」
美月が苦しそうに笑う。
「ほんまアホみたいやんな」
「……笑えねえよ」
声が勝手に低くなる。
胸の奥がざわついていた。
嫌な予感しかしない。
「病名は」
美月が黙る。
その沈黙が怖い。
「なあ」
「……まだ詳しくは分からへん」
嘘だ、と思った。
本当に分からない人間の顔じゃない。
知ってる顔だ。
全部知ってて、言わない人の顔。
「美月」
「でも、多分進行する」
その瞬間、空気が止まった気がした。
「……は」
「今はまだ普通に生活できる。でも、そのうちもっと忘れるようになるって」
声が震えている。
でも泣かないようにしてるのが分かった。
「先生にも言われた。“大事な記憶ほど残るとは限らない”って」
心臓が嫌な音を立てる。
美月は俯いたまま続ける。
「最初、めっちゃ怖かってん」
小さな声だった。
「朝起きて、自分が何忘れてるか分からへんの。昨日まで覚えてたはずのことが、急になくなってたりする」
想像した瞬間、息が苦しくなる。
「それでな」
美月が笑う。
でも全然笑えてない。
「悠真のこと、忘れたらどうしよって思った」
その言葉が、胸の奥に重く落ちた。
「……」
何も言えなかった。
美月が続ける。
「最初はな、絶対嫌やって思ってた。治す方法探して、頑張って、ちゃんと一緒におりたいって」
少しだけ声が掠れる。
「でも無理やって分かってきて」
「決めつけんなよ」
思わず言う。
「まだ分かんないだろ」
「分かるよ」
静かな声だった。
その静かさが逆に苦しかった。
「うち、自分のことやもん」
そう言って笑う。
その笑顔が、痛々しいくらい弱かった。
「最近な、思い出せへんこと増えてきてん」
視線が落ちる。
「高校ん時の友達の名前とか。小さい頃よう行ってた公園とか」
そこで少し間が空く。
「……悠真との初デートも、ちょっと曖昧になってきた」
息が止まりそうになる。
あの日のこと、俺は今でも覚えてる。
待ち合わせで緊張してたこと。
美月が白いワンピース着てきたこと。
映画の内容より、美月の横顔ばっか見てたこと。
全部覚えてる。
なのに。
「ごめんな」
美月が呟く。
「忘れたくないのに」
ぽつ、と涙が落ちる。
それを見た瞬間、胸がぐちゃぐちゃになった。
今までの怒りが、一気に崩れていく。
代わりに出てきたのは、どうしようもない苦しさだった。
「だから別れようとしたんか」
声が掠れる。
美月が小さく頷く。
「嫌われたほうが、悠真も楽やと思った」
「ふざけんな」
即答だった。
自分でも驚くくらい強く出た。
美月が目を見開く。
「そんな理由で離れられるわけないだろ」
「でも」
「でもじゃねえよ」
感情が抑えられない。
「なんで一人で決めるんだよ!」
声が震える。
怒ってるのか泣きそうなのか、自分でも分からなかった。
「忘れるなら、一緒に覚えてけばいいだろ!」
言った瞬間、美月の涙が溢れた。
ぽろぽろ落ちる。
でも美月は止めようとしない。
「……無理やもん」
「無理じゃない」
「無理や!」
初めて、美月が声を荒げた。
部屋の空気が揺れる。
美月が泣きながら言う。
「悠真が思ってるより、怖いねん……!」
肩が震えていた。
「今日話したこと、明日抜けてるかもしれへんの。好きやって思った気持ちまで消えるかもしれへんの」
涙で声がぐちゃぐちゃになる。
「そんな状態で、悠真の隣おれへん……!」
胸が痛かった。
苦しかった。
でも、それ以上に。
今、美月が一人でずっとこれを抱えてたことがきつかった。
怖かっただろうな、と思う。
どれだけ不安だったんだろうって。
「……美月」
ゆっくり名前を呼ぶ。
美月は顔を覆ったまま泣いていた。
その姿を見るだけで胸が締め付けられる。
「こっち見ろ」
少しだけ間。
それから、美月がゆっくり顔を上げる。
目が真っ赤だった。
「俺、お前が忘れてもいい」
美月の呼吸が止まる。
「え……」
「何回でも話す。何回でも好きになる」
言葉が自然に出ていた。
考えるより先に。
「初対面からでもやり直す」
美月が涙を流したまま固まる。
「だから勝手に終わらせんな」
その瞬間、美月の顔が崩れた。
堪えてたものが全部壊れたみたいに。
「……っ、なんで……」
泣きながら、美月が笑う。
「なんでそんなこと言うん……」
「好きだからだろ」
即答だった。
迷う理由なんてなかった。
美月はその言葉を聞いた瞬間、子どもみたいに泣き出した。




