声
眠れなかった。
ベッドに入っても目が閉じない。閉じたところで、昨日の光景が勝手に浮かんでくる。
美月の部屋の灯り。
笑い声。
知らない男の声。
耳に残って離れない。
時計を見る。朝の四時だった。
結局、一睡もできないまま朝になった。
カーテンの隙間から差し込む光が妙に白くて、気分が悪かった。
スマホを見る。
通知はない。
前なら、美月から「おはよう」が来ていた時間だった。
少し待つ。
五分。
十分。
来ない。
分かってる。たまたまかもしれない。寝てるだけかもしれない。忙しいだけかもしれない。
そんなこと、もう自分でも信じてないくせに。
スマホを伏せる。
でも数秒後にはまた手に取ってしまう。
気づけば、美月とのトーク画面を開いていた。
去年のやり取りが残っている。
――会いたい
――今会ってるやん
――もっと
――欲張りやなあ
そんな他愛もない会話。
その一つ一つが、今はやけに苦しかった。
人ってこんな簡単に変わるんだな、と思った。
昨日まで好きだったものを、急にいらなくなるみたいに。
そんなふうに、俺もいらなくなったんだろうか。
大学へ向かう準備をしながら、何度も考える。
聞くべきか。
直接。
ちゃんと。
でも、もし本当にそうだったら。
認めた瞬間、全部終わる。
それが怖かった。
教室に入っても集中できなかった。
教授が何を話しているのか、ほとんど頭に入ってこない。
ノートを開いたまま、同じところをずっと見ていた。
ポケットの中でスマホが震える。
反射的に取り出す。
美月だった。
心臓が嫌な跳ね方をする。
――今日、ごめんやけど電話できへん
短い文章。
それだけ。
理由もない。
前なら絶対に「なんで?」って聞いてた。
でも今日は、聞けなかった。
聞いたところで、どうせ本当のことなんて返ってこない気がした。
――分かった
送信。
既読がつく。
返信はない。
その画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
隣の席の友人が「大丈夫か?」って声をかけてきたけど、うまく返事ができなかった。
昼休み、一人で学食の端に座る。
周りは騒がしいのに、そこだけ妙に静かに感じた。
味もしないカレーを無理やり口に運びながら、ぼんやりスマホを見る。
美月のアイコン。
前に撮った海の写真だった。
風で髪が少し乱れていて、目を細めて笑っている。
あの日、美月はずっと楽しそうだった。
「また来たいな」
そう言って、砂浜を歩いていた。
俺の少し前を。
振り返って、「はよ来てや」って笑って。
あのとき確かに、美月は俺を好きだった。
それだけは嘘じゃなかったはずなのに。
「……なんでだよ」
気づけば声が漏れていた。
何が足りなかった。
何が駄目だった。
もっと優しくすればよかったのか。
もっと会えばよかったのか。
ちゃんと気づいてれば違ったのか。
分からない。
考えても分からない。
でも頭は勝手に探し続ける。
“自分が悪かった理由”を。
そのときだった。
学食の入口の方が少しざわつく。
なんとなく顔を上げる。
心臓が止まりそうになった。
美月だった。
男と一緒だった。
昨日までの“遠くから見た”感じじゃない。
近かった。
普通に隣を歩いていた。
男が何か話して、美月が小さく笑う。
その横顔を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
あの顔を、俺は知ってる。
好きな人に向ける顔だ。
ずっと見てきたから分かる。
美月がふと顔を上げる。
目が合った。
一瞬だった。
でも、確かに合った。
美月の表情が止まる。
笑顔が消える。
男が「どうした?」みたいに美月を見る。
時間が変に遅かった。
逃げたかった。
でも身体が動かなかった。
美月が、こっちへ歩いてくる。
男に何か言って、そのまま一人で。
近づいてくる足音だけがやけに大きく聞こえた。
「……悠真」
声が掠れていた。
そんな声、初めて聞いた。
「何してんの」
聞きたかったことは山ほどあった。
でも口から出たのは、それだけだった。
美月が少し俯く。
「……友達」
「男の?」
「うん」
「へえ」
自分でも驚くくらい冷たい声だった。
美月が苦しそうに眉を寄せる。
でも、知らなかった。
俺だって苦しかった。
昨日からずっと。
「最近ずっと一緒にいるよな」
「……偶然やって」
「家にもいた」
その瞬間、美月の顔色が変わった。
分かりやすいくらい。
「あ……」
「いたよな」
否定しろよ、と思った。
違うって言えよ。
何でもいいから。
「悠真、それは」
「何?」
声が強くなる。
周りの視線が少し集まる。
でも止められなかった。
「俺、なんかした?」
美月が黙る。
その沈黙が、何よりきつかった。
「なんで何も言わないんだよ」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
本当にそうだった。
謝罪なんか欲しくなかった。
欲しかったのは理由だった。
納得できる理由。
全部勘違いだったって言葉。
それだけだった。
でも美月は言わない。
ただ苦しそうに俯いてるだけだった。
「好きなやつ、できた?」
聞いた瞬間、自分で吐きそうになった。
聞きたくなかった。
でも聞かずにはいられなかった。
美月の肩が小さく震える。
長い沈黙。
そのあと、小さな声で、
「……分からへん」
と言った。
その瞬間、何かが切れた。
「あっそ」
立ち上がる。
椅子が大きな音を立てる。
周りが見る。
でもどうでもよかった。
「悠真、待って」
腕を掴まれる。
その手を反射的に振り払ってしまった。
美月の目が見開かれる。
俺も、一瞬固まった。
初めてだった。
美月の手を、あんなふうに払ったの。
「……ごめ」
言いかけて、やめる。
違う。
謝りたいのはこっちじゃない。
分からなくなる。
何が正しくて、何が間違ってるのか。
美月が泣きそうな顔でこっちを見ていた。
でも、その顔すら信じられなくなっていた。
「もういい」
吐き出すみたいに言う。
「……帰る」
背を向ける。
後ろで美月が何か言った気がした。
でも聞かなかった。
聞いたら、止まりそうだったから。
学食を出て、そのまま外へ出る。
息がうまくできなかった。
胸の奥が痛い。
苦しい。
悔しい。
悲しい。
ぐちゃぐちゃだった。
それでも頭のどこかで、まだ思っていた。
違ってほしいって。
全部、勘違いであってほしいって。
でも。
美月が何も否定しなかったことだけが、ずっと頭から離れなかった。




