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第92話 雨の中のノアールと、その後のシーン

ノアールが出演する夏ドラマの放送が始まった。


ルミエールとソレイユは、テレビの中にいるノアールの姿を見ることになる。

木曜の夜。


リビングのテレビには、ノアールが出演する夏ドラマの初回放送が映っていた。


ノアール本人はいない。


今日はドラマ関係の打ち合わせがあり、放送時間には戻れないと連絡が来ていた。


ソレイユはソファに座り、クッションを抱えていた。

ルミエールはその隣で、静かにテレビを見ている。


画面の中のノアールは、いつものノアールとは少し違っていた。


黒い髪は雨に濡れ、頬には水滴が流れている。

静かなのに、どこか危うい空気があった。


ドラマは、男女の三角関係と四角関係が絡む、心理サスペンスの恋愛ドラマだった。


誰が誰を好きなのか。

誰が本当のことを言っているのか。

近づいているようで、互いに試し合っている。


甘いだけの恋愛ではない。

優しい言葉の裏に、疑いと嫉妬が混じっている。


「ノアール、雰囲気が全然違う……」


ソレイユは小さく言った。


ルミエールは答えず、画面を見ていた。


雨のシーンが始まった。


人工雨だと分かっていても、画面越しには本物の雨に見える。

強い雨音の中で、ノアールが演じる女性と、海斗が演じる男性が向かい合っていた。


近い。


台詞は少ない。

けれど、画面から離れられない空気がある。


ノアールの手が、相手の服に触れる。


一瞬だけ、時間が止まったように見えた。


次の瞬間、雨の中で二人の距離が消えた。


ソレイユは何も言わなかった。


クッションを抱える手に、少しだけ力が入る。


ルミエールは、息をひそめるようにして画面を見ていた。


これは、ただ台本通りに触れただけの演技ではない。


画面の中のノアールは、受け身ではなかった。

自分から踏み込んでいる。


逃げずに。

止まらずに。

むしろ、何かを選ぶように。


ルミエールは、その理由を少しだけ知っている。


これは、まだノアールに闇が残っていた頃のシーンだ。


雨の場面が終わり、次の場面へ移った。


けれど、その後の会話や距離感まで含めて、地上波で放送できるぎりぎりの大人っぽいシーンに見えた。


ソレイユは、クッションを抱えたまま動かなかった。


ルミエールは小さく息を吐いた。


「確かに……踏み込みがすごい」


ドラマが終わり、エンディングが流れた。


部屋の中に、少しだけ沈黙が残った。


先に口を開いたのは、ソレイユだった。


「悠斗となら……ああいうシーンでも、できるかもしれないけど」


ソレイユは、消えたテレビ画面を見たまま言った。


「他の人は無理。好きでもない人と、あんな空気を作るのは無理だわ」


ルミエールは、静かにソレイユの言葉を聞いていた。


「キスだけじゃなくて……その後の演技とか、私にはまだ無理」


ソレイユはクッションを抱え直した。


「ノアールはすごいな。あんなシーンも、ちゃんと大人っぽく演じられるんだもん」


少し間が空いた。


「でも……悠斗となら、ちょっとだけ憧れるかも」


その声は、自分でも確かめるように小さかった。


ソレイユはすぐに顔を伏せた。


「……こんな仕事、私には来ないよね?」


ルミエールは落ち着いた声で答えた。


「来て、嫌なら断ればいい話です」


「そんなに簡単に?」


「はい。できない仕事を無理に受ける必要はありません」


ソレイユは少しだけ息を吐いた。


「そっか……」


それでも、テレビの中のノアールの姿は、まだ頭から離れなかった。


雨の中で踏み込んだノアール。

その後の場面まで、大人っぽい空気を崩さなかったノアール。


自分とは違う場所にいるように見えた。


「私、ちょっと髪、伸ばそうかな」


ソレイユがぽつりと言った。


「髪ですか?」


「うん。今の髪も嫌いじゃないけど……もう少し、大人っぽく見えたらいいなって」


ソレイユは、自分のツインテールの先を指でつまんだ。


「ノアールみたいにはなれないけど、私も少しは変わりたいなって思ったの」


ルミエールは、ソレイユの横顔を見た。


「無理に変わる必要はありません。でも、自分で変えたいと思うなら、いいと思います」


「うん」


ソレイユは小さくうなずいた。


「すごかったな……」


ソレイユはクッションを抱えたまま、小さくつぶやいた。


その時、ルミエールのスマホが鳴った。


マネージャーからのメールだった。


ルミエールは画面を確認する。


「……新しい仕事の話があるそうです」


「え? 私たちに新しい仕事?」


ソレイユが顔を上げた。


「詳しい内容は、明日の放課後、事務所で話すそうです」


「LUMISORAに?」


「はい。LUMISORAに、だと思います」


テレビの画面は、もう次の番組に変わっていた。


けれど、雨の中のノアールと、その後のシーンは、まだ二人の中に残っていた。


翌日。


学校では、朝からノアールのドラマが話題になっていた。


教室に入ると、あちこちで同じような声が聞こえてくる。


「昨日のドラマ観た?」


「ノアールの演技、すごかったよね」


「あの雨のシーンも、その後もすごかった」


「アイドルっていうより、女優って感じだった」


ノアールはまだ登校していなかった。


けれど、彼女の名前だけが教室の中を何度も通り過ぎていく。


ソレイユは席に座りながら、その声を聞いていた。


みんなが、ノアールを大人っぽいと言っている。

すごいと言っている。

昨日までとは違う種類の注目が、ノアールに向いていた。


ソレイユは机の上に鞄を置いた。


自分が褒められる時は、たいてい明るいとか、元気とか、かわいいとか、そういう言葉が多い。


それは嫌ではない。


でも、昨日のノアールに向けられている言葉とは違う。


大人っぽい。

演技がすごい。

空気が変わった。


その言葉の重さが、少しだけ胸に残った。


昼休みになっても、話題は続いていた。


「ノアールって、あんな演技できるんだね」


「ドラマの役、かなり大人っぽかった」


「次も観る」


その声を聞きながら、ソレイユは自分の髪に触れた。


少し伸びてきたツインテール。


昨日までは、ただいつもの髪だった。

でも今日は、少しだけ違って見えた。


このまま伸ばしたら、少しは大人っぽく見えるだろうか。


そう考えてしまった自分に、ソレイユは少しだけ戸惑った。


放課後。


ルミエール、ソレイユ、ノアールの三人は事務所へ向かった。


ノアールは昨日のドラマの話をされるたびに、少しだけ返事に困っているようだった。


「学校でも、かなり話題になっていました」


ルミエールが言うと、ノアールは小さく息を吐いた。


「……見られてると思うと、変な感じ」


「すごかったよ、ノアール」


ソレイユが言った。


ノアールはソレイユを見た。


「本当に?」


「うん。私には絶対できない」


その言葉は、褒め言葉だった。

けれど、ソレイユ自身の中に少しだけ引っかかりも残っていた。


事務所に着くと、マネージャーが三人を会議室へ案内した。


机の上には、数枚の資料が置かれていた。


そこには、見慣れないタイトルが書かれている。


『異世界人生交換ゲーム』


「何このアニメ、面白そう」


ソレイユが資料をのぞき込む。


「人生交換って、ちょっと怖いけど……」


ルミエールは、タイトルを静かに読んだ。


マネージャーは資料を開いた。


「今回、LUMISORAにこのアニメのオープニングテーマを担当してほしいというお話が来ています」


「アニメの主題歌って、私たちが歌うの?」


ソレイユの声が、少し遅れた。


「はい」


マネージャーはうなずいた。


「アニメの主題歌は、ドラマやバラエティのように皆さんの顔が毎回映る仕事ではありません。でも、毎週オープニングで曲が流れます。作品を見ている人が、曲からLUMISORAを知ってくれる可能性があります」


「顔は出ないけど、声で知ってもらうってこと?」


「そうです。今のLUMISORAにとっては、とても大きなチャンスです」


ノアールは資料を見つめていた。


マネージャーは続けた。


「曲は、明るいだけではなく、疾走感と少しの切実さがほしいそうです。怖さや不安を抱えながらも、自分の人生を取り戻そうと走り出す。そんな曲にしたいそうです」


その言葉を聞いて、ノアールは少しだけ顔を上げた。


怖さも、不安も、知っている。


自分ではないものに引っ張られそうになりながら、それでも自分で選ぼうとしてきたことも。


「……なんだか、私みたい」


ノアールが小さくつぶやいた。


ルミエールは、その言葉を静かに受け止めた。


ソレイユも、すぐには茶化さなかった。


昨日のドラマのノアール。

雨の中で踏み込んだノアール。

そして今、曲のテーマに自分を重ねたノアール。


そのどれもが、少しずつつながっているように感じた。


「LUMISORAとして歌うなら、三人の声が必要です」


マネージャーは言った。


「ノアールさんの強さ。ルミエールさんの透明感。ソレイユさんの明るさ。その全部が、この曲には合うと思います」


ソレイユは資料を見つめた。


昨日のノアールのように、大人っぽい演技ができるわけではない。

好きでもない相手と、あんな空気を作ることも、今の自分にはできない。


でも、歌なら。


明るさなら。

走り出す力なら。


自分にもできることがあるかもしれない。


「私、歌いたい」


ソレイユが言った。


その声には、いつもの明るさが戻っていた。


「このアニメ、ちゃんと観てみたい。曲も、ちゃんと歌いたい」


ルミエールはうなずいた。


「私もです」


ノアールも、資料をもう一度見た。


『異世界人生交換ゲーム』


それが、LUMISORAが主題歌を担当するアニメのタイトルだった。


「私も、歌いたい」


ノアールは静かに言った。


マネージャーは三人を見た。


「では、正式に進めます。デモ音源と歌詞の初稿は、後日届く予定です」


会議室の窓の外は、夕方の色に染まり始めていた。


ノアールのドラマが始まり、学校ではその名前が話題になった。


そして今度は、LUMISORAの声がアニメのオープニングで流れるかもしれない。


顔ではなく、声で。

演技ではなく、歌で。


三人の次の仕事が、静かに動き出していた。

雨の余韻の先で、LUMISORAの次の扉が少しずつ開き始めました。

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