第81話 噂になった名前
ブランシュの妹役としてドラマ撮影を終えたルミエール。
写真集やドラマでの反響を受け、今度はブランシュと二人で新しい仕事の話が持ち上がります。
けれど、事務所で待っていたルミエールは、アンナからノアールに関する気になる噂を聞くことになり――。
事務所から急に呼び出しがあったのは、ドラマ撮影を終えて数日後のことだった。
内容は、ブランシュとルミエールに関する新しい仕事の話だという。
詳しいことは、二人がそろってから説明するとだけ伝えられていた。
ルミエールは指定された時間より少し早く、事務所へ到着した。
白を基調にしたロビーには、午後のやわらかな光が差し込んでいた。
壁には所属タレントのポスターが並び、その中にはブランシュの写真集の告知ポスターも貼られている。
ブランシュとルミエールが並んで写った表紙。
撮影の時は夢中だったけれど、こうして事務所の壁に貼られているのを見ると、少し不思議な気持ちになった。
ブランシュは別の仕事が少し押しているらしく、少し遅れると連絡が来ていた。
ルミエールはロビーのソファに腰を下ろそうとした。
その時だった。
「あら、珍しいわね」
声をかけてきたのは、アンナだった。
アンナはロビーの奥にあるソファに座って、スマートフォンを片手にこちらを見ていた。
「今日は一人なんて。いつものお子様と黒猫はいないの?」
「ソレイユとノアールのことですか?」
「そうそう。それに、あのお姉さんも」
「あのお姉さん……?」
「ブランシュよ。最近、似てるからって、すっかりくっついて回っちゃって。写真集にドラマに、今度は事務所に呼び出し? ずいぶん仲良しなのね」
アンナは笑っているように見えた。
けれど、その声には、どこか小さな棘が混じっていた。
ルミエールは静かに答える。
「ブランシュさんは、別のお仕事で少し遅れるそうです」
「ふうん。じゃあ、ちょうどよかった」
アンナは少し身を乗り出した。
「それより、聞いた? あの黒猫のこと」
「ノアールのことですか?」
その名前を聞いた瞬間、ルミエールの胸の奥に、先日の撮影所の廊下がよみがえった。
いつもより大人びて見えたノアール。
その腰に自然に手を添えていた海斗。
少し離れたところを歩いていた、顔色の良くないレン。
そして、硬い表情をしていた凛。
ただすれ違っただけなのに、あの時、廊下の空気が一瞬重くなったように感じた。
「そう。そのノアール。ちゃんと見張っていてよね」
アンナは、面白がるような声で続けた。
「レン君に手を出したと思ったら、今度は海斗君にまで手を出してるって噂だよ」
「……噂、ですか」
「そう。まあ、噂だけどね。でも、現場ではけっこう広まってるみたいよ。レン君のことだけでもややこしいのに、今度は海斗君でしょ? そりゃ、海斗君の彼女の凛がカンカンになるのも無理ないわよね」
ルミエールは、すぐには返事ができなかった。
海斗に彼女がいるのか。
凛が本当に怒っているのか。
ノアールがその噂の中心にいるのか。
聞き返したいことはいくつもあった。
けれど、アンナの口調には、どこまでが事実で、どこからが面白がっているだけなのか分からない軽さがあった。
ここで深く聞けば、余計に話を広げてしまう気がした。
「ノアールは、そんな人ではありません」
ルミエールは、静かにそう言うだけにした。
アンナは肩をすくめる。
「さあ? でも、芸能界なんて、見えてるものが全部じゃないでしょ」
その言葉だけが、妙に冷たくロビーに残った。
ちょうどその時、入口の方から足音がした。
「ルミエールさん、お待たせしてごめんなさい」
ブランシュだった。
仕事先から直接来たのか、少し急いできたようだったが、表情はいつも通り穏やかだった。
「いえ。私も少し早く着いただけです」
ルミエールはそう答えた。
アンナはブランシュを見ると、何事もなかったように立ち上がった。
「じゃあ、私はそろそろ行くわ。二人とも、新しいお仕事、頑張ってね」
そう言って、アンナは軽く手を振り、ロビーを出ていった。
ブランシュは少しだけ不思議そうに、その背中を見送った。
「アンナさんとお話していたの?」
「……少しだけです」
「そう」
ブランシュはそれ以上、深くは聞かなかった。
やがて二人はスタッフに案内され、事務所の会議室へ向かった。
会議室には、担当スタッフと音楽制作担当の男性が待っていた。
机の上には資料が置かれている。
そこには、ブランシュとルミエールの写真集の表紙と、ドラマ撮影時のスチール写真が並んでいた。
スタッフは二人が席に着くのを待ってから、にこやかに話し始めた。
「今日は急に来てもらってごめんなさい。実は、二人に新しい企画の話があります」
ブランシュとルミエールは顔を見合わせた。
「写真集の反応が、とても良いんです。発売後の評判も安定していますし、二人が並んだ時の雰囲気がいいという声が多く届いています」
スタッフは資料をめくった。
そこには、書店イベントの写真や、宣伝用のカットがまとめられていた。
「それから、先日のドラマ撮影。ブランシュさんの妹役としてルミエールさんに参加してもらいましたが、現場での評価もかなり良かったです」
ブランシュが少し照れたように微笑んだ。
「本当の姉妹のように見える、と言っていただけたのは嬉しかったです」
「そこなんです」
スタッフはうなずいた。
「写真集でも、ドラマでも、二人の並びに強い魅力がある。だから、今度は歌で見せてみたいという話になりました」
「歌……ですか?」
ルミエールが静かに聞き返す。
音楽制作担当の男性が資料を差し出した。
「ブランシュさんとルミエールさんの二人で、期間限定のユニット曲を出したいと考えています」
「私と、ルミエールさんで……」
ブランシュの声に、驚きと喜びが混じった。
「はい。ブランシュさんの上品で透明感のある声と、ルミエールさんの澄んだ声は、かなり相性がいいはずです。写真集の世界観ともつながるような、少し幻想的で、でも優しい曲にしたいと思っています」
スタッフはさらに説明を続けた。
曲の方向性。
衣装のイメージ。
レコーディングの日程。
急な企画ではあるが、写真集とドラマの流れがある今だからこそ、早めに動きたいということだった。
「レコーディングは少し急になります。二人のスケジュールを見ながら、できれば近日中に仮歌確認、その後すぐ本録りに入りたいです」
「そんなに早く進むのですね」
ルミエールが言うと、スタッフは笑った。
「今の反応を大事にしたいんです。二人の空気感が注目されているうちに、きちんと形にしたい」
ブランシュは資料に視線を落とし、それからルミエールを見た。
「ルミエールさんは、どう思う?」
「私は……」
ルミエールは少しだけ考えた。
ブランシュと一緒に歌う。
写真集やドラマで一緒に過ごした時間が、また別の形になる。
それは素直に嬉しいことだった。
「やってみたいです。ブランシュさんとなら」
そう答えると、ブランシュの表情がやわらかくなった。
「私も。ルミエールさんとなら、きっと大丈夫だと思うわ」
その言葉に、スタッフたちも安心したようだった。
話し合いはその後も続いた。
曲の仮タイトルはまだ決まっていない。
けれど、イメージはすでに固まりつつあった。
白い光。
姉妹のような距離感。
遠い場所から届く声。
二人で並んだからこそ生まれる、透明であたたかな歌。
話を聞いているうちに、ルミエールの胸にも、少しずつ期待が広がっていった。
ブランシュと歌う未来。
それは、この時代でしか得られない、大切な経験になる気がした。
会議が終わる頃には、外の光は少し傾いていた。
事務所を出ると、ブランシュは小さく息をついた。
「驚いたわね。まさか、こんなに早く次のお話が来るなんて」
「はい。写真集とドラマのあとに、歌までつながるとは思いませんでした」
「でも、楽しみね」
ブランシュは嬉しそうに言った。
「ルミエールさんと一緒なら、きっと綺麗な曲になると思うの」
「ブランシュさんの声があるからです」
「そんなことないわ。ルミエールさんの声も、とても綺麗だもの」
二人は並んで歩いた。
夕方の空は淡い茜色に染まり、ビルの窓に光が反射している。
明るい話をしているはずだった。
新しい仕事。
新しい曲。
ブランシュと二人で作る、初めての歌。
けれど、ルミエールの胸の奥には、アンナから聞いた話が残っていた。
あの日、撮影所の廊下で見たノアールの姿。
それを、ブランシュに話していいのかどうか、ルミエールにはまだ分からなかった。
「あの、ブランシュさん」
ルミエールは、思わず声をかけた。
「なあに?」
ブランシュが穏やかに振り向く。
その顔を見た瞬間、ルミエールは言葉を止めた。
今、話していいのだろうか。
ブランシュはノアールの姉だ。
不確かな噂を、軽く口にしていい相手ではない。
アンナの言い方には、面白がっているような響きもあった。
もしかしたら、ただの現場の噂かもしれない。
あの日のノアールだって、役に入っていただけかもしれない。
ここで話して、ブランシュの明るい気持ちを曇らせてしまっていいのだろうか。
「……いえ。曲、頑張りたいです」
ルミエールはそう言って、小さく微笑んだ。
ブランシュも優しく笑った。
「ええ。一緒に頑張りましょう」
その笑顔を見て、ルミエールは胸の奥の言葉を飲み込んだ。
まだ、話す時ではない。
そう思うことにした。
ブランシュと別れ、ルミエールは家へ帰った。
玄関の扉を開けると、奥から明るい足音が聞こえてきた。
「ルミエール、おかえり!」
ソレイユがぱたぱたと駆けてきた。
その声を聞いた瞬間、ルミエールの胸の奥に張っていたものが、少しだけゆるんだ。
「ただいま、ソレイユ」
「どうだった? 事務所のお話。ブランシュさんと一緒だったんでしょ?」
ソレイユは興味津々という顔で、ルミエールを見上げてくる。
その無邪気な表情に、ルミエールは一瞬、口を開きかけた。
ソレイユになら、話せるかもしれない。
ノアールのことを。
アンナから聞いた、あの噂のことを。
けれど、すぐに思い直した。
ソレイユは今、悠斗への気持ちを抑えている。
好きなのに、簡単には近づけない。
この時代にずっといられるわけではないから、心の奥にあるものを、必死に抱えている。
そんなソレイユに、ノアールがレンや海斗と噂になっているなどと話したら、きっと心をかき乱してしまう。
恋を我慢しているソレイユに、誰かの恋愛の噂を背負わせるべきではない。
「……うん。ブランシュさんと、今度一緒に歌を出すことになったの」
「えっ、本当に? すごいじゃない!」
ソレイユの顔がぱっと輝いた。
「ブランシュさんとルミエールの歌なんて、絶対きれいだよ!」
「急にレコーディングが決まって、少し驚いたけれど」
「いいなあ。私も聞きたい!」
ソレイユは心から嬉しそうに言った。
その明るさに、ルミエールは小さく微笑む。
「ありがとう、ソレイユ」
「ノアールにも教えたら、きっと喜ぶよ」
その名前が出た瞬間、ルミエールの胸がわずかに揺れた。
けれど、表情には出さなかった。
「……そうですね」
今は、言わないでおこう。
アンナから聞いたことは、まだ噂でしかない。
あの日見たノアールの姿も、ただ役に入っていただけかもしれない。
もう少しだけ、様子を見よう。
ルミエールはそう決めた。
明るい家の中に入っても、胸の奥に残った違和感だけは消えなかった。
噂になった名前。
ノアール。
そして、海斗。
ルミエールはまだそれを誰にも言えないまま、静かに胸の奥へしまった。
読んでくださりありがとうございます。
ブランシュとルミエールに、新しい歌の仕事が入りました。
写真集、ドラマ、そして歌へ。
二人の関係が少しずつ形になっていく一方で、ノアールの周りには気になる噂も出始めています。
ルミエールはまだ誰にも話せないまま、もう少し様子を見ることにしました。




