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第31話 待てなかった光

祖父を待つはずだったルミエールとソレイユ。

けれど、扉の向こうで聞こえた声が、二人を動かします。

 翌日の夕方。


 ルミエールとソレイユは、事務所の入った建物の前に立っていた。


 祖父との約束では、ここで待つことになっている。


 祖父が来るまでは動かない。


 中にも入らない。


 それが、昨夜決めたことだった。


「少し早く着きすぎましたね」


 ルミエールが言った。


「そうですね」


 ソレイユは、いつもより静かだった。


 その手には、小さなケースがある。


「それは……」


「保険です」


 ソレイユは短く答えた。


「使わずに済めば、それでいいです」


 ルミエールは、それ以上聞かなかった。


 中身は、だいたい分かっている。


 金。


 この時代で、人を縛るもの。


 そして、時には鎖を切るもの。


 ソレイユは、それを持ってきていた。


     *


 受付で祖父の会社名を伝えると、二人は事務所の奥へ案内された。


「こちらでお待ちください」


 案内されたのは、廊下に置かれた長椅子だった。


 近くには、いくつかの部屋の扉が並んでいる。


 ルミエールとソレイユは、並んで腰を下ろした。


 祖父はまだ来ていない。


 待つ。


 それだけのはずだった。


 けれど、少し離れた部屋から声が聞こえた。


 低い男の声だった。


「ここにサインすればいい」


 ルミエールの指が止まった。


 ソレイユも顔を上げる。


 声のした部屋の扉は、完全には閉まっていなかった。


 中の言葉が、ところどころ漏れてくる。


「昔はさ。“最後に一稼ぎ”ってのが、一番数字出たんだよ」


 ルミエールの胸が、きゅっと縮む。


 昨夜、祖父から聞いた言葉がよみがえった。


 ヌード写真集。


 濡れ場を含む映画やドラマ。


 スポンサー向けの会食。


 借金を理由に、断れない仕事。


 そのすべてが、扉の向こうにある気がした。


 しばらく沈黙があった。


 そして、小さな声。


「……分かりました」


 ルミエールは、息を止めた。


 ブランシュの声だった。


 この時代では、まだルミエールを知らない人。


 それでも、未来ではママになる人。


 その人が、扉の向こうでサインしようとしている。


「待ちましょう」


 ルミエールは、自分に言い聞かせるように言った。


「おじいちゃんが来るまで、待つ約束です」


 ソレイユは、扉を見ていた。


 その顔から、いつもの明るさは消えている。


「待てません」


「ソレイユ」


「あの人は、今サインしようとしています」


 ルミエールは何も返せなかった。


 ペン先が紙に触れる。


 そんな気配がした。


 ソレイユは、小さなケースを持ち直した。


「ルミエールさん」


「はい」


「見せてあげましょう」


 その言葉で、ルミエールは分かった。


 もう、止められない。


 そして、自分も止まるつもりはなかった。


     *


 次の瞬間。


 ソレイユが扉を強く押し開けた。


 大きな音が、部屋に響く。


「相変わらずね」


 ソレイユの声が、冷たく落ちた。


 部屋の中にいた全員が、こちらを見る。


 マネージャー。


 ショコラ。


 ブランシュ。


 机の上には、黒い契約書。


 ブランシュの手には、まだペンが握られていた。


 ルミエールは、ブランシュを見た。


 未来で何度も抱きしめてくれた人。


 けれど、この時代のブランシュは、ルミエールを知らない。


 ただ突然現れた白い猫耳の少女として、こちらを見ていた。


 ソレイユが、目だけで合図を送る。


「見せてあげなさい。この人たちが一生かかっても届かない、本物を」


 ルミエールは、一歩前へ出た。


 音楽はない。


 舞台もない。


 それでも、彼女が動いた瞬間、部屋の空気が変わった。


 声は、まっすぐだった。


 余計な力がなく、それでいて芯がある。


 ブランシュは、思わず息を止めた。


 素人には見えなかった。


 自分がずっと求めていた表現に近いものが、そこにあった。


 磨けば間違いなく光る。


 そう思わせるだけのものがあった。


 歌い終えた時、部屋は静まり返っていた。


「……次は私ね」


 ソレイユが前へ出る。


 彼女が即興で台詞を口にした瞬間、部屋の視線が集まった。


 荒さはある。


 けれど、目を奪う力があった。


 明るさ。


 勢い。


 そして、迷いのなさ。


 ショコラは、思わずソレイユを見た。


 この子も、ただの素人ではない。


 磨けば、大きく化ける。


 そう思わせる華があった。


 マネージャーの顔つきが変わった。


 さっきまで契約書を押しつけていた顔ではない。


 もっと分かりやすい顔。


 金になるものを見つけた顔だった。


 ソレイユは、それを見逃さなかった。


「ねえ、その顔」


 ソレイユは、少しだけ笑った。


「あ、今、頭の中で電卓たたいてるでしょ?」


 マネージャーは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 ソレイユは、小さなケースを机に置いた。


 ふたを開ける。


 中から、金色の延べ棒を一本取り出した。


 重い音を立てて、机の上に置く。


 部屋の空気が、また変わった。


「とりあえずの手付けよ」


 ソレイユは言った。


「私の国じゃ、これは壁の材料だけど」


 マネージャーの視線が、金に吸い寄せられる。


 怒りより先に、計算が走っている。


「これで、あの契約は破棄」


 ソレイユは、契約書を指さした。


「彼女たちの権利は、こっちに移す。借金は残していいわ。私たちが稼いで返すから」


「そんな勝手なことを――」


 マネージャーが言いかける。


「勝手?」


 ソレイユは、その言葉を遮った。


「借金を理由に、裸になる仕事や、望まない仕事へ追い込もうとしていた人が言うの?」


 部屋が凍った。


 ショコラが息をのむ。


 ブランシュの手から、ペンが落ちる。


 ルミエールは、ブランシュの方へ視線を向けた。


 大丈夫です。


 そう言いたかった。


 でも、言えなかった。


 今の自分に、その言葉を受け取ってもらえる資格があるのか、分からなかった。


     *


「競争しましょう」


 ソレイユは、静かに言った。


「あなたたちのやり方と、私たちのやり方」


 その目が、契約書ではなく、ショコラとブランシュへ向く。


「どちらが、あの子を生かせるか」


 ノアール。


 この部屋に、本人はいない。


 けれど、名前だけは確かにそこにあった。


 ショコラの表情が揺れる。


 ブランシュも、何も言えずに立っていた。


 救われた。


 でも、納得はできない。


 そんな顔だった。


 ルミエールには、それが分かった。


 自分たちは、助けに来た。


 でも同時に、ショコラとブランシュが積み上げてきたものを、目の前で動かしてしまった。


 正しいことをした。


 それでも、傷つけずには済まなかった。


 その重さが、ルミエールの胸に残った。


     *


 廊下から、落ち着いた足音が近づいてきた。


 部屋の扉の前に立っていたのは、祖父だった。


 その隣には、事務所の社長もいる。


 社長は、部屋の中を見た瞬間、表情を変えた。


 机の上の金。


 床に落ちたペン。


 黒い契約書。


 黙り込んだショコラとブランシュ。


 そして、扉の前に立つルミエールとソレイユ。


「これは、どういうことだ」


 社長の声は、マネージャーへ向けられていた。


 マネージャーは、わずかに顔を引きつらせる。


「いえ、これは三姉妹の今後の展開として――」


「その契約書は、まだ私の承認を通していないはずだ」


 社長の声が低くなった。


 マネージャーは、一瞬だけ言葉に詰まる。


「ですが、出版社もテレビ局もスポンサーも待ってくれません。今なら数字が取れるんです」


「だから、先にサインさせようとしたのか」


「先に押さえれば、本社への実績になります」


 マネージャーの声には、焦りが混じっていた。


「これだけの案件をまとめれば、事務所にも金が入る。俺の評価も上がる。社長だって、数字を出せと言っていたでしょう」


 社長は、すぐには返せなかった。


 祖父は、机の上の黒い契約書を見た。


「本人たちの意思より、自分の営業成績ですか」


 マネージャーは黙った。


「数字を出すために、本人たちを壊すなら、それは仕事ではありません」


 祖父の声は静かだった。


 けれど、その一言で、部屋の空気はまた変わった。


 祖父は社長へ向き直る。


「では、予定していたCM契約の話を始めましょう」


 社長は、すぐには答えられなかった。


「ただし、条件はこちらから出します」


     *


 その後の話し合いは、長く続いた。


 祖父は、まず問題の契約書を机の端へ押しやった。


「この契約は、少なくとも今ここでサインさせるものではありません」


「ですが、本人たちも了承を――」


 マネージャーが言いかける。


「了承しているようには見えませんでした」


 祖父の声は静かだった。


「御社が今欲しいのは、短期的な話題性でしょう。だが、わが社が欲しいのは、長く信頼される広告です」


 社長は黙っていた。


「ブランシュさんをCMに起用する件は、進めます」


 祖父は続けた。


「ただし、同時期にヌード写真集や濡れ場を含む企画を出すなら、わが社は契約しません」


 マネージャーが不満そうに顔を動かした。


「それでは、こちらの利益が――」


「利益なら、こちらが出す契約額で補えるはずです」


 祖父は淡々と言った。


「その代わり、ショコラさんとブランシュさんに望まない仕事を押しつけないこと。ノアールさんの復帰を無理に話題作りへ使わないこと。三人の契約と借金の内訳を、こちらに開示すること」


「そこまで要求される筋合いは――」


「では、金は引き上げます」


 祖父の声は変わらなかった。


 社長は、机の上の金を見る。


 さらに、祖父の持ってきた契約書を見る。


 計算している。


 ルミエールにも分かった。


 この人たちは、人の心より数字を見る。


 だから、祖父は数字で押している。


 しばらくして、社長は低く言った。


「……分かりました。先ほどの契約は、いったん下げます」


 ブランシュの体から、少しだけ力が抜けた。


 ショコラが、そっとその背に手を添える。


 ルミエールは、それを見て胸が熱くなった。


 まだ終わっていない。


 でも、ひとつは止められた。


     *


 その時、ルミエールは一歩前へ出た。


「おじいちゃん」


 祖父が、ルミエールを見る。


「私たち、この事務所で活動します」


 部屋の空気が止まった。


 社長も、マネージャーも、ショコラも、ブランシュも、ルミエールを見る。


 ルミエールは、まっすぐ言った。


「ノアールさんと一緒に」


 ショコラの表情が変わる。


 ブランシュも顔を上げた。


「キャットスターを、終わらせるためではありません。ノアールさんが戻ってこられる場所にするためです」


 ソレイユも隣に立つ。


「私も活動します。歌でも演技でも、必要なら出ます」


 それから、ショコラとブランシュを見る。


「ショコラさんとブランシュさんだけに、背負わせないためにも」


 祖父は、しばらく黙っていた。


「簡単に言うな」


 低い声だった。


「芸能事務所で活動するということは、契約に入るということだ」


「分かっています」


「分かっていない」


 祖父の声は厳しかった。


「だから、契約は私が見る。条件もこちらで決める。君たちは、勝手にサインしない」


 ルミエールは、しっかりうなずいた。


「はい」


 ソレイユも答えた。


「分かりました」


 祖父は、今度は社長へ向いた。


「それと、この二人についてですが」


 祖父は、ルミエールとソレイユを示した。


「知り合いから預かっている、大事なお嬢様たちです」


 社長の視線が、二人へ向く。


「歌も演技も、先ほど見ていただいた通りです。使い方を間違えなければ、大きな力になるでしょう」


 祖父は、そこで少し声を低くした。


「ただし、無理な仕事はさせないでください」


「無理な仕事、と言いますと」


 社長が慎重に聞いた。


「本人たちが望まない露出。断りにくい会食。借金や契約を理由に逃げ道をなくすような仕事です」


 祖父は、机の端に寄せた黒い契約書を見た。


「そういう扱いをするなら、この話はすべて白紙に戻します」


 社長は、黙った。


「この二人は、こちらが責任を持って預かっている子たちです」


 祖父は静かに言った。


「商品ではありません」


 その言葉に、ルミエールは胸の奥が少し熱くなった。


 ショコラも、ブランシュも、何も言わない。


 けれど、さっきまでとは空気が違っていた。


 少なくとも、この部屋の中で、もう一方的に契約書を突きつけることはできない。


     *


 事務所を出る頃には、外はもう暗くなっていた。


 ルミエールとソレイユは、祖父の少し後ろを歩いている。


 誰もすぐには話さなかった。


 やがて、祖父が立ち止まる。


「二人とも」


 低い声だった。


 ルミエールとソレイユは、そろって足を止めた。


「約束は破ったな」


「……はい」


 ルミエールは答えた。


 ソレイユは、視線をそらさなかった。


「でも、待てませんでした」


「分かっている」


 祖父は短く言った。


「だから後始末はした」


 ソレイユは、少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


「礼を言う前に、反省しなさい」


「はい」


 ソレイユは素直にうなずいた。


 けれど、その声に後悔は少なかった。


 祖父も、それ以上は責めなかった。


「今日止められたのは、契約書一枚だ」


 祖父は言った。


「事務所そのものが変わったわけではない」


「分かっています」


 ルミエールは答えた。


「でも、ママたちを止められました」


「ああ」


 祖父はうなずいた。


「それは確かだ」


 ソレイユが、夜の空を見上げる。


「ノアールさんも、いつか分かってくれるでしょうか」


 ルミエールは、すぐには答えなかった。


 ノアールは、今日ここにはいなかった。


 でも、ずっとこの場にいた。


 名前だけが何度も出ていた。


 守りたい相手として。


 利用されそうな相手として。


 そして、生かしたい相手として。


「分かってもらえるように、これから学校で会います」


 ルミエールは言った。


「少しずつ」


 祖父は、静かに歩き出した。


「そうしなさい」


 夜風が、頬を撫でる。


 冷たいけれど、昨日までとは違う。


 ルミエールは、胸の奥で小さく息を吸った。


 扉は、開けてしまった。


 もう、外から見ているだけではいられない。


 ノアールを囲む影の中へ、光は一歩踏み込んだ。

読んでいただきありがとうございます。

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