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第23話 命をつなぐ光

ルミエールとソレイユが、病院の上に現れた闇へ向かう話です。

 病院の上だけ、夜が濃く沈んでいた。


 黒い雲のようなものが、風もないのに留まり続けている。


 その内側で、歪んだ魔法陣がゆっくりと回っていた。


 面会時間はとっくに過ぎ、消灯時間も過ぎている。


 夜のネコノミヤ大学附属病院は、静まり返っていた。


 その静けさの上にだけ、異様な闇が浮かんでいる。


 ルミエールは、息を整えようとした。


 けれど、胸の奥は静まらなかった。


 あの下に、ノアールがいる。


 ノアールはまだ生きている。


 そのことだけを、何度も自分に言い聞かせた。


 祖父は病院の関係者と短く話していた。


 その横で、ソレイユは空を見上げたまま、小さなケースを両手で持っている。


 白を基調にした華やかなドレスの裾には、虹色の光がまだかすかに残っていた。


 パーティーへ向かう途中だったのかもしれない。


 それでもソレイユは、着替える時間さえ惜しんで地球へ来た。


 今、その顔に迷いはなかった。


「屋上へ上がれますか」


 ソレイユが言った。


 祖父はすぐにうなずく。


「関係者用の通路を使う。人目は避ける」


「お願いします」


 ルミエールはもう一度だけ空を見た。


 黒い渦は、ゆっくりと回っている。


 まるで、病院の中にいる誰かを探しているみたいだった。


 三人は職員用の通路へ入った。


 廊下は白く明るい。


 消毒の匂いがする。


 夜なのに、病院の中にはまだ人の気配があった。


 足音。


 小さな声。


 遠くで鳴る機械の音。


 この建物のどこかで、ノアールの命をつなごうとしている人たちがいる。


 そう思うと、ルミエールの胸が詰まった。


 エレベーターが上がっていく。


 数字がひとつずつ変わるたび、手に力が入る。


 ソレイユは隣で静かに立っていた。


 ドレスの裾が、病院の白い光を受けて不思議に揺れている。


 その姿は、この場所ではあまりにも異質だった。


 けれど、浮ついてはいない。


 今ここにいる誰よりも、まっすぐだった。


 最上階で降り、さらに階段を上る。


 屋上へ続く扉の前で、祖父が足を止めた。


「開けるぞ」


 ソレイユがうなずいた。


 ルミエールも息を吸う。


 扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。


 風ではない。


 空気そのものが、別のものに変わっていた。


 屋上へ出たルミエールは、思わず足を止めた。


 病院の上空。


 黒い渦が、そこにあった。


 近くで見ると、さらに大きい。


 墨を垂らしたような闇が、何重にも重なっている。


 中心には底の見えない穴のような暗さがあり、その周りを歪んだ魔法陣が回っていた。


 円は完全ではない。


 欠けている。


 ねじれている。


 それでも、無理やり形を保とうとしている。


 見ているだけで、胸の奥を引っ張られるようだった。


「……これが、ノアールの上に」


 ルミエールの声がかすれる。


 ソレイユは一歩前へ出た。


 澄んだ瞳が、まっすぐ黒い渦を見上げる。


「ノアールさんだけのものではありません」


「え?」


「何かが、ノアールさんを通り道にしようとしています」


 その言葉に、ルミエールの背筋が冷たくなった。


 通り道。


 ノアールの命を、世界の歪みが通る場所にしている。


「そんなの……」


 ルミエールは唇を震わせた。


「そんなの、許せません」


「止めます」


 ソレイユは言った。


 短い言葉だった。


 けれど、その声には迷いがなかった。


 黒い渦の内側で、何かが脈打つ。


 音は聞こえない。


 それなのに、胸の奥へ直接響くような圧があった。


 祖父が低く言う。


「二人で何ができる」


 ソレイユは小さなケースを開いた。


 中から現れたのは、宝石のついた豪華な杖だった。


 細やかな装飾が入った金色の杖。


 先端には大きな宝石がはめ込まれ、夜の中で静かに輝いている。


「完全に消すことは、まだできません」


 ソレイユは杖を手に取った。


「でも、広がるのは止められます。ノアールさんの命の流れを、切れないように支えることもできます」


「治すのではないのか」


「治療ではありません」


 ソレイユの声は静かだった。


「戻ってこられる道を残します」


 ルミエールは、その言葉を胸に入れた。


 戻ってこられる道。


 それなら、自分にもできるかもしれない。


 助けると叫ぶだけではなく。


 生きて戻るための道を、つなぐ。


「私もやります」


 ルミエールは自分の杖を握った。


 白銀の細い杖。


 先端には、澄んだ青い宝石がはめ込まれている。


 未来から持ってきたものの中で、ずっと使うのが怖かった。


 けれど、今はもう迷っている場合ではない。


 杖を握った瞬間、青い宝石の内側に小さな光がともった。


 ソレイユは隣に立つ。


「はい。一緒に」


 二人が並ぶと、屋上の床に光の紋様が広がった。


 ルミエールの足元には、青い月光のような魔法陣。


 ソレイユの足元には、白と虹色が重なる華やかな魔法陣。


 二つの円は、少しずつ近づき、重なり合う。


 夜の屋上に、光の輪がいくつも開いていった。


 祖父は少し離れた場所で、息をのんで見ていた。


 手は出せない。


 それでも、目を逸らさなかった。


「闇の中心は見ないでください」


 ソレイユが言う。


「引き込まれます」


「はい」


「輪の欠けた部分を探してください。そこからほどきます」


 ルミエールは黒い魔法陣を見上げた。


 歪んだ円。


 ねじれた線。


 まるで、壊れた鎖が空に巻きついているようだった。


 その中に、一か所だけ、光が途切れている場所がある。


「あそこですか」


「はい」


 ソレイユが杖を掲げた。


 宝石が強く光り、白と虹色の光が弧を描いて空へ伸びる。


 それはただの光ではなかった。


 細い星の粒をいくつも連ねた、まばゆいリボンのようだった。


 ルミエールも杖を握り直す。


 青い宝石が震え、杖先から澄んだ青い光が放たれた。


 二本の杖から伸びた光が、夜空で交わる。


 青。


 白。


 虹色。


 それぞれの光が重なり、病院の上空に新しい魔法陣を描き出した。


 黒い渦が、大きく揺れた。


「っ……!」


 ルミエールの腕に痛みが走る。


 ただ触れただけなのに、冷たいものが血の中に流れ込むようだった。


「離さないでください」


 ソレイユの声が届く。


「でも、飲み込まれないで」


「はい……!」


 ルミエールは足を踏みしめた。


 青い光が一瞬揺れる。


 すぐにソレイユの虹色の光が、それを支える。


 二つの魔法陣が、屋上と空の間で重なった。


 闇が押し返してくる。


 黒い渦の縁から、紫の稲妻のようなものが走った。


 屋上の空気が震え、ソレイユのドレスの裾が大きく広がる。


 ルミエールの白銀の髪も、風もないのにふわりと浮いた。


 その一瞬、病院の上空が昼のように明るくなった。


 虹色の光の輪が、何重にも開く。


 青い光の糸が、その輪の中心を縫うように走る。


 黒い魔法陣の欠けた部分に、二人の光が触れた。


 ひびが入る。


 闇の円が、音もなく割れていく。


 ひとつ。


 またひとつ。


 黒い線がほどけ、紫の光の欠片になって夜空へ散った。


 けれど、渦の中心はまだ残っている。


 それはまるで、ノアールを離すまいとしているようだった。


「まだです」


 ソレイユが言う。


「下へつながっています」


「下……?」


「ノアールさんの命の流れに、闇が絡んでいます」


 ルミエールの胸が強く鳴った。


 集中治療室。


 ノアールの身体。


 まだ会えていない少女。


 ママの妹。


 助けたい人。


「どうすれば」


「光を落とします」


 ソレイユは杖を構えたまま言った。


「でも、強すぎてはいけません。命令するのではなく、道を示すだけです」


 ルミエールはうなずいた。


「戻ってこられるように」


「はい」


 二人は屋上の端へ近づいた。


 病院の中のどこにノアールがいるのか、ルミエールには見えない。


 けれど、不思議とわかった。


 下の階。


 白い光の部屋。


 たくさんの機械の音。


 眠ったままのノアール。


 そこへ向かって、ルミエールは杖先を下ろした。


 青い光が、細い川のように流れていく。


 ソレイユの杖からは、白と虹色の粒子が降り注いだ。


 壁も、床も、距離も越えて、二つの光は下へ降りていく。


 ルミエールの目には、光の先が見えているような気がした。


 黒い影が、ノアールの胸の奥に絡みついている。


 細い糸のように。


 冷たい根のように。


 それを無理に引き剥がせば、ノアール自身まで傷つけてしまう。


 だから、ほどく。


 少しずつ。


 そっと。


「ノアール……」


 ルミエールは小さく呼んだ。


 まだ会ったことのない相手。


 けれど、ずっと探してきた人。


「戻ってきて」


 青い光が、ノアールの周りを包む。


 ソレイユの虹色の光が、その光をさらに支える。


 闇が一度、強く揺れた。


 ルミエールの胸にも痛みが走る。


 それでも、杖を下ろさなかった。


「あなたは、まだここにいていいの」


 声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからなかった。


 ただ、その言葉と一緒に青い光が強くなる。


 ソレイユの杖が、さらにまばゆく輝いた。


 屋上の上空で、黒い渦が大きく歪む。


 魔法陣の最後の輪に、ひびが入った。


 今度は、確かに音がした。


 ガラスが砕けるような、高く澄んだ音。


 黒い雲が、ほどけていく。


 闇の中心が崩れ、紫の破片になって散っていく。


 それを追うように、青い光と虹色の光が夜空へ広がった。


 病院の上に溜まっていた重さが、少しずつ薄れていく。


 切れ間から星が見えた。


 その奥に、月も見えた。


 白く、少し黄色がかった光。


 ルミエールは息を吐いた。


 完全に消えたわけではない。


 けれど、空は戻り始めている。


「……一命は、つなげました」


 ソレイユが静かに言った。


 ルミエールはすぐに振り向く。


「ノアールは」


「命の流れは安定しています」


 ソレイユは小さく息を整えた。


「でも、目を覚ますかどうかは、まだわかりません」


 その言葉に、ルミエールの胸が痛んだ。


 助かった。


 でも、終わっていない。


 その現実が、静かに落ちてくる。


「それでも……」


 ルミエールは病院の建物を見つめた。


「戻る道は、残せたんですよね」


「はい」


 ソレイユはうなずいた。


「今は、それが大切です」


 祖父がゆっくり近づいてきた。


「終わったのか」


「いいえ」


 ソレイユは首を横に振った。


「今夜は、命をつないだだけです」


 その言い方に、ルミエールは息をのむ。


 祖父は黙って空を見上げた。


 黒い渦は消えていた。


 歪んだ魔法陣も、もう見えない。


 けれど、空気の奥にはまだ何かが残っている。


 薄い影のようなものが、完全には消えていない。


「ノアールさんの中に、まだ闇は残っています」


 ソレイユが言った。


「原因を断たなければ、また別の形で現れます」


「原因を探る必要があるな」


 祖父が言う。


「はい」


 ルミエールは小さくうなずいた。


 学校。


 ノアールの部屋。


 人間関係。


 黒い影。


 調べなければならないことは、いくつもある。


 でも今は、ひとつだけ確かなことがあった。


 ノアールはまだ生きている。


 その事実だけが、ルミエールの中に光のように残っていた。


 ふと、ソレイユが病院の向かいへ視線を向けた。


「どうしました?」


 ルミエールが聞く。


「今、何か……」


 そこには、夜の建物の影があった。


 街灯の届かない場所。


 黒い小さな影が、屋根の端に座っているように見えた。


 猫だった。


 黒い猫。


 虹色の光が消え、青い気配が夜へ溶けていくのを、じっと見ている。


 ルミエールは息をのんだ。


 黒猫はしばらく動かなかった。


 そして、何事もなかったように建物の影へ消えていった。


「……見ていたの?」


 小さくつぶやいた声は、夜の空気に溶けた。


 祖父が言う。


「ここに長くいるのは危険だ。戻るぞ」


「はい」


 ソレイユも小さくうなずく。


 屋上から下りる前に、ルミエールはもう一度だけ空を見た。


 病院の上には、澄んだ星空が広がっている。


 何も起きていないように見える夜。


 けれど、確かに何かは起きた。


 ノアールの命は、まだここにつながっている。


 ルミエールは胸の前で杖を握った。


 今度こそ、間に合わせる。


 そう心の中で強く思いながら、ルミエールはソレイユとともに屋上をあとにした。

読んでいただきありがとうございます。

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