第82話 帰還
聖都にある、教団の神殿。その廊下を足早に歩く二人の男がいた。
彼らはニアティの執務室の前で立ち止まると、互いに顔を見合わせる。部屋の前にいる守衛たちも、見知った男の緊張した様子に気を遣い、黙って見守っている。
ニアティの副官の男が大きく息を吸い込み、それから部屋の主に声をかけた。
「ニアティ様! 緊急事態です!!」
長椅子に腰掛けて背を預け、ぼんやりと考え事をしていたニアティはその声に我に返り、男の入室を許可する。
自分の副官と、もう一人の男が入ってくるとニアティは片眉を上げ、副官へ鋭い視線を向けた。
「その男は?」
「この男はレシュトロ様の部下なのですが、なんでもレシュトロ様の具合が悪いようで、誰とも会わないとおっしゃっているそうです。しかし緊急事態ゆえ、代わりにニアティ様に報告したいと」
先の地下牢でのレシュトロの様子を思い出し、ニアティは胸の痛みに一瞬顔をしかめたが、すぐに元の顔に戻り、報告を促す。
だが、その男の口から聞かされた内容に、ニアティは再び顔を歪め、思わず言葉を失った。
実は、今神殿にいる巫女は偽物で、本物の巫女は別にいるということ。
本物の巫女ナァラとその母親を聖都に移送中、馬車が何者かに襲われ、二人が連れ去られたということ。
「彼女が、偽物……?」
絞り出すように呟いたニアティは、偽の巫女「ユオーミ」の顔を思い出す。
あの、気高き少女が偽物などとにわかには信じられなかったが、それと同時に、皮肉な思いに囚われる。
交換可能な存在である巫女。実際に「ユオーミ」を処理しようとさえしたニアティからしても、「本物」や「偽物」に意味があるとは思えなかった。
朧の指揮官としては失格だが、むしろ、「ユオーミ」が巫女であることにこそ意味があるように感じ、けれどそれは自分の感傷だと、嘲笑を漏らす。
その、自嘲気味ながらもどこか温かみを感じさせる微笑みを、副官の男はじっと見つめていた。
天井を見上げて逡巡したニアティは、感傷を捨て、現実に集中する。
本当の巫女が別にいて、それを移送していること、そしてその位置まで知っているのは一体誰か?
――そう、朧の中に潜む裏切り者だ。
相手は、巫女に特別な力がなく、交換可能な存在であることを知っている。つまり、これは「ナァラ」個人を狙ったわけではなく、「本来の巫女」を狙った誘拐という訳だ。
「だとするならば、目的は儀式の撹乱。……ひいては教団権威の失墜か」
ニアティは奥歯をぎりりと歯を鳴らすと、胸に染み出すような不快感を振り払うように、勢いをつけて立ち上がった。
「申し訳ありません、ニアティ様。誰も通してはならないと厳命されています」
レシュトロの部屋の前で、警備の男は申し訳なさそうに告げる。
「緊急の用件なのだが」
「申し訳ありません……」
ニアティは扉をじっと見つめ、それから大声を上げた。
「レシュトロ様、ニアティです! 火急の用件があって参りました。どうか、入室を許可願います!」
しかし、部屋の中からは何の返事もなく、ニアティは思わず嘆息する。
生贄の儀式の迫るこのタイミングで、朧の司令塔たるレシュトロが引き籠もるなど、誰が想像できただろうか?
(レシュトロ様不在の間、仮に自分が指揮を執るにしても、情報が足りなさ過ぎる。巫女ナァラをどこまで追うべきか? そもそも犯人に心当たりはあるのか?)
「おや、ニアティ殿。今何やら大声が聞こえたが、レシュトロ様はご在室かな?」
顎に手を当て、レシュトロの部屋の前で思考の海に沈んでいた彼女は、唐突に声をかけられて顔を上げた。
そこには、人好きのする、しかしどこか貼り付けたような笑顔を浮かべるベイツがいた。
ニアティは、思わず眉根を寄せ、慌ててそれを元に戻した。
ニアティは、ベイツの有能さこそ認めてはいたが、あまり好意を抱いてはいなかった。彼女自身も何故なのか上手く言語化できなかったが、彼の作り出す柔和な雰囲気の奥に、得体の知れないものを感じていたのだ。
「……レシュトロ様は今、誰ともお会いにならない」
「ふむ……? 困ったな。レシュトロ様に呼ばれて、今聖都に戻ったところなのですが」
「……」
無愛想に答えるニアティに、別段気を悪くした風でもなく、ベイツが応じる。
少し考えた後、「出直します」と言って去ってゆく彼の背中を、ニアティは凝視する。
(ベイツは今、レシュトロ様に到着の報告をしようとした。つまり、あの時地下倉庫の入口にいて巫女様を導いたことは、レシュトロ様には秘密というわけか……)
「……何を企んでいる?」
ベイツの背中に投げかけたその言葉は、殆ど音の形を取らず、傍から見れば、ただ、ニアティの唇だけが動いたように見えた。
「お帰りなさい!!」
額と頭部の一部に包帯を巻いた状態で、半面を着けたアガナタが奉献の徒の控えの間に入ってきた時、最初に声を上げたのは赤の守護神官だった。
その声に驚き、照れくさそうに応じる彼に、守護神官たちも思い思いに声を掛ける。
「お待ちしていました!」
「やっぱこうでないと!」
オッドーは、長椅子から立ち上がると、何も言わず、ただアガナタと目を合わせて頷いてみせる。
「君が、父に知らせてくれたらしいな。ありがとう。感謝する」
アガナタは、赤の守護神官の方に向き直り、頭を下げた。
赤の神官ははにかんだような笑顔を見せ、嬉しそうに応じた。
「私、あの時もう駄目かと思ったんですよ。でも、神官長が来てくれて、私のことを姪だと言って庇ってくれたんです。
ははは。ということは、管理神官とは従兄妹ですね!」
「ふっ、そうだな。これからもよろしく頼むよ」
そう言って、半面の下から覗く口元に、柔らかい笑顔を見せるアガナタ。この旅の中で一度も見せたことのないその表情に、その場にいた誰もが驚いた。
青の神官たちが顔を見合わせる中、赤の神官は大きく息を吸い込んで、少し緊張した微笑みで応じる。
「で、従兄さん、今度は何を企んでるんですか? 陰でこそこそやってたら、手伝えないでしょ?」
アガナタは驚き、黙ったまま皆の顔を見回す。
それに応じる仲間たちの瞳は、半面越しでも分かるほど強い意志を宿し、その口元には凛々しい微笑みを浮かべていた。そして、最後に目を合わせたオッドーが、再び頷く。
アガナタは瞳を閉じて息を吸い込む。
(――馬鹿だな、俺は)
そして、独りでなんとかしようとしてきた己を恥じた。
自分一人の力でできることなどたかが知れている。ここに、信頼できる仲間がいるのだ。目的を達成するために、必要なことならば何でもすべきなのだ。
大きく息を吐き出して、瞳を開いたアガナタは、静かに、しかしはっきりと皆に問いかけた。
「初めに聞いておきたいのだが、皆、巫女様のために命を捨てる覚悟はあるか?」
「何を今更!」
「当たり前でしょ!」
間髪入れずに返されたその返事に、アガナタは無性に嬉しくなり、微笑みながら続ける。
「うん。では、ここからが本題なんだが、巫女ではなく、一個人としての彼女のために、命をかけることができるだろうか。……正直な気持ちを教えてくれ」
「え? それってどういう……」
管理神官たちに、戸惑いの空気が流れた。
「私は、……いや、俺は、一人の少女としての彼女を救いたいと考えている。つまり、彼女を生贄の運命から解放したいんだ。だがそれは、教団のしきたりに背くことになる」
しん、と静まり返った部屋に、誰かが息を呑む音が響いた。
だが、アガナタは止まらない。一人ひとりの目を見つめながら、はっきりと思いを伝える。
「……生贄の巫女を、終わらせる。そして、彼女を普通の少女として生かしたい。
頼む、皆の力を貸してくれ!」
そう言ってアガナタは頭を下げた。
沈黙が流れる。
「……勝算は?」
重苦しい空気の中、野太い声が響いた。
アガナタが顔を上げると、正面からオッドーが彼を見つめていた。
「勝算は、あるんだろうな? みんな、巫女様のことは大切に思ってる。だが、その一方で守るべき家族がいるのも事実だ。中途半端には乗れない」
「……ある。だが、皆にお願いしたいのは全面的な協力ではない。私が事を起こした時、こちら側に付かなくていい。もし失敗したら、むしろ躊躇なく私を拘束してくれ」
「そんな!」
驚いた神官たちが抗議の声を上げた。だが、アガナタは落ち着いたまま続ける。
「その方が、私も遠慮なく暴れられる。
今回の計画は、どうしても賭けの部分が残る。いざという時の逃げ道として、皆は『知らなかった』ということにして欲しい。けれど、勝機が見えた時に、こちら側について欲しいんだ」
不安そうな瞳が、アガナタを見つめている。
「それに、何もするなってことじゃない。それまで、私の怪しい動きを意識的に見逃してもらう必要がある」
アガナタは意図して「クーデター」という言葉を使うことを避けた。それは何も、彼らを信用していないからではない。ただ、その言葉の響きの重さに、彼らが動揺する事を避けたかったからだ。それに、気休めかもしれないが、仮にどこかで失敗した時に、知らなければ助かる道もあるかも知れない。
一方で、本当に危険な事を伝えない事を後ろ暗く感じてもいた。まるで、自分の罪悪感を軽くするための中途半端な情報開示。だが、これが作戦実行のための最適解であると、自分を無理やり納得させる。
文句なら、事が終わったあとでいくらでも聞こう。
「協力者がいる。生贄の儀式の際にある騒ぎを起こし、そこから一気にひっくり返すつもりだ。……すまない、今皆に示せる情報はここまでなんだ」
赤の守護神官と、瞳がぶつかる。
その真剣な瞳が、アガナタには揺れているように見えた。
「……もう一度聞きます。勝ち目は、あるんですね?」
――きっと、彼女は気づいている
そして彼は自覚する。最早これは「ただ自分を信じてくれ」という願いに過ぎない。
それでも、たとえ卑怯と思われようとも、彼はその言葉を口にする。
「勝ち目は、ある。そのためにできることは全てやり尽くす」
暫しの沈黙の後、赤の神官は微笑みを見せた。
「分かりました。私は協力します」
「やります!」
「勿論です!」
口々に賛同の意を伝える言葉。そして、最後にオッドーが口を開いた。
「お前に、俺達の命を預けよう。ただし、必ずやり遂げろよ。中途半端は許さんぞ」
「皆、ありがとう!」
アガナタは再び頭を下げる。
だが、赤の神官の微笑みが強張っていたのを感じ取り、アガナタは胸が苦しくなる。
様々な人々の運命を巻き込んだ、絶対に失敗できない戦い。失敗すれば、仲間やその家族を破滅へと導くこの一勝負を前に、アガナタは奥歯を強く噛み締め、自分の弱さを飲み込む。
そして顔を上げた彼の顔は、かつての鋭利な管理神官のものに変わっていた。
そんな彼の様子を、オッドーは半面の奥の鋭い瞳で、静かに見つめていた




