第81話 泥濘の誓い
ニアティにより血を拭われた後、頭に布を巻かれたアガナタは、地下牢の壁に背を預けて座り込み、目を瞑ったまま浅い呼吸を繰り返す。そして、そんな彼にしがみついて泣くユオーミ。
「額からの出血が酷いです。とりあえず応急処置はしましたが、すぐに医者に診せたほうが良いでしょう。まずは傷口を清潔にしないと」
二人を見下ろしながらアーオステニアに進言するニアティ。当然ながら包帯の持ち合わせなどなく、彼女は迷わず自らの袖を引き裂くと、それを止血の代用とした。
アーオステニアは彼女に礼を言い、二人に目をやる。
拘束から解放された際、一度皆の顔に目を走らせていたことから、意識ははっきりしているようだったが、今、アガナタは目を閉じてユオーミの呼びかけに反応しない。
ただ、何かに耐えるように眉間に皺を寄せる彼を見つめ、必死で声をかけるユオーミ。
「アガナタさん、大丈夫ですか? 私です。ユオーミです。分かりますか?」
返事のないアガナタにユオーミは戸惑い、そっと彼の手を握る。アガナタはビクリと体を震わせたかと思うと、眉間の皺をさらに深くした。
それはまるで、ユオーミを拒絶しているようにも見え、彼女の眼差しに悲しみの色が浮かぶ。
けれど、彼女は手を離さない。繰り返し呼びかけ、彼の手をさする。
ユオーミは目に涙を浮かべ、じっとアガナタの顔に視線を注いだ後、自分の手首の紐飾りを外し、僅かに震える手で、まるで祈るかのように、少しくたびれたそれをアガナタの左手首に結んだ。
そして、彼の左手に手のひらを合わせて指を組み、もう片方の手で彼の手首を紐飾りの上から握りしめる。
「アガナタさん。ユオーミです。お願い、声を聴かせて。あなたが無事だと、確認させて欲しいの。……私は、ここにいます!」
薄暗い地下牢に、アガナタの浅い呼吸とユオーミの鼻をすする音だけが響いていた。
その重苦しい空気に耐えかねたように、唐突にニアティがユオーミの側に進みより、片膝を着いて彼女に語りかける。
「巫女様。大変厚かましいのですが、少し彼と二人で話をさせていただけませんでしょうか?」
突然の彼女の提案にユオーミは驚いたが、ニアティの真剣な瞳に気づき、もう一度アガナタの顔を見てからゆっくりと頷いた。
ニアティにより、ユオーミとアーオステニアは上階の倉庫に追い出され、アガナタは彼女と二人きりになった。
アガナタは壁にもたれて両足を投げ出し、項垂れたまま、石像のように動かない。
彼女は苛立ちを隠そうともせず、立ったままアガナタを見下ろして吐き捨てるように言う。
「いつまでそうしているつもりだ。ここに来て、お前の安っぽいプライドを見せつけられるとは思わなかったぞ。あまり失望させるなよ?」
心が、軋む音がした。
何も、言い返す言葉が見つからなかった。
「必ず側にいて守り抜く」と、彼女に誓った。
だが、現実はどうだ?
己の失態により、管理神官の任を解かれ――側にいる資格も、守り抜く力さえも失った。それどころか、自分が周りの人間に災いを撒き散らす元凶であると、今まで目を逸らし続けてきた現実を、あの女に言われて直視せざるを、認めざるを得なかった。
そして、こんな自分を探しに来たユオーミに、怪我まで負わせてしまった。
情けなく拘束され、好き放題に殴られ、血に染まり、無様に泣き叫ぶ自分の姿を、彼女に晒してしまった。
失望しただろう。こんな男が横に立って、「君を守る」などとほざいていたのだ。その愚かしさに薄ら寒さすら覚える。
俺は、君の側にいるだけで災いを呼び寄せる。
親も、兄弟も、君さえも不幸にして、どんな顔をしてその隣に立っていられるというのか。
もう駄目だ。何もかも終わりにしたい。
でも、死ぬこともできない。
いっそ先程、あの女に頭を叩き割られていれば楽になれたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、唐突に顔の前から大声で怒鳴りつけられた。
「巫女様が泣いているぞ! お前がそんな体たらくで、彼女は誰を信じて禊の天幕に入るんだ!
このままでは、巫女様は生贄として殺されてしまう。お前はそれでいいのか!? そんな、その程度の覚悟で、お前は「生贄の巫女を終わらせる」と叫んだのか?
お前がここで折れてしまっては、巫女様はどうなる。助けるんだろう? 彼女を!
生贄の運命を打ち破るなど、そんな狂気じみた願いを抱き、愚直にそれを成し遂げられる人間など、お前しかいないじゃないか! 目を覚ませ馬鹿者が!」
パァンと乾いた音が響き、唐突に左頬が熱を持った。
頬を張られ、思わず顔を上げて目を開くと、屈み込んだニアティの顔が目の前にあった。
彼女の瞳は揺れながら、まっすぐにアガナタを捉える。
「お前の気持ちなんて知るか! 馬鹿者が……。巫女様の気持ちを考えろ!!」
そう行って彼女は歯を食いしばり、アガナタの左手を掴み上げた。
自分の眼前に引き上げられた左手。その手首に、紐飾りが見えた。
ところどころ血で汚れてしまっていたが、それは間違いなくユオーミの、ラニーアから送られた紐飾り。
「今のお前を見て、ラニーアが喜ぶと思うのか!! これ以上、誰かを泣かすんじゃない!!」
胸が激しく締め付けられた。体中を血液が巡る感覚が、まるで水の底から浮かび上がるように蘇ってくる。血潮が昂ぶり、その圧倒的な熱さに思わず身震いする。
無価値な自分の命など、僅かにも惜しくはない。
手も、足も動く。
運命を覆すと、誓った。
その為に生きてきた。
……あと少し、あと少しだけ。
ユオーミの未来の為に。ラニーアとの、約束を果たすために。
そっと左手をニアティの拘束から外し、彼女を見つめ返すアガナタの瞳に、力が宿る。
「すまない。……ちょっとどうかしていたな。大丈夫、俺はやれる。……礼をいう」
そして、立ち上がろうとしてふらつき、ニアティに支えられながらようやく立ち上がるアガナタ。
酷くやつれてはいたが、妙にスッキリした顔でつぶやく。
「ダサすぎだな、俺は……」
同じく立ち上がり、呆れたように彼を見返しながら、意地の悪そうな笑顔を向けてニアティが応える。
「お前が格好悪いなんて今に始まったことじゃないだろうが! そんなこと気にすることじゃない。地を這い、泥をすすりながら泣き叫ぶくらいで丁度いい。
それでもやってのけるのがお前だろうが! この馬鹿アガナタ!」
その言い方がなんだかおかしく、思わずアガナタは笑ってしまう。
それは、一体いつぶりの笑顔だろうか、自分の頬の筋肉が強張っているのを感じながら、彼は、視線を地下牢の出口へと向けた。
「感謝する。……巫女様に、謝りに行ってくる」
ふん、と鼻を鳴らし、アガナタを追い出すように手をひらひらとさせて彼女が応じる。
「さっさと行ってこい。ちゃんと格好悪く謝るんだぞ!」
手燭を一つ持ち、巫女の元へと向かうアガナタを目で見送るニアティ。
そして、彼の姿が完全に見えなくなると、彼女は苦笑いを浮かべて呟く。
「……私は、卑怯者だな」
(納得できない今を壊すこともせず、自分でできないことをアガナタに押し付けておきながら、自分も向こう側の人間だと、そう思おうとしている。……本当に度し難い。
……だが、お前が悪いんだ。私が諦め、手放した思いを持ち続け、見せつけてくるお前がな。
必ず、成し遂げろよアガナタ。頼む……。
勝手だが、それが、私が手にかけた者達への供養にもなる)
再び大きく息を吐きだし、それから彼女は周りを見回す。
そして、そこに落ちていた見知った半面を拾い上げ、自分の顔の前に掲げた。
「忘れ物だな。……最早、あの二人にこんなものが必要とも思えないが」
神殿の一階にある医務室の寝台で上体を起こし、すぐ横で椅子に座って自分に視線を注ぐユオーミを、アガナタは見つめ返す。
あの後、倉庫まで行って謝ろうとしたところ、普通に歩き、話すアガナタに安堵したユオーミは、「先にお医者様に見てもらわなきゃ駄目!」と主張し、今、医務室に二人きりの状況だ。
アーオステニアは、医師による処置が終わるのを見届け、それから「用事が終わったら呼んでくだされ」と言い、なぜか医師と一緒に部屋から出ていった。
二人きりとなり、アガナタは一瞬目を泳がせたが、覚悟を決めたように勢い良く頭を下げた。
「すまない! さっきは、君の呼びかけに応えず、心配させてしまった」
「……許しません」
「えっ!?」
驚いて顔を上げたアガナタの視線が、ユオーミの瞳とぶつかる。
彼女の双眸は潤み、唇を固く結んでいた。
半面をつけていないアガナタは、表情を隠すこともできず、罪悪感と不安に覆われた顔を晒してしまう。
その、普段の様子と異なる情けない顔に、思わずユオーミが吹き出した。
涙をこぼしながら笑う彼女に、戸惑い、アガナタの顔は困惑に顔を歪める。
「あの……。ユオーミ、さん?」
その様子に、さらに声を上げて楽しそうに笑うユオーミ。
「そ、そんなに変かな……?」
アガナタはいたたまれなくなり、頭に巻かれた包帯で目元を隠せないかと指でずらそうと試みるものの、しっかりと巻かれた包帯はびくともしない。動揺し、激しく視線をさまよわせながら、時折上目遣いでユオーミの顔を窺うアガナタ。
ひとしきり笑い、手巾で涙を拭いながら、ユオーミはアガナタに笑顔を向ける。
「ごめんなさい。許さないっていうのは嘘。そもそも、許すもなにもないでしょ。私を守ってくれたのはアガナタさんなんだもの」
瞳を落とし、アガナタはそれを否定する。
「いや、君の側にいて、守ることができなかったのは俺の失態だ」
「それを言ったら、私のせいでアガナタさんは連れて行かれてしまったでしょ?」
「それは、俺の力が足りな……」
「もう!」
話を遮ったユオーミに、びくりとして再び顔を上げるアガナタ。
「二人とも悪かった。それでいいでしょ? それとも、それじゃ不満?」
驚き、彼女の顔を見ながら、アガナタは首を左右に振る。
そして、震える唇で思いを告げる。
「頼りないかもしれないけど、もう一度、君を守らせてくれないか」
「……そうじゃない。そうじゃないの、アガナタさん」
「え?」
キョトンとした彼の顔を、そんな彼の様々な表情を追いながら、慈しむように目を細めて彼女は言う。
「ただ、最後まで傍にいて。それだけ。
守るとか、守られるとか、それはどうでもいいの」
アガナタは、その言葉に目を見張る。
「それは……。だけど、守ることができない俺に、価値なんて……」
「アガナタさん!!」
顔を近づけて彼の名前を呼ぶユオーミ。彼女の迫った顔に、思わず体を引くアガナタ。
「貴方が私の名前を呼んで、側にいてくれるだけで、私がどれだけ救われて来たか知ってる? それだけで、もう、他のことなんてどうでも良いくらい、私は貴方に救われてきたの。
だから、ただ、側にいてほしいの。……駄目?」
「……駄目じゃ、ない」
再び瞳を潤ませ始めた彼女に対し、アガナタが声を詰まらせながら答える。
「いや、違う。……ユオーミ。あの。そ、側に、いさせて欲しい。君が……嫌でなければ」
僅かに視線をそらして言うアガナタ。
その表情は、普段の凛々しい彼のものではなく、心を凍らせる前の、十五歳の少年のものだった。
ユオーミの瞳から、涙が溢れだす。
「嫌なわけない! もう。約束だよ!」
そう言い、咄嗟に彼の懐に抱きつき、顔を埋める。
そして、暫くそうしていたかと思うと、震える声で語りだした。
「怖かった。……私、怖かったの! アガナタさんがいなくなってしまって! 目の前で死んじゃうんじゃないかって! お願い! 一人にしないで!」
思い出された恐怖に激しく体を震わせながら、わんわんと声を上げて泣くユオーミ。
この小さな背中で、彼女はこれまで一体どれほどの荷を背負ってきたのか。
アガナタは、彼女のその背中に視線を落とし、そっと撫でながら唇を噛む。
十四歳で生贄として送り出された彼女の苦しみを、無念を、怒りを、絶望を、果たして自分は何か一つでも知ろうとしてきただろうか。
彼の瞳に、涙が溜まってゆく。
たとえ僅かであったとしても、自分に彼女の苦しみを癒やすことができるのならば、それが、自分の願いだと、そう気づく。
そして口に出される、誓いの言葉。
「約束する。俺は、最後まで君の側にいる」
その言葉に、ユオーミは更に力を込めて彼を抱きつき、アガナタも彼女を力強く抱きしめた。
彼の眦から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
そしてユオーミは、更に激しく彼にしがみつき、声の限りに咽び泣いた。
その時、アーオステニアは執務室で外からの怒号を耳にした。
「アーオステニア様! 奉献の徒の神官からの伝言です! ご子息はお元気でしょうか!」
奉献の徒の神官からの伝言。
奉献の徒の管理神官は彼の息子アガナタだ。そして、「ご子息はお元気でしょうか」という問いかけ。
声の主の正体は分からなかったが、彼はすぐにこれが「アガナタの危機を伝えるメッセージ」だと理解した。
一時は処理対象となっていたアガナタだったが、レシュトロの話では巫女ナァラ共々、正式に職務に復帰していたはずだ。
胸騒ぎを抱え、「管理神官」を確認するため彼はすぐに奉献の徒の控えの間を目指した。
そこで起きていた騒動。
素顔を晒して抑え込まれた侍女の格好をした赤の神官。怒鳴る朧の指揮官。叫ぶ、アガナタではない管理神官。呆然と佇むオッドー。
全く状況は分からなかったが、まずは事実の確認が優先と判断し、一方で事は公にできる内容ではないことから、自分の部屋の前で叫んでいたというその赤の神官は自分の姪だと強弁し、奉献の徒については全て自分が確認すると宣言して、朧の指揮官と奉献の徒を残して全員を解散させた。
そして彼は、奉献の徒の控えの間で皆から事情を聞いた。ニアティに「管理神官交代の理由」について問うた彼は、彼女の答えの僅かな揺らぎを徹底的に詰め、ついにはアガナタの居場所を白状させた。
アガナタの危機を確信した彼は、有無を言わせずニアティに地下牢まで案内させるとともに、もしもに備えてオッドーを同行させた。
ただし、半面をつけたままうろつくと奉献の徒が何故、と面倒になることから、それを外させた。
十五年ぶりに見たオッドーは、凛々しく、逞しい男に成長していた。
最終的に、アーオステニアがレシュトロに飲ませた条件は次のとおりとなった。
アガナタの管理神官への復帰。
赤の守護神官を含め、奉献の徒は一切のお咎め無しで任務を継続。
アガナタの代わりを務めていた管理神官は解任されるが、無事に任務を満了したこととして扱い、後日の栄転を確約する。
そして、以後、朧による巫女及び奉献の徒への監視を行わず、禊の儀式までの間、巫女は彼女の控えの間において、管理神官と自由に会うことを認める。
これは、ユオーミとアガナタからアーオステニアが聞き取った要望でもあった。
聖都を取り囲み、高くそびえ立つ城壁。
これは、大陸戦争の後に作られたものであり、この城壁が本来の役目を必要とされた事は今まで一度もない。
城門の前に佇み、その威容を見上げる一団があった。
馬上の四人のうちの一人が感慨深げに呟く。
「ようやく帰ってきた……。本当に長かった」
十五年ぶりに見たその城壁は、彼の記憶の中のそれよりも一回り高く、苔むして貫禄に満ちているように感じられ、込み上げる思いに目を細めた。
冷たい目をした女が鼻を鳴らして応じた。
「そんな感傷は後にして。生憎貴方のお気持ちには興味がないの。さっさと入りましょ」
ユラーカバネは苦笑いして振り返ると、レイシアを見やる。
「……相変わらずつれないな。
まぁ、だが、この時のための準備はしてきた。先程、アガナタが管理神官に復帰したという吉報もあった上、土壇場で頼もしい腕利きも得られたしな」
彼の視線の先に、黒く長い髪を後ろで一つにまとめた男がいた。
ユラーカバネの視線を受け止め、黒髪の男、ヴァスローが怪しく微笑んだ。
「確かに、この男の強さは本物だったわ。これで、仮に神域で不測の事態が起きても安心ね。貴方、頼んだわよ」
ヴァスローはユオーミの側にい続けるため、元の雇い主と同じくグルジオ帝国の工作員であるレイシアに近づき、自分の腕を売り込んだ。
儀式に参加できるのは、主であるユラーカバネと、護衛の三名のみ。クーデターを目論む彼らは、少しでも腕利きが欲しかった。そこで、彼の実力を試したところ、用意していた五名の腕利きの誰よりも強く、かつ、全員同時を相手にしてもその強さは圧倒的だったため、即採用となったのだ。
聖都での護衛として選ばれたもう一人の男、浅黒い顎髭の男の方をちらりと見やり、それからヴァスローは再びレイシアを見返して、笑顔でレイシアに応じる。
「安心してよ。必ず目的は達成するさ」




