第80話 赫い抱擁
アガナタの血だらけの頭を抱きしめ、泣きながら彼の名前を呼び続けるユオーミを、何かこの世のものではないもののようにぼんやりと見つめながら、レシュトロは必死で思考を巡らせる。
なぜこの地下牢に巫女がいる? この地下牢を知っているのはニアティとベイツのみ。ではあの二人のどちらかが裏切った? 何のために? そんなことはあり得ない。私たちは家族だ。では誰が? それとも自分が後をつけられた? いや、扉の前には衛兵がいる。あり得ない。衛兵が裏切った? 何のため? そもそも、これは何なのか? この茶番は何なのか? あり得ない!
あり得ないあり得ないあり得ないありえないありえないアリエナイアリエナイアリエナイ!
レシュトロの領域たる地下牢に、よりにもよって最大級の異物が紛れ込んだ。全く意味が分からず、激しい苛立ちに思考が空回りする。
理解不能な事態に、理解不能であることを受け入れられないレシュトロの体が震え、彼女は咄嗟に感情を怒りへと転じさせた。
ユスノウェル様の治世を乱す、異分子。その排除を邪魔しようと乱入し、この場を乱そうとする小娘。
――許せない
そう、何も難しいことはない。ただ、いつもどおりに引き裂けばよい。
彼女は微笑みを浮かべ、アガナタを抱くユオーミを見下ろして口を開く。
「あらあら、あなた、何をしているの?」
この暗い牢獄におよそ似つかわしくない鈴の音のような声に、ユオーミはびくりと肩を震わせ、彼の頭を抱えたまま首だけでレシュトロを振り返った。
見上げると、口元に微笑みを貼り付けた女が、冷たい目で彼女を見据えていた。
思わず身震いし、生唾を呑み込んだユオーミは、女の威圧感に早くも心が折れそうになった。だが、そのとき彼女は、自分の胸の中にいるアガナタの声が聞こえたような気がして、彼に向き直った。
必死で呼びかける彼女の言葉に全く反応を示さないその瞳を見つめ、涙が止まらないまま、彼の額に自分の額を寄せる。
その確かな熱を感じ、彼女は覚悟を決めた。
――自分が、彼を守り抜くと。
そして、額にアガナタの血をつけたまま、レシュトロを睨みつけた。
「あなたこそ何をしているんですか!? 一体これは何なんですか!! こんな酷いことを……」
「そんなことより、貴女、どうやってここに来たの?
ここは、貴女のような人間が来る場所じゃないのよ。さぁ、見なかったことにしてあげるから、おとなしく帰りなさい。その男は、ちゃんと医者に見せてあげ……」
「嘘! 医者に見せる気なんて無いじゃない!
それに、『そんなことより』? これを『そんなこと』と言うのであれば、ちゃんと説明してください! これは、『そんなこと』なんかじゃない! アガナタさんになんてことを……!」
感情の高ぶりから、更に涙を溢れさせる彼女から放たれた予想外の反撃に、レシュトロは意外そうな顔をする。しかし、すぐに気を取り直すと、相手がその気ならこちらも遠慮はしないと、瞳を歪めて口を開いた。
「あらあら、随分元気がいいのね。……偽者のくせに」
さっとユオーミの顔から血の気が引き、彼女は咄嗟にレシュトロから視線を外して床を見つめた。
「偽りの巫女だなんて、前代未聞。とんでもないことをしでかしてくれたわね。神様も相当お怒りでしょう。
ちなみに、その男は偽者である貴女を庇った咎でそうなっているのよ。お前が、その男を、そうしたの!」
俯いたまま押し黙るユオーミ。彼女は、体の奥が急速に冷えてくるような感覚を覚え、体が震えだした。自分が、大切な人を壊してしまった。その罪悪感に、絶望感に震えが止まらない。
「あ、ぁ……」
「分かったかしら? 貴女がいるからその男は傷つくの。さぁ、さっさと出ていきなさい」
その時、彼女の震えが伝わったせいか、腕の中でアガナタが身じろぎした。
それに驚き、我に返るユオーミ。
そして、そんな彼の顔を見つめた後、そっとアガナタの血だらけの顔に自分の左頬を寄せた。
そこに、まだある命を確かめる。そうだ、まだ、何も終わっていない。
『君の苦しみを、俺にも背負わせて欲しいんだ。君はもう、一人ではないということを忘れないでほしい』
「アガナタさん、貴方の苦しみと勇気を、私に分けて。お願い……」
そう言い、泣きながらアガナタに頬ずりをした彼女は、赤い目で再びレシュトロを睨みつける。
その頬は、アガナタの血に赫く染まっていた。
「……偽者だからなんだっていうの? だったら私を殺せばいいでしょ! やってみなさいよ! 私に手を出せないから、立場の弱いアガナタさんを痛めつけて! この、卑怯者!!」
「なっ……」
レシュトロは顔を強張らせたまま固まる。
この巫女は何なのか? どこまで知っている?
そもそも、地下牢で極秘理にアガナタを尋問していたという状況からして、本来言い訳はできない。この状態で、口先で屈服させようとして虚勢を張り、一時は上手くゆくも、その度に踏みとどまり、立ち上がったこの少女。
この、わずか十四歳の小娘に、自分が押し負けている……?
レシュトロの頭の中に、様々な考えがよぎる。
巫女を殺すか?
駄目。儀式の列席者に巫女の入れ替えが露見する!
アガナタを殺す?
駄目だ。ユラーカバネの有罪を証明できなくなる!
猛烈な焦燥感が胸を焼き、レシュトロはその苦しみに歯を食いしばって耐える。
私は、負けるわけにいかない!
ユスノウェル様の妨げとなる全てを根絶やしにするために。その時まで、負けるわけにはいかない!
もし、あの人が望み、少しでも微笑んでくれるのならば。苦しみが僅かにでも晴れるのであれば、私は喜んで世界を火の海にでも変えてみせよう。
――あの人以外のものなど、自分を含めて初めから価値など無いのだから
歯を剥き出しにして、ユオーミを睨むレシュトロ。不意に、その顔が、醜い笑いに歪んだ。
そして、懐からナイフを取り出し、鞘から抜き放つ。
「死なない程度に、お前を壊す。そして、お前を人質としてアガナタから情報を取り出す」
血走り、ギラついた瞳が血まみれの二人を捕らえ、その刃先がユオーミに向けられた。
「!!」
ユオーミは、迫る白刃に驚き、アガナタの頭を強く抱いたまま目を瞑った。
数瞬の後、右肩に衝撃を受けた彼女は、反射的に目を開ける。
レシュトロに握られたナイフの刃が、肉を割いてユオーミの肩に突き立っていた。
自分の身に起こったことが理解できず、言葉を発することもできずに、自分の肩に刺さった異物を凝視する。
やがて、服が赤く染まり始めるとともに、傷口が急激に熱を孕み、遅れて鋭い痛みが彼女を襲った。
「あ、あああぁぁぁ!」
初めて知る痛みに恐慌状態となったユオーミが、肩に凶器が刺さったまま倒れ込み、叫び声を上げる。
「絶望を見せてやる! この小娘がァ!!」
更なる危害を加えるため、レシュトロはユオーミの肩に刺さったナイフに手を伸ばす。
だが、その瞬間、アガナタの血まみれの顔が、レシュトロの腕に襲いかかった。
それは一瞬の出来事で、傷こそ浅かったが、レシュトロは服の袖とともに腕に噛みつかれ、驚いて横向きに倒れ込んだ。
「こ、この死に損ないがァ!」
傷ついた腕を抱えて、這いながら距離を取るレシュトロ。そして、よろけながら立ち上がり、二人を睨みつける。
腕の痛みに顔をしかめながら、完全に頭に血が上ったレシュトロが叫んだ。
「もうどうでも良い! こうなったら巫女は薬漬けにして、アガナタは殺す。ユラーカバネも殺す。異を唱える王族も殺してやる!」
狂気に染まった顔に獣じみた微笑みを浮かべながら、彼女は懐に手を入れる。
だがその時、レシュトロは自分の背後で誰かが立ち止まる気配を感じた。
「――そこまでだ。レシュトロ」
唐突に地下牢に響いた、凛とした男の声。
レシュトロは、振り向いてその男の顔を見ると、顔を青ざめさせて凍りついた。
「せ、先生……!」
驚きに目を見開いたレシュトロの前に、険しい顔をしたアーオステニアが立っていた。
彼の後ろには、ニアティと、凛々しくも勇猛な面構えをした大男が立っていた。
「レシュトロ様……申し訳ありません」
力なく項垂れたニアティが苦しそうに告げる。
顔を強張らせたまま黙ってニアティに視線を送るレシュトロを一瞥し、その奥にいるアガナタたちに視線をやったアーオステニアの顔が、大きく歪んだ。
「ア、アガナタ……」
あまりの惨状に言葉を失い、手を震わせてアガナタとユオーミに駆け寄るアーオステニア。
アガナタは、一瞬アーオステニアを見た後、目をそらして床を見つめる。
「だ、大丈夫か!?」
震える声で息子のもとに屈み込む。しかし、アガナタは顔を上げないまま黙り込み、それから、小さく「問題ない。それよりも巫女様を」と呟いた。
「……巫女様!?」
アーオステニアは、アガナタの横で、ナイフを肩に突き立てたままの血に塗れた少女を凝視する。
さすがの彼と言えども、こんな場所で血に汚れた少女が巫女だとは気付かず、また、巫女にナイフで危害を加えるというレシュトロの常軌を逸した行動に、血の気が引く思いとともに、頭の奥に痺れを感じた。
肩を押さえたまま体を起こし、額と頬を血に染めたユオーミがアーオステニアに懇願した。
「私はいいから、アガナタさんを助けてください! お願いします!」
彼は我に返ると頷き、振り返ってニアティと大男に指示を出す。
「君たちは、この二人を頼む」
それから苦しそうな瞳でアガナタの顔を見つめた後、ゆっくりと立ち上がり、レシュトロの正面に立った。
「説明してもらおうか。なぜ巫女様が、そして奉献の徒の管理神官がこのような地下牢で血塗れになっているのか」
今まで見たこともない、彼の怒気をはらんだ瞳に、レシュトロは思わず息を呑み、激しく視線をさまよわせた後、力なく言葉を絞り出す。
「これは、アガナタが、ユスノウェル様に楯突こうと画策したためで……」
「どういうことだ? アガナタがそんなことをするわけがないだろう! 何か明確な証拠でもあるのか!?」
がくりと肩を落とすレシュトロ。
「……ありません」
しかし、歯を食いしばって再び顔を上げ、アーオステニアに対峙する。
「せ、先生は十五年前、アガナタを救うために禊の警備の名簿を書き換えましたね? これは、ユスノウェル様に対する裏切り行為です!」
「……。書き換えは否定しない。
お前はそれで私を告発でもするつもりなのか? だがそれは、お前の主、ユスノウェルの傷口をも抉ることになるだろう。
まぁ、それも良い。お前の覚悟が本物だというのなら、それが正しいと思うのならやってみろ。
そんなものが脅しになると思っている時点で、お前は何も分かっていないということだがな」
そう、押し殺した声で吐き捨てた彼の手は、怒りに震えていた。
レシュトロは、アーオステニアから視線を外し、床を見つめて押し黙る。
「一体お前は何をしているんだ!? 愚かな! 管理神官、そしてさらに巫女様まで亡き者にしようなどと、最早看過できん。この件はユスノウェルに報告させてもらう。言い訳はそこで聞こうか」
うつろな瞳で俯いていたレシュトロは弾かれたように顔を上げ、アーオステニアに縋り付くように手を伸ばす。
「そ、それだけはご勘弁を! 何でもいたします。ですから、それだけは……」
「驕るなよレシュトロ! お前に取引の余地など無い。オッドー、悪いが彼女を自室に連れて行ってくれ。抵抗したら制圧して構わない」
「……承知しました」
ニアティの持つ鍵により鎖の拘束から解放されて横たわるアガナタを介抱するその大男。半面をつけていないオッドーは、アガナタの手当をニアティに引き継ぐと、強烈な殺気を放ちながらレシュトロの横に立った。
「部屋で謹慎していろ。少しでもおかしなことをすればどうなるか分かるな? 今、私は非常に機嫌が悪い」
叱られた子供のような瞳で彼を見つめていたレシュトロの顔が絶望に染まり、体が震えだす。
しばらく呆然と立ち尽くしていた彼女は、やがてがっくりと肩を落とし、よろけるように歩きだした。
その後ろにオッドーが付き従う。
「行け! 沙汰があるまで部屋から出ることは許さん」
ユスノウェルに失望されることに怯え、青い顔で震える自分の肩を抱いて進むレシュトロ。普段の彼女から想像もつかないその弱々しく惨めな背中に、一瞬アーオステニアは子供の頃の彼女の姿を重ね見る。
彼の瞳が悲哀に揺れたが、その幻影は一瞬で消えた。
ただ彼は、唇を噛んで拳を強く握り、暗闇の中へと消えてゆくレシュトロの背中を黙って見つめていた。




