第79話 破壊
「きっと、惨めな死に様だったでしょうに。まぁ、当然の報いね」
レシュトロがアガナタを見下ろし、ラニーアの死を嘲笑ったその瞬間、彼女の目の前に影が迫り、何かが鼻先を掠めた。
驚く彼女の視界を、アガナタの剥き出しになった歯と、血走った眼が覆い尽くす。
彼女の鼻を噛み切ろうと激しく打ち鳴らされる歯の音。彼の肩は関節の限界を超えて捻れ、顔を醜く歪めながら、なおも彼女を破壊するために喰らいつこうとする。
至近距離での強烈な殺意に当てられ、レシュトロは咄嗟に仰け反り、そのまま後ろに倒れ込んで鉄格子に頭を打ち、短い悲鳴を上げた。
「ば、化け物! この、獣め!!」
頭をさすりながら、忌々しそうにアガナタを睨みつけ、毒づくレシュトロ。
「ア゛ア゛アアアァァァァァァアアァァ!!」
歯の届かない所まで下がった相手に苛立ち、獣のように雄叫びを上げ、暴れるアガナタ。
そして、肩の痛みに顔を歪めながら、レシュトロをその双眸で凝視し、怒鳴りつける。
「貴様が! 貴様らが! ラニーアを侮辱するな!!」
血の気の引いた顔で狂態を見つめていたレシュトロは、青白い顔のままゆっくりと立ち上がり、息を整える。ただし、今度は不用意にアガナタに近づかず、しっかりと距離を取って彼と向かい合った。
「ふん、たかが巫女一人。どうなろうと知ったことじゃないわ!
ユスノウェル様の、平和を求める強い御意志。血の滲むような努力の結果実現した平和に浴しながら、薄ら寒い御託を並べるんじゃないわよ! ままごとの時間は終わりよ。ユオーミとかいうあの娘も、あんたのラニーアみたいに死ぬのよ!」
レシュトロはそこでようやく自分が興奮していたことに気づき、大きく息を吐き出す。自らの服の汚れを払い、心を落ち着けながら言葉を継ぐ。
「……まぁ、巫女なんて誰だって良いの。たまたまラニーアだった。
焚き火と同じよ。平和を維持するには、火を焚べて暖を取らなければいけない。世界を温めなければいけない。それには薪が必要なの。彼女はたまたまその薪だった。どう、最低でしょ? それがラニーアが死んだ理由、そしてユオーミが死ぬ理由の全てよ!」
「貴様アアアァァァァァ!!」
地下牢に高笑いを響かせるレシュトロを激しく睨み、叫ぶアガナタ。
「何が平和だ! 何が大導主だ! ふざけた御託を並べているのはお前らの方だろうが!!
何が血の滲むような努力だ!! 十五年前、あいつは何をした? 儀式の名の元に、年端もいかない少女に手を出した欲望の権化! ユスノウェルは、権力を笠に着た、人の形をした獣だ!!」
怒りに任せて感情をぶちまけたアガナタは、次の瞬間目の奥で火花が散り、鈍い音とともに頭に衝撃を受けた。
何が起きたのか分からず戸惑うアガナタの眼の前に、鬼の形相で彼を睨みつけるレシュトロがいた。これが同一人物なのかと思わせるほどの怒気に顔を歪ませ、震えた手には、前回清めの砂を焚くのに使った香炉が握られていた。
「ユスノウェル様を侮辱するなァァァァァ!!」
錯乱したように叫びながら、レシュトロは手に持った香炉でアガナタの頭を何度も、何度も、何度も、何度も殴りつけた。
その手が振るわれる度に香炉は形を歪め、飛沫が飛ぶ。
肩で息をしながら、ようやく彼女が動きを止めた時、アガナタの顔は血で真っ赤に染まり、膝立ちのまま鎖にぶら下がるように力なく項垂れていた。
レシュトロはふと我に返り、醜くひしゃげた血まみれの香炉を取り落とす。
そして、呆然とアガナタを見つめた後、目を瞑り、荒い呼吸を整えるように、一つ、深く息を吐いた。
それから彼女は、意識が朦朧として言葉が出ないアガナタの耳元に顔を寄せて囁く。
「それで結局貴方は何を成したの? そんなにも大事なラニーアも、その娘のユオーミも守れない。大層なことを口にしながら、一体貴方は何か一つでも成し遂げられたのかしら? 結局、貴方がしたことはラニーアを死に追いやり、その娘を、死の運命が待つこの神殿まで送り届けただけでしょう?」
レシュトロは、そっとアガナタの両頬に手を這わす。手が血に染まるのを気にもかけず、まるで慈しむように、優しい手付きで彼の頬を撫でた。
「結局貴方は、足掻くだけ足掻いて、その定められた役割から一歩も外に出ることができなかった。
でも、卑下することはないわ。だって、仕方ないことなんだもの。教団という大きな仕組みの中で、道具として動く。そういう風に世界はできている。みんなそうなのよ」
そして、不意にアガナタのこめかみ付近に両手の爪を立てると、低い声で冷酷に告げる。
「でも、決めたわ。貴方も、あの巫女も、死んだ後は豚の餌にする。ユスノウェル様を侮辱したんだもの、当然の報いでしょう?」
薄っすらと目を開け、何とか口を開くも、頭部の衝撃から回復しきれず言葉が出ないアガナタ。彼女のおぞましい言葉に激しい嫌悪感を覚えて身震いし、ただ、浅い呼吸音だけを繰り返す。
彼の瞳に、悲しそうな目で愉悦に満ちた表情を浮かべるレシュトロが映った。
「でも、一つだけ選ばせてあげる。
貴方がユラーカバネの企みを全て話すというのなら、ユオーミだけはちゃんと埋葬してあげるわ。歴代の巫女たちと一緒に、その尊い犠牲は人々に永久に讃えられるのよ。
さぁ、選んで。豚の餌と、どっちが良いの?」
「ア゛ア゛アァァァァァァァァァァァ!!」
アガナタは、血で赤く染まった顔で、掠れた声で泣きながら吠えた。
自分の招いた、あまりにも無残な結末に、最早自分を、世界を恨む気力すら失い、ただ、声の限りにむせび泣いた。
「煩いわねぇ」
そう言って、レシュトロは床に落ちていた血だらけの手巾を掴み、無造作にアガナタの口に押し込む。
「私も、貴方にばかり構っていられる程暇ではないの。早く返事を聞かせて頂戴? そうでないと……、ね?」
まるで聞き分けのない子供をあやすように語りかけ、それからアガナタの髪を掴んで顔を上げさせると、その瞳を覗き込む。
アガナタの焦点の合わない濁った瞳に勝利を確信し、微笑みを浮かべた彼女は、余韻を味わうように、音のない地下室で、彼の砕かれた心を映したその顔を見つめていた。
その時、ふと彼女の背後から、ひゅ、という音が聞こえた。
その音は決して大きくはなかったが、この地下室では妙に大きく響いた。
ゆっくりとレシュトロが振り返ると、そこに、青い顔をして片手で口を覆ったユオーミが立っていた。
「……え?」
ユオーミは、正体不明の男に地下牢の入口まで案内され、「私はここまでです」という言葉とともに、灯りのついた手燭を手渡された。
一人でこの暗闇を進むのは正直恐ろしく、まるで村長の家にいた頃のような所在なさを感じたが、それでも、この先でアガナタが助けを求めていると自分を奮い立たせ、階段を下りる。そして、淀んだ空気が支配するその暗い道を進んだ。
突如として、獣のような声が奥から響き渡り、彼女は思わず足を止める。手燭の頼りない光があたりをぼんやりと照らすだけの暗闇の中、言いようのない不安と焦燥が胸に迫り上がる。
恐怖のあまり目を閉じるが、そこにあるのは本当の暗闇。そこには、僅かな光すらなく、自分の姿さえ見えない。たまらず目を開き、震える膝をさすりながら、光の届かない闇の先を見つめた。
身動きできず、呆然と立ち尽くすユオーミ。そんな闇の中に、ふと、アガナタとの会話が蘇る。
『ただ、最後まで傍にいてください。それだけは約束して欲しいです』
『約束する。ユオーミ、俺は必ず側にいて君を守り抜く』
彼女の瞳に、涙が滲む。
生贄として、この命はとうに差し出しているというのに、こんなささやかな願いさえままならない。自分の命には、その程度の価値もないのかと、彼女には、それが酷く悔しく感じられた。
激しく脈を打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸し、そっと耳を澄ませていると、奥から、誰かが話しているような声が僅かに聞こえる。
――やっぱり、この奥に人がいる。アガナタさんがいるんだ!
震える足を、一歩前に出す。
ふいに、アガナタと共に王都へ向かって走り抜けた、あの光景が浮かんだ。
彼女の瞳に、遠く城壁が映り、背中からアガナタの叫び声が聞こえた。
今思い出しても胸が潰れそうになる悲痛な彼の声。
彼は、全身血だらけになり、視力を失いそうになりながら、「君を守り抜く」と叫んだ。
そして、何の見返りもなく、限られた味方と共に、群がる敵中に飛び込んだ。
――ただ、私のためだけに
胸が熱くなり、それが彼女の歩みを確かなものに変えてゆく。
一歩。そして、もう一歩。
奥に進むにつれて、話し声は段々と大きくなるが、まだ何を言っているのかは聞き取れなかった。
更に進み、突き当りの角からそっと向こうを覗いた時、ようやくその内容が耳で輪郭を結んだ。
「貴方がユラーカバネの企みを全て話すというのなら、ユオーミだけはちゃんと埋葬してあげるわ。歴代の巫女たちと一緒に、その尊い犠牲は人々に永久に讃えられるのよ。
さぁ、選んで。豚の餌と、どっちが良いの?」
不意な内容に混乱する頭。そして、響き渡る絶叫。
「ア゛ア゛アァァァァァァァァァァァ!!」
恐ろしさのあまり、金縛りのようにユオーミは動けなくなる。
暗闇を引き裂くように響く慟哭。その衝撃と恐怖に、焦点が合わないまま視線が虚空を彷徨う。
この声が誰のものなのか、一体何が行われているのか、本当は気づいていても、彼女の頭はそれを理解することを拒否していた。
「煩いわねぇ」
そして、唐突に泣き声が止む。
そこで彼女は我に返った。
――そうだ。私はアガナタさんを助けに来たんだ。ただ立っていても仕方ないんだ。
そうして、震える心から、ようやく絞り出した僅かな勇気。それが、彼女の足を前に進めた。
部屋の隅の牢の中、かがみ込み、男の髪を掴んでその顔を覗き込む女の背中が見え、恐怖に再び立ち止まる。それでも彼女は意を決して再び歩みを進める。
そして彼女は、その女の頭越しに、髪を掴まれ、どろりとした赤黒い液に覆われたアガナタの顔を見た。
目の前の受け入れがたい光景に、反射的に肺が縮こまり、吐き出された息の音が漏れる。すると、その音に反応して女がゆっくりと振り向いた。
「……え?」
レシュトロは、突然の出来事に驚き、身動きが取れない。
アガナタを壊すことに夢中で、全く巫女の存在に気づくことができなかったことに焦りつつも、 頭を目まぐるしく働かせる。だが、なぜここに巫女がいるのかという答えが導き出せなかった。
一方のユオーミは、アガナタのあまりの惨状に思わず涙が溢れ出す。
片手で口を覆いながら、もう片方の手で持つ手燭が震えていた。
「な、な、何を。何をしているんですか!!」
先に口を開いたのはユオーミだった。
頭が真っ白になって手燭を放り出すと、レシュトロを押し退けてアガナタの元に駆け出す。投げ出された手燭の炎が揺らめき、三人の影が地下牢の壁に踊る。石の床を転がったその灯が、消え入りそうに揺れながらアガナタの顔を下から弱々しく照らした。
彼の顔に両手を添え、泣きながら必死で呼びかける。
「アガナタさん! アガナタさん!! 大丈夫ですか!? 私です。ユオーミです!!」
だが、アガナタの瞳は何も映っていないかのように焦点が合わず、口に布を詰め込まれ、ただ、涙を流しながらされるがままになっていた。
アガナタのその様子に衝撃を受けたユオーミは、彼の口から布を取り出し、着物が血に染まるのも厭わず、彼の頭を抱きしめる。そして、泣きながら、うわ言のように彼の名前を呼び続けた。
暗く黴臭い地下空間にアガナタの名前が反響し、そして消えていった。




