第76話 臨界
虚ろな瞳でベッドに横たわったまま空を見やり、こちらの言葉に反応を示さないユオーミを見下ろしながら、ニアティは無性に叫び出したい衝動を抱え、乱れそうになる心を必死で抑え込む。
彼女は大きく息を吸い込み、それから、口元に薄く微笑みを浮かべて巫女に話しかけた。
「……巫女様、告解の儀というわけではありませんが、今日は、私の懺悔を聞いては頂けませんでしょうか?」
彼女の唐突な言葉。けれど、ユオーミは反応を示さなかった。
それに構わず、彼女は話し始める。
「巫女様、私は卑怯者です」
胸の前で右の拳を左手で包み、ユオーミをまっすぐ見つめたまま話すニアティ。
ゆっくりと、ユオーミの視線が彼女を捉え、視線が交わった。
「私はとある人物を助けたいと思っているのですが、立場上、それを成すことができません。恩人を裏切ることができないからです。だから、代わりに誰かにやらせようとしている、そんな浅ましい人間なのです」
ニアティの手は、僅かに震えていた。
一度言葉を切った彼女は、瞼を閉じて呼吸を整えると、再び目を開く。その瞳は、ユオーミではなく正面の壁に向けられていた。
「教団の理屈からすれば、彼は助からないでしょう。
ですが、私は彼を、彼が見せる未来を見てみたい。そんな欲望を持ってしまった。
自分が望んでいながら、手を伸ばせなかった。それを、勝手に彼に託しているのです。そして今、再び彼を救うという役目を、他人に委ねようとしている。本当に、嫌になるほど卑怯者です」
ユオーミの瞳が、じっとニアティの顔を見つめる。
何かに耐えるように、ニアティは暫くの間、直立したままじっと壁を見つめていた。
「……以上です。巫女様、この迷える子羊の妄言を聞いていただきありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる直前、ユオーミが捉えた彼女の瞳は潤み、悲哀に満ちたものだった。
そしてニアティは、頭を下げたまま、震える声で呟いた。
「元の管理神官は今、この神殿の隠された地下牢に囚われています。一人、暗闇の中で守るべきもののために耐え続けている。
私は、これからそこに向かいます。秘密の場所なので、一人でそこに向かいますが、私は今日、少しぼんやりしているので、後ろから誰かがこっそり付いてきていても気が付かないでしょう」
驚きに見開かれるユオーミの瞳をよそに、ニアティは頭を上げてその身を翻すと、しっかりとした足取りで扉に向けて歩き出す。
その口元はきつく結ばれ、顔は引きつっていたが、その揺れる瞳には、確かな何かが宿っているように見えた。
黴臭く、陰気な空気をかき分けて、ベイツは細い通路を進む。ただでさえ狭いその地下通路は、低い天井と相まって強い圧迫感を与え、彼は無意識に眉間に皺を寄せた。
通路を直進し、角を左に折れると、不意に空間が開けた。左右に三つずつ並ぶ牢の中を灯りで確かめながら進むと、その一番右奥の牢に、アガナタは囚われていた。
鎖に両手足を拘束され、膝立ちのまま項垂れるさまは、無抵抗に蹂躙される者の有様を易々と想起させ、見る者の胸に強烈な不安と忌避感を抱かせる。
彼は懐から取り出した鍵でアガナタの牢を開けると、その中に入る。
目を瞑ったまま、光の眩しさに顔をしかめるアガナタを見下ろしながら、ベイツは優しそうな顔で話しかけた。
「可哀想に。今すぐ助けてあげよう。
……その前に、まだ、口は割っていないよな? ユラーカバネの計画」
しかし、アガナタは反応しない。
その様子を見て面倒くさそうに鼻を鳴らしたベイツは、無言でアガナタの腹を蹴り上げた。
くぐもった呻き声を漏らし、アガナタが体を震わせて痛みに耐える。耳障りな鎖の音が想像以上に大きく響いたことにベイツは驚き、元来た通路の方を振り向くとそっと耳を澄ます。
そして、何の音も聞こえないことを確認すると、彼は再びアガナタに向き直った。
「おい、答えろよ」
そう言って何度かアガナタを蹴った後、それでも何も言わず、無言で耐えているアガナタを見ながら大きく息を吐く。
そして、抵抗できない相手に一方的に暴行を加えるこの状況に、強烈な罪悪感と妙な興奮を覚えるとともに、まるで自分自身を蹴っているような錯覚に囚われ、困惑したように呟いた。
「なるほど……。これは、拷問に傾倒する奴がいるのも理解できるな」
彼は顔を歪め、アガナタの前にかがみ込むと顎を掴んで顔を持ち上げる。
憔悴した顔の中に浮かぶ瞳は焦点が定まらず、堅く結んだ唇の縁には、血がこびりついていた。
これが、巫女を連れて山脈を踏破し、朧の包囲網を突破してみせた者の成れの果てなのだろうか。
惨めで、無力で、尊厳を奪われたその姿に嫌悪感を覚えた。
得も言われぬ感覚にベイツは空いた方の手で自分の首の後ろを掻き、生唾を飲み込む。
「……今、楽にしてやるよ」
その言葉に対しても、アガナタは全く反応を示さない。
期待したような反応は得られず、彼は軽く失意を覚えつつ、一方で、それではまるで自分がアガナタの醜態を望んでいたようだと気づいて思わず頭を振った。
「俺は、あいつらとは違う!」
思わず溢れたその言葉に、答えを返すものは誰もいない。
自分でもよく分からない苛立ちを覚えながら、この薄暗い地下牢は、まるで朧そのものだと、ベイツはふと思った。
地上の神殿が教団で、地下牢が朧。
神だの、鬼神だの、欺瞞だらけの平和の主。邪魔者を徹底的に潰すことで実現する平和。
「反吐が出るぜ」
無意識に呟いた自分の声が部屋の中に響いたことで我に返り、彼は表情を消す。
そう、この仕事に感傷は無用だ。
「アガナタ、お前に恨みはないが死んでもらう。今ユラーカバネの計画が漏れると全てが水の泡となるからな。恨んでくれて構わない。まぁ、なんら痛痒を感じることもないが……。」
そう言い、ベイツは鼻から息を吐き出すと、懐から鞘に収まった小ぶりのナイフを取り出した。
このナイフ自体は小さく、殺傷能力は低いが、刃に毒が塗られている。さすがに暗殺と判断されると犯人探しが始まり、面倒なこととなるため、目立たない部分をこのナイフでそっと傷つけ、変死に見せかけて殺害する計画だった。
ふと、アガナタが顔を上げた。無言で、ベイツに眼差しを向ける。
ベイツは、その瞳に消えかけの執念の残り火を見た。アガナタは傷ついた獣のような表情で、何かに耐えるように歯を食いしばってこちらを見つめている。
無抵抗の、罪のない人間を手に掛ける。今まで散々やってきたことではあったが、ベイツの中に躊躇いの気持ちが浮かぶ。
「俺の親父もお袋も、こうやって朧に殺されたんだろうなぁ。酷い話だよなぁ……」
呟きから、長い沈黙が流れた。そして、険しい顔で目を瞑り、深い溜息をつくベイツ。
それから、「必要なことさ」と独りごちると、彼は再び表情を消して目を開き、ナイフの鞘に手を掛けた。
だが、ナイフを引き抜くよりも先に、遠くで鳴った僅かな鈴の音が、彼の耳に届いた。
四番倉庫の扉を押し開いたレシュトロは、扉にぶつかって転がる鈴の音を耳にし、その動きを止めた。
彼女は、無言で倉庫内の暗闇を凝視する。
倉庫の中には、教団が年間を通して行う様々な儀式の道具が収納されており、その中に鈴は確かに存在する。この四番倉庫についても、特段出入りを禁止しては居ないことから、誰かが鈴を落とした、と考えることができるだろう。だが……
――閉じた扉の裏側に、鈴を落とす?
倉庫から出る時に、自然にそのような状況になることは考えにくい。つまりそれは、倉庫の中に誰かがいる可能性を示唆していた。
しかし、地下へと至る扉を守護する警備に対し、今日は誰も通すなと言ってある。
この先にある地下牢の存在を知っているのは、レシュトロ自身以外にはニアティとベイツしかいない。だが、ニアティが今ここに来る理由はないし、ベイツに至ってはまだ聖都に到着してすらいない。
手燭をかざして奥を見渡すが、そこに人の気配は感じられなかった。
無言で倉庫の奥まで至り、地下牢への扉を開けようとして、彼女は再び動きを止めた。
扉が、開いているのだ。
人一人分程度の隙間を残して開いたその扉を、彼女は無言で見つめる。
前回、地下牢から出る際に扉を閉め忘れたのだろうか、と訝しく思い、確かに、あの時自分はアガナタを攻略するのに夢中で、扉を閉めたかどうか記憶は定かではないと思い直す。
「ちょっと、夢中になりすぎたようね。まぁでも、これでアガナタから情報を聞き出せば、こんなに心乱されることももう無いでしょう」
アガナタを尋問し、主を脅かす脅威の排除する事を優先した彼女は、そう自分に言い聞かせ、小さな違和感を無視した。
それはひとえに、焦りから来るものだった。
先程の部下からの呼び出しで、ユスノウェルが倒れたと聞かされてから、彼女は動悸が収まらない。
幸いにして、ユスノウェルは直ぐに立ち上がり、レシュトロが彼の部屋に駆けつけた際は、長椅子に座っていつもどおりに報告書に目を通しているところだった。
「少し疲れていただけだ。心配ない」と嘯く彼だったが、レシュトロの目は誤魔化せない。普段より呼吸の早い彼を気にして、あれこれ世話を焼こうとしたところ、逆に追い払われてしまった。
押し寄せる不安に蓋をして、今できることに集中するべきと考えたレシュトロは、今、まさにアガナタの元に戻ってきた。
彼の牢へと辿り着いたレシュトロは、その地下牢の鍵穴に鍵を差し込む。だが、鍵を回すより先に、扉は手応えなく開き、再び胸がざわついた。
周囲を灯りで照らすも、当然のようにここにはアガナタしかいない。
そして彼女は、胸の騒めきから来る不安を塗りつぶすように、僅かに顔を上げたアガナタに対して加虐的な微笑みを浮かべた。
「さぁ、再開しましょう。過去の巫女と、今の巫女を繋ぐお話を」




