第65話 生ける屍
アガナタは、青ざめた顔のまま馬を走らせていた。
前を赤い紋章板の男、後ろを護衛の男に挟まれながら、土埃を上げて街道をひたすらに聖都を目指す。
彼は、ぼんやりと考える。
(解任のタイミングから考えるに、先日の廃屋での密会が朧に露見したのは間違いないだろう。教団の秘密主義ぶりを考えれば、中途半端に管理神官として巫女に関わった人間を、ましてや規則に背いた者を生かしておく理由は無い……)
それが遅いか早いかだけであり、この後の、アガナタの運命は確定してしまった。
だが、彼にとって、自身の生き死にはどうでもよかった。彼にとって問題なのは、ユオーミを救うことが出来ないという事だけだ。
突然の解任により、彼が自身の手でユオーミを助ける道は絶たれてしまった。その事実が、ただただ彼の胸を絶望に染めていった。
何かしらの手段で護衛を振り切り、ユオーミの元に駆け付けようとも考えたが、武器を奪われ、「怪しい動きをすればその場で切り捨てる」と警告されている以上、それも難しいだろう。
何より、管理神官の肩書を失ったアガナタが彼女の許に駆け付けたところで、むしろ状況を悪化させるだけだ。
本当は、禊の儀式においてアガナタが実行するはずだった計画。それを、廃墟での密会というリスクを冒すにあたり、最悪に備えてオッドーに託しておいたのは正解だった。まだ、彼女を救うという希望は潰えていない。それだけが、唯一の救いだった。
だが、彼にできることは、もう何もない。
(俺はまた、守り切れなかった……)
十五年前、ラニーアと死別したあの日、アガナタの心は絶望に覆われ、彼の時間は凍りついた。
受け入れ難い現実を前にした時、それでも人は、やがてそれを「仕方がなかった」と受け入れてゆく。そうでなければ前に進めない、そうしなければ心が持たないからだ。
だが、少年アガナタはそれを良しとしなかった。幼さゆえの潔癖さで、彼は、その残酷な結末を「仕方がなかった」と認める事がどうしてもできなかったのだ。
ラニーアの理不尽な運命が「仕方ない」などと、彼女への冒涜以外の何物でもない。では、何故こんな事が起こるのか?
現実を拒否した彼には、全てが自分の責任であるという、自己断罪の道しか残されていなかった。
自分の力が未熟だったから。
自分の経験が浅かったから。
自分の知識が、知恵が足りなかったから。
自分が無能だったから。
――だから、彼女は死んだ
教団という絶対的なシステムを前にしながらも、彼は自分に何かできる道はあった筈だと、自分を責め続けた。彼女の死は「仕方ない」ものでは無かったのだと。
けれど、どんなに自分を責めた所で、ラニーアはもういない。
だから彼は、この理不尽を受け容れない証として、亡き彼女に、そして自分に、「こんな悲しい事が起こらない世の中を実現する」と誓いをたてた。
圧倒的な現実を前に、出口の見えない日々。流れゆく時間の中で心が揺らぐことさえも、彼にとっては許しがたい罪であり、自らの無能の、酷薄さの証明だった。
本来なら、絶望に押しつぶされた彼は自己断罪の果てとして自死していたはずだった。だが、ラニーアの最後の言葉がそれを許さない。
『……生きて、アガナタ』
罪びとの彼が、無様に生き残った彼が、理不尽な世界の犠牲者である彼女の願いを反故にするなど、出来るはずもない。
だが人は、絶望だけで生きてゆけるようにできてはいない。擦り切れてゆく心が壊れてしまわないように、彼の本能は自身の心を凍らせた。
最早、彼の人生は贖罪そのものとなっていた。
彼にとって、生きていることが罪であり、罰。生きる目的は罪を償う事そのものだった。
十五年間、生贄の巫女を終わらせるためだけに立ち続けたアガナタは、遂にそのチャンスを掴む。
ギュネスの甘言に乗り、父の権力を使って管理神官として奉献の徒に入り込んだ。
――そこで、出会ってしまった
ユオーミとの再会は、奇跡だった。神など微塵も信じていない彼だったが、この運命の悪戯は何なのかと、思わず体に震えが走った。
アガナタにとって、ラニーアの生き写しのユオーミの顔を見る事は、心の傷を激しく抉り、極度の苦痛を引き起こしたが、これは自分への罰だと受け入れ、そして、彼女を救えという、ラニーアの意思なのではないかと、そう感じた。
それは同時に、彼女を救う事で、そして生贄の巫女を終わらせることで、罪を償える奇跡的なチャンスでもあるとも思えた。
だが一方で、ユオーミを救えないということは、ラニーアの悲劇の再演であり、最早、自分はそれに耐える事はできないと、アガナタは気づいていた。
この為に生きてきた彼は、その最後の希望を実現するため、自分を使い潰すかのようにこの旅路を進む。
贖罪から始まった旅において、ユオーミは初め、ただ救済の対象だった。だが、山中で彼女の「巫女として生きる」という悲痛な叫びを聞き、彼は自分がユオーミを利用していた事に気づき、打ちのめされる。
全てを奪われた、何の罪もない少女を利用して自己救済を図ろうとしていた自分の醜悪さに戦慄した。
自分の存在そのものが、不幸を再生産する度し難いものであると、認めざるを得なかった。
それでも、彼は止まる事はできない。
だから、彼はユオーミの願いを叶える事を誓い、実践してきた。それ自体も贖罪であり、自分が「不幸の根源」では無い事を証明する行為でもあったため、彼は更に自己嫌悪に陥ったが、それでも、少しでも彼女の為になっているのならばと、やめる事はしなかった。
だが、それもここまでだ。
自分の無能さ故、朧に廃屋での密会を察知され、管理神官を解任された彼は、彼女の運命に干渉する力を奪われた。
そして、管理神官という権能を失い、ただのアガナタに戻った彼は、当惑する。
彼は、自分自身が良く分からない。心を殺した十五年間は、彼からアガナタという個人を消し去ってしまっていた。
彼は、自分が何が好きなのか分からない。何が嫌いなのか分からない。
贖罪の術を取り上げられた彼は、自分ががらんどうで何もない事に気が付く。
自死を禁じられ、肉体的に生き残ってきた彼のその心は、とっくの昔に首を吊っていたのだ。
当然の報いだと、そう思った。
役立たずな自分に、生きている意味はもうない。
だが、死ぬこともできない。
彼は、虚ろな目でぼんやりと馬を走らせる。
頭の中に幕がかかったように、思考は働かず、ただ、胸を締め上げる不快感と焦燥感に駆られながら、言われるがままに、聖都を目指した。
「とんでもない事になったな……」
爽やかな顔をした、だが男性としては少し小柄なその男は、深い溜息をつきながら村の様子を一瞥し、それから視線を遠くに彷徨わせた。
村の住人が何事かと遠巻きにこちらを窺っているが、男は我関せずだ。
「ベイツ様。ナァラ及びその母親を馬車に乗せ、出発の準備が整いました」
呼びかけられた男は、部下の方を振り返り、口角を僅かに上げて答える。
「ご苦労。では急ぎ聖都に搬送してくれ。馬と御者を変えながら、夜通し頼む。少しでも早く到着するよう調整してくれ。……それと、邪魔する者がいれば切り捨てて構わない」
「はっ。ベイツ様はどうされますか?」
「俺は別行動を取るよ。レシュトロ様に呼ばれていてね。行先は同じ聖都だが、馬車より馬の方が早いだろう。そっちは先に出発してくれ。すぐに追い抜く」
去ってゆく部下の背中を見つめながら、ベイツは再び溜息をつき、それから村長の家まで少し歩くと、扉を開けて中にいる部下に話しかけた。
「俺はそろそろ行くよ。村長が戻ってきたら拘束して聖都まで連れてきてくれ。よろしく」
部下が立ち上がって敬礼すると、彼は頷いて中に入ることなく扉を閉める。
そして、村長の家の扉に背を預けると、急に無表情となり、顎に手を当てて考え込んだ。
(事態がどう転がるか……。王都での告解の儀も終わったこのタイミング。今更巫女の交代はあり得ない。
まぁ、何にしても、ヌクメイでの巫女襲撃を防げなかったこの身。さっさと呼び出しに応じて聖都に向かわねば。
しかし、これは、ひょっとすると、ひょっとするかもな)
そして再び笑顔を浮かべるベイツ。しかし、その顔は、先ほどまでの優しいものとは異なり、目をギラつかせた怪しいものに変わっていた。
「巫女が偽者だと!?」
驚くユスノウェルに対してさらにレシュトロが頷く。
聖都の神殿。そこにあるユスノウェルの私室で、ソファに座る大導主ユスノウェルと向かいに立って報告するレシュトロ。
「はい。かの村長は縁者が亡くなった際にその娘を養子として引き取ったそうで、その養子を身代わりの巫女にしたそうです。本当の名はユオーミ。
ただ、その縁者もこの娘の本当の親ではなく、養子だそうで、ユオーミの出自については目下不明となります。
……ですが、それだけではありません。偽巫女であるユオーミですが、彼女の血が、雫石の上で緑色に変色しました」
一瞬でユスノウェルの表情が変わった。
極限まで見開かれた目。半開きのままとなった口。今まで見た事の無い主の驚き様に気圧されながらも、レシュトロがさらに続ける。
「なお、本来の巫女の父親である村長は、ナァラの避難先を探す為、行先を言わずに出かけ、まだ帰ってきていません。戻り次第拘束し、身柄をここに運ばせます」
自分の膝に肘を置き、俯き気味に片手を額に添えたまま、ユスノウェルは黙り込んだ。
話を聞いているのかいないのか、ぼんやりと視線を彷徨わせ反応を返さないユスノウェルが心配になり、レシュトロがその顔を覗き込む。
すると、ユスノウェルはふと我に返り、じっとレシュトロを見つめた後、「分かった、もう下がってよい」と告げた。
ユスノウェルの真意を測りかね、訝りながらも礼をして退出するレシュトロ。
そして、独りになった部屋で、ユスノウェルは呆然と呟いた。
「雫石の反応。十四歳の巫女。まさか、十五年前の……」
レシュトロはユスノウェルの私室から退出し、廊下を歩きながら考える。
ベイツからもたらされた、巫女は偽物という情報。そして、ニアティからもたらされた雫石の反応。これらをどう評価すべきか、彼女は悩む。
偽者だとしても、アカネイシア王と告解の儀を済ませている以上、今更偽者でした、などと言えば教団の権威は地に落ちる。そうであれば、彼女を本物として扱う他ない。問題は、この「偽物」の事実を誰が、どこまで知っているのかだ。
(とにかく、その事実を公にする訳にはいかないわ。ナァラ一家以外に、処理対象はある?
いっそ村ごと消す? ……いいえ。村人も事実は知らない筈。儀式さえ無事に終わらせれば、村人もそのうち村長一家の事など忘れるでしょう。むしろ村が急に消滅する方がいらぬ疑いを招く。
それより、グルジオ帝国にこの事実が伝わる方がまずい。とは言え、未だに尻尾を掴めていない)
「ユオーミ……」
偽者の巫女の、その名前を呟く。
(この偽者の巫女を、どう評価するべき? ああ! アカネイシア王と面会していなければ、即座に入れ替えられたのに……。
いえ、それは一度試した。そう、その時はアガナタに邪魔されたのよ! アガナタに!)
レシュトロは珍しく眉間に皺を寄せ、憎しみの目で中空を睨みつける。
「……けれど、その彼ももうお終い。後は、知っている事を荒いざらい教えてもらうだけね」
そう独り言ちると、レシュトロは再びいつもの顔に戻り、口元に微笑みを湛え、そのまま廊下の先へとその姿を消した。
「偽物!?」
ユラーカバネの部下からの報告に反応し、彼よりも早くレイシアが絶叫した。
それにつられてユラーカバネも驚き、彼女を見やる。そして、考え込む彼女を横目に、興奮気味に部下に問いかけた。
「本物の巫女はどこに? もしも一から巫女の旅がやり直しになるのなら、その奉献の徒の管理神官にこちらの手の者を仕込ませられるのでは?」
レイシアは冷たい目でユラーカバネを一瞥し、溜息を押し殺して冷徹に告げる。
「貴方が偽の巫女と会ってしまっているんだから、今更入替えできないでしょ」
ユラーカバネはばつの悪そうな顔で「そうだな」と呟くと、窓の外に視線を移した。
部下の男は、チラリとレイシアの方を見た後、ユラーカバネに向けて最初の問いに答える。
「本物の巫女は、現在母親と一緒に聖都に向けて、朧が馬車で移送中です」
ユラーカバネはレイシアの方を見やると目を細め、はっきりとした口調で言う。
「ならば、本物の巫女様を我々で保護しよう。どうだ、レイシア?」
「……事態がどう転ぶか分からないけれど、本物の巫女を手に入れられれば、偽物の巫女を糾弾するための切り札になり得るわね。できるの?」
怪しく微笑みを浮かべるレイシアに対し、ユラーカバネは頷き返すと、力強く答えた。
「勿論。すぐに手配させよう」




