2-7 囮の代償
「クロヴィス……」
傾き始めた明るい夕日を浴びて、オレンジに染まる宮殿前の広場。クロヴィスは帰っていくハイラス元老院議員とイザーク殿下の後ろ姿を無言で見送っていた。
少し強い風に、上品な刺繍が施されたクロヴィスのフロックコートがパタパタと揺れている。
「――ほんと、すぐいろんな奴引っ掛けるんだから、アーシェは」
「え?」
「なんで囮なんて認めちゃったんだろう」
残念そうにため息をついたクロヴィスは、私の手を取った。
「叔父上は俺と違って女好きだからね。ほんと、こういうの気をつけてね」
「こういうのって?何を……っ!?」
ちゅ、と手の甲にクロヴィスの唇が触れる。突然の柔らかな感触に思わずひゃっと身体を揺らした。
「こういう事すぐしてくるよってこと。防御力は高いのに、色恋の話になると疎いよね、アーシェは」
「し、仕方ないでしょう!?普段は見向きもされないんだから!」
「んー……気付いてないだけじゃない?」
「そんなことないわよ……」
振り返っても、そんなのに関わる時間と心の余裕も無かった。それに比べて今はなんて余裕のある日々だろう。ほっとした気持ちになって眉尻を下げたまま微笑むと、クロヴィスは何かを飲み込むように私の手をきゅっと握った。
が、すぐにべりっと引き剥がされた。
「はい、気持ちはわかりますけどね。クロヴィス殿下、そろそろお時間です」
立派な宮廷魔法使いのローブを着たケビンさんが、私達の間に挟まって苦笑いをしている。その向こうでは、クロヴィスがものすごく不満そうにしていた。
「……もうちょいいいだろ」
「だめです。わかるでしょ」
「…………ちょっとそこまで送るぐらいは?」
「だめに決まってるでしょう。ここ宮殿ですよ?」
そのケビンさんの言葉にはっと息を呑む。
宮殿でクロヴィスが――皇太子が手を取り並んで歩けるのは、皇太子妃と認めた者だけだ。
私には、その権利はない。
そう、私は、ここではクロヴィスの隣を歩いたらいけないんだ。
「――ほら、忙しいんでしょ、クロヴィス。もう大丈夫だから」
すっとクロヴィスから距離を取る。クロヴィスはそんな私を見て何か言いたげな表情をした。
聞きたくない。そう思って、逃げるように顔をそらす。そして、側に静かに控えていたメリッサに話しかけた。
「メリッサ、ここから離宮まで歩くと結構色んな人に絡まれるかしら」
「はい、そう思って短距離ではありますが馬車を呼んでいます。ちょうど今あちらに馬車が見えました」
「さすが、ありがとう」
護衛なんて、と思っていたけれど。こうして気を回してくれたことに本当に感謝した。
流石に少し疲れたかも。ふぅ、と息を吐きだして、むりやり作ったにこやかな表情でクロヴィスのほうに顔を戻す。
「毎日大変だよね。私も頑張るから、クロヴィスも頑張ってね」
「……うん」
「じゃあ、またね」
背後にぴったりと停まった馬車に乗り込む。柔らかな座席に沈みこむと、どっと疲れが押し寄せてきた。色んな事があった。そりゃあ疲れるよねと自分をねぎらう。
そう、全部疲れているからだ。気分が晴れないのも――無性に寂しくて、うまく取り繕えないのも。
無理やり作った笑みはあっという間に疲れたように消えてしまった。暗い馬車の中で俯く。私は、こういうことも全部覚悟の上、この帝国までやってきたのに。これぐらい、平常心で乗り越えないと。
ふいに馬車に乗り込む音がして、はっと現実に引き戻された。あぁ、メリッサも一緒に乗ってくれるのかとそちらに目を向けたら。
乗り込んできたのはクロヴィスだった。
「えっ!?ちょ――――っ」
驚いて持ち上げた手をぐっと掴まれる。私を座席に押し付けるようにクロヴィスが覆いかぶさって。目を丸くしたのと同時に、唇が重なった。
あんまりにも強引で、性急で。甘くて力強いそれをいっぱいいっぱいになりながらも受け取る。溺れそうでうまく息ができなくて、必死でクロヴィスの服を掴んだ。暫くして息が持たなくなってきた頃にやっと口が離れて、ぷはっと空気を吸い込む。
息も絶え絶えにクロヴィスを見上げる。クロヴィスは切なさのような焦りのような何かを孕んだ表情で、座席に縫い付けた私をじっと見下ろしていた。
「…………またね」
「う、ん……」
そう返事をすると、クロヴィスはほんのり微笑んだ。それから、もはやうまく頭が回らなくてぼんやりしている私の頬をひと撫でして、さっと馬車を降りていった。
徐々に戻ってきた冷静さが、何が起こったのかを少しずつ理解し始める。
……なんてこと。こんな、宮殿の開けた広場の、しかも馬車の中で……なんてこと……なんてこと!!!
「失礼します」
無表情のメリッサがさっと馬車に乗り込んできた。まさか見られていたのかと一気に赤くなる。
メリッサはそんな私を変らない表情のまま一瞥してから、席に座り扉を閉めるとすぐに馬車を走らせた。
「ご安心ください、アーシェ様」
「ごっ……ごあんしんって!?」
「見ていたのは私と……ケビン様だけです」
「いやぁぁぁ」
あまりにも恥ずかしくて。私は天を仰いで、火が吹きそうなほど熱くなった顔を両手で覆った。
カタカタと馬車が揺れる音を、覆った手の暗闇の中で静かに聞く。
全てが済んで、耐えられなくなったら離れようって思っていたけど、今はそれができる気がしなかった。
――どんなに悩んでも、私は結局クロヴィスからは逃げられない気がする。
ずぶずぶと生暖かい沼にはまるように、もがくほど沈んでいくみたいだった。
私はいつか、このどろどろの沼の中から、手の届かないところで輝くクロヴィスの姿を遠目に眺めることになるのだろうか。
「アーシェ様?着きましたよ」
「うん……ありがとう」
顔を覆っていた手を離して馬車を降りる。眩しい夕日を浴びた離宮の周りには、素朴な雰囲気の木々や背の高い下草が金色に輝いて揺れていた。
本宮殿の庭は、きっちりと刈り込まれた垣根と大輪の薔薇が咲き誇る華やかな庭園だ。それとは対局の、優しげで伸び伸びとした雰囲気の端の庭園は、今日も穏やかに私を迎え入れてくれる。この自然味あふれる庭園の小さな離宮は、こうして本宮殿から戻ってきてみると、本当に小屋のようだった。
アストロワの小屋。戻ってきてホッとするのは、私にはこの素朴さが合うということだろう。
大きなお城に入れなくても。王子様の隣に立てなくても。
ここにいれば、あなたは時々、私の所に遊びに来てくれるのだろうか。
「気に入らないわ」
その声にハッとして振り返る。遠目に私を護衛してくれていたローラちゃんが、怒った顔で私を睨みつけていた。
「ローラちゃん?気に入らないって……」
「クロヴィスお兄様にあんな顔させるからよ!」
その言葉に、思わず息が止まる。何も言えなくなって固まってしまった私を、ローラちゃんはキッと睨みつけた。
「あなた、クロヴィスお兄様に求められてここまで来たんでしょう!?だったらもっとクロヴィスお兄様を幸せな顔にしてよ!」
「っ、ローラちゃん、」
「ずっと……ずっとローラのクロヴィスお兄様だと思ってたのに……!!!」
にじみ出た涙を乱暴に腕で拭い去ったローラちゃんは、唖然とする私を涙目で睨みつけた。
「あなたなんか……あなたなんか、大っっっっっ嫌いよ!!!!!」
嫌いよ、という声が耳元で重なるように響く。あまりの大声の威力にぐわんと頭が揺れてよろついている間に、ローラちゃんは走り去ってしまった。
静かになった素朴な庭園に、ぽつんと残される。
「――アーシェ様、中に入りましょう」
メリッサが静かに私に促した。そうだね、と返事をして、離宮の中に入る。日暮れの離宮の中は暗い。この時間はもうカーラは帰っていて、小綺麗になった部屋はがらんとしていた。
少し寂しい離宮に、メリッサがふわ、とランプを灯した。
「お疲れでしょう。すぐに部屋に食事を運びますね。お食事の間に湯浴みの準備も致します。少しお待ち下さい」
頷くと、メリッサの無表情がほんの少し緩んだ気がした。もしかして、笑ってくれたのだろうか。
リビングに、ランプの明かりがゆらゆらと揺れる。サイドテーブルには、離島でタニアさんにもらった古布。カーラが私が少しでもくつろげるようにと飾ってくれたものだ。その上には、離島で使っていた金属製のカップが飾ってある。
花瓶には、柔らかな色合いのオールドローズ。優しいその色にほっと心が癒やされて、近くのソファーに沈み込んだ。
離島の花とは違う、優しい色。自分で身につけると愛らしい色合い過ぎて似合わないけれど。それでも、トルメアの王都にいた時からこの花の色は大好きだった。
その花を見てから、胸元からちゃり、と翡翠色の結晶を取り出す。
好きになってしまった、もう一つの色。
あの後、クロヴィスはどんな顔をしていたのだろうか。
ぼんやりとそれを眺めてどれだけの時間が経っただろう。
なぜか、突然胸騒ぎがして立ち上がった。
おかしい。カーラよりもずっと時間がかかっている。メリッサは、迅速で、正確に動くタイプなのに。
さっと周囲を確認してから、最大限に警戒しつつ、キッチンへ向かう。私の食事は本宮殿から運ばれてくる。それを、メリッサやカーラが離宮のキッチンで整え、私のところへ持ってきてくれることになっている。
もし、誰かが私の命を狙うなら、私に何か脅しをかけたいのなら。それなら、きっと簡単なのは――
「メリッサ!!!」
「――っ、アーシェ、様……」
ランプが一つだけ灯った暗いキッチンの床に、メリッサが倒れ込んでいる。近くには毒見用の銀のスプーン。さっと状況を確認し、メリッサの状態を診る。
「っ、スープに、毒、が」
「わかったわ。大丈夫、無理に話さないで」
強い吐き気。異常な脈。メリッサの様子から、頭痛や視覚障害もあるようだった。恐らくこれはディギタの花の毒。この対処なら、トルメアで何度もやってきた。
急いで自分の部屋へ駆け戻り、荷物の中から排出を促す解毒薬を取り出す。そしてもう一度メリッサのいるキッチンへ階段を駆け下りながら解毒薬に光魔法を付与していく。
「メリッサ、頑張って飲み込んで!」
「――っ」
解毒薬を無理やり口に含ませながら、同時に別の光魔法を発動させた。ディキタの花の毒素に特異的に結合する微粒子を作り出し、全身に回り始めた毒素を追いかける。更に胃の表面を光魔法で保護し、なんとか飲んでくれた解毒薬で胃に残っていた毒素を吸着して、無効化させていく。
そして、遂に全身の毒素を光魔法で捕らえた。
『――瞬間解毒』
最高難易度の光魔法。メリッサの全身でさぁ、と光が輝き、毒素を無毒な成分に分解していく。
ほんの少しの間、沈黙が訪れて。少しして、メリッサはハァ、と息をして起き上がった。
「アーシェ、様……」
「良かった、効いたみたいね。もう大丈夫――」
「申し訳ございません!!!」
突如大きな声で叫んだメリッサが、床の上で思いっきり頭を下げた。驚いて慌ててメリッサに手を伸ばす。
「何言ってるの!?そんなことより、身体のダメージはまだあるんだから、早くベッドへ……」
「そういう訳には参りません」
メリッサは変わらぬ無表情にわずかに苦悶の表情を浮かべていた。何とか頭をあげさせてソファーへ座らせる。
「メリッサ、」
「私はアーシェ様の護衛。本来助けられてはいけないのです」
キッと強い視線で私を見返したメリッサは、膝の上で強く手を握りしめた。
「クロヴィス殿下より、アーシェ様をお守りするようにと直々にお言葉を頂きました。命に替えてでもお守りしなければならないのに、毒ごときで倒れ、挙句の果てに逆に助けていただくなど……」
「待って待って、落ち着いてメリッサ。あなたがスープを飲んでくれてなかったら私が飲んでいたかもしれないのよ?十分に護衛してくれているじゃない」
「ですが、やはり、これごときで……」
何故か激しく自分を断罪し始めたメリッサをなだめる。それから、少し考えてそっとメリッサの手を取った。
「――ごめんね。全部、私のせいなの」
「え……?」
「私は囮だもの」
意味がわからないのか、メリッサは私を見つめたまま固まってしまった。それに困ったように笑い返す。
「私は色んな人に狙われているわ。反皇太子派にも、祖国トルメアにも――クロヴィスを殺そうとした誰かにも。だから、これは当然の結果よ。それに、私は自ら狙われるように動いているのだもの。……巻き込んでごめんね」
そう、最初から何かが起こることは分かっていた。そしてそれは、私の周りの誰かを傷つける。
自責の念が、私の胸をぎりぎりと締め付けた。
静かなキッチンでは、冷めきった毒入りのスープが、ランプの明かりが溶けこんだように、ゆらゆらと揺れていた。