第三章 魚の店 八
波止場へ戻るとクローヴ号にはもう燈が点っていた。
メーンマストの檣楼にひとつと半甲板にひとつ。
トッティが慌てて商館予定地へ戻っていった後で、エヴァンスとボールスは泳いで船に戻った。ボールスはご丁寧にも服を皆脱ぎ、サッシュで頭の上に括って立ち泳ぎをしていた。
船首側の横静索の棚の下まで泳ぎ、ボールスが来た時に使ったままのロープを手繰って棚へ登って、そこからは横静索の裏側を登る。
舷縁を超えたところで体を捻って甲板へ跳び下りたまさにそのタイミングで、フォアマストの後ろから蝋燭の燈が現れた。
「ようやく戻ったかエヴァンス。それにボールスも。無断上陸は君たち二人だけか?」
「ええまあ、無断で上陸したのは、確かに二人ですかね」
エヴァンスはシャツを脱いで絞りながら答えた。
蝋燭を手にしているのは事務長のメルシャムだった。
掌砲長のマークスと航海士のハウンセルが左右に並んでいる。
ボールスが毛の長い犬のようにブルブルッと体を揺すって水滴を振りまいてから、呆れ顔で三人を見やった。
「大層なお出迎えですね。俺たちは船荷の横流しなんかやっちゃいませんよ?」
「そこは信じたいとこどだが、ちょっとばかり面倒な事情があってな」ハウンセルが溜息をついて答える。「マークス、エヴァンスを拘束してくれ」
「待ってください。今日の首謀者はどっちかっていうと俺ですよ?」
「無断上陸の問題じゃないんだ」ハウンセルが太いため息をつく。「勿論そっちも大きな問題ではあるがな。良いかジョン・ボールス、先々上の役職に就くつもりがあるなら、今の仕事を疎かにするんじゃねえ。たとえ甲板の掃除だろうと、お前の放り出した仕事は誰かが引き受けているんだ。そいつを肝に銘じろ」
「ハウンセル、結構な訓告だが、今はそれどころじゃないだろう?」
メルシャムが口を挟む。「王がお待ちなんだ。すぐにエヴァンスを半甲板へ連れて行かなけりゃ」
「そうだったな。すまんメルシャム。マークス、エヴァンスをしっかり縛れよ」
言い置いて階段へ向かってゆく。マークスが溜息をついて促した。
「エヴァンス、手を後ろに回せ」
言われたとおりに回すなりおざなりにロープをかけられる。マークスの吐息が後頭部に近づくタイミングで、エヴァンスは小声で訊ねた。「掌砲長、王って、つまり本当にこの港の?」
「ああ。老王のほうだ。午後から喜劇女優たちを連れてきて大船室で宴会をしていたんだが、そこでお前の話が出たらしい」
「俺の?」
「王の城砦を砲撃すると脅した水夫がいるってな。帰り際に呼べと言い出したそうだ」
「それは――何のために?」
「知らん」マークスはまた溜息をつき、ロープを引いて階段を降りながら続けた。「いいかエヴァンス、もし咎められたら俺に命じられたと言え」
「しかし掌砲長、」
「お前にファウラー砲を任せたのは俺なんだから、実際その通りだろう。どうにかしてやるから心配するな。お前の問題は無断上陸だけだ。船長が籐の杖を磨いているから、背中の皮の心配だけしているんだな」
「そっちも庇ってもらえませんかね?」
「冗談じゃない。しっかり打たれろ。ミスター・ハウンセルの言う通り、お前がさぼった分だけ他の連中にしわ寄せが行くんだからな」
中部甲板に降りると、メーンマストの向こうに十数人の水夫が屯して半甲板を見あげていた。船尾楼の入口にランタンが点っている。鯨の脳の油を使った煌々と明るい燈だ。光の中に老王がいた。前に見たときと同じ黒いガウンに藍色のズボン姿で、何故か黒い絹のナイトキャップを被っている
「ねえミスター・メルシャム、どうして王様はナイトキャップを被っているんですか?」ボールスが小声で訊ねる。
「司令官がプレゼントしたからだ。絹だから外出用の頭巾だと思われたんだろう。気に入ってしまわれたようだから今さら誰も訂正できないんだ。頼むからジロジロ見ないでくれよ」
老王の周りには四人もの女がいた。
皆日本風にゆったりとしたガウンを纏って、黒髪を高く結い上げ、顔には真白に白粉を塗って丸い眉を描いている。広く寛げた襟から覗く首が白鳥のようだ。中部甲板の水夫たちがうっとりと見あげている。
半甲板に登ると階段のすぐ上でセーリスが待ち構えていた。畏まるマークスからロープを受取り、老王の前まで乱暴に引いていく。
〈フォイン・サム、遅くなって済まない。これが貴方のお求めの水夫だ〉
セーリスがスペイン語で告げた言葉をフェルナンドが日本語に訳す。老王は頷くと、光の環の外に控えていた従者らしき貴族を見やった。
――内膳、こやつで相違なかと?
――げに相違ござらぬ。
答えた貴族はよく見ればウナジェンセ・ドナだった。今日は鎧を着けていない。
――ふむ。こやつがのう。
老王は珍しい動物を見る眼つきで濡れ鼠のエヴァンスを眺めまわし、湿り気を残した短い髪をちょっと撫でてみてから、あらかじめ決めた台詞を諳んじるようなポルトガル語で訊ねてきた。
『船乗り、お前は私の城砦を撃つといったと聞いた。本当か?』
『王よ、本当です』
『何故そのようなことを言った?』
老王が鋭く訊ねた。エヴァンスは一瞬躊躇ってから答えた。
『あなたの臣下が私の船長に刀剣を向けたからです。私は彼を止めようとしました』
告げながら視線をウナジェンセ・ドナに向けると王が眉を顰めた。
――内膳、まことか?
――憚りながら如何にも。
――エゲレスは按針の生国、迂闊をすれば駿河に告げられるやもしれぬ。弁えた上での狼藉か?
――駿河から咎めを受けたときには某の首を。
――うぬぼれるな内膳、駿河の家康は今や大御所様ぞ? 機嫌を損ねたらうぬの首ひとつで収まるものか。分別臭いそなたが何故そがん狼藉を?
――そこなかぴたんが、御城を不躾に眺めた上に、仕舞には遠眼鏡を向けました故。
ウナジェンセ・ドナが嗄れ声で答えてフォスターを睨みつけた。フォスターが慌てて頭を低める。
『王よ、私の船乗りの無礼を許してください。そして私の無礼も』
老王はフォスターの旋毛を意外そうに眺めていたが、相手がなかなか顔を上げないのを見てとると白い歯を見せて笑った。
――よかよか、かぴたん、面をあげい。この法印の日ノ嶽城に遠眼鏡ば向けるとは不届き千万やが、何と云うてもエゲレスは遠国、平戸の作法に疎いのは致し方なか。何故そがん見た? 絵図でも拵えるのか?
老王の問いをジョン・ジャパンがポルトガル語に訳す。フォスターが僅かに逡巡してから答えた。
『私たちは城砦を見るとき砲を数えます。船を見るときも砲を数えます。王の城砦はとても大きいため、私は何処かに必ず砲があると思いました』
――石火矢か。なるほどのう。
老王が顎に手をあてて頷き、ふと眉を寄せて訊ねた。
『船長、私の城砦は大きいのか?』
『とても大きい。もしあの城砦の海側に砲が備わっていたら、マカオの船団指令官のキャラックであれマニラの総督の船団であれ、この港に近寄ることさえできないでしょう』
フォスターは熱をこめて話した。ジョン・ジャパンがちらりとセーリスを見やってから通訳すると、老王が瞠目した。
――然様か。こン法印ン隠居所が、天川ン大船にも呂宋ン奉行にも攻められぬか!
王は愉快そうに声を立てて笑ってから、急に何かを思いついたように頷いたかと思うと、腰に吊るした短刀を外してエヴァンスに差し出してきた。
――水夫はけなけの働きや。こン脇差ばとれ。
『王は船乗りの忠誠心への褒美に刀剣を下さるそうだ』
フォスターが慌てて命じる。
「マークス、ロープを解いてやれ。それからエヴァンス、跪け。片膝を折って頭を低めるんだ」
手首はすぐに自由になった。エヴァンスが言われたとおりに跪くと、老王が改めて正面に立ち、短刀を差し出しながら云った。
『取れ船乗り。お前のものだ』
両手の上に置かれたのは二フィートほどの長さの反りある短刀だった。鞘は艶やかに黒く、根元と柄に光沢のある深緑色の組紐が巻きつけられている。手触りからして本物の絹のようだ。手の上にあるずしりとした重みにエヴァンスは心が慄くのを感じた。生まれて初めて自分の行為が世界からフェアに認められた気がした。
「エヴァンス、礼を言うんだよ」フォスターが後ろから囁く。
『有難うございます』
どうにかそれだけ告げてから鞘を払うと美しい刀身が現れた。峰の部分は鳩の翼のような濃い青灰色で、光を透かすほど薄く鋭そうな刃は乳白色だ。二色の間が柔らかに波打っている。立ち上がって刃を光に翳すなり、中部甲板から歓声があがった。
「やるじゃねえかエヴァンス! 王様から剣を賜るなんて!」
「サー・クリストファー万歳!」
ボールスが肩に腕をまわして刀を覗き込んでくる。騒ぎを聞きつけた非番の水夫が昇降口からゾロゾロと姿を現すに至って、フォスターが両手を打ち合わせて怒鳴った。
「持ち場へ戻れ破落戸ども! ヘルナンド、ジョン・ジャパン、陛下に最も丁寧な言葉で感謝を伝えてくれ! ミスター・コリンズはスキフの支度を頼む!」
「はい船長!」
水夫たちが一斉に答える。老王が声を立てて笑った。
――よか船ばい!




