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自由への逃走  作者: 真魚
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第三章 魚の店 八

 老王はスキフボートで城砦へと送られていった。甲板長が舳先でランタンをかざし、ボールスとフランシスコがオールを漕いでいる。

 セーリスはこの頃気に入りの取り巻き立ちを連れて船尾楼甲板(クォーター・デッキ)から見送っていた。

 手持無沙汰のエヴァンスが中部甲板へ降りるなりコルファックスが肩を叩いてきた。

「なあなあ砲手補、その(カタン)ちょっと見せてくれよ!」

「おう、よく切れそうだぞ」

 エヴァンスがまた刃を抜くなり周り中から感嘆のため息が漏れた。

「一級品だな」

「当たり前だろう。王様から貰ったんだから」

「切れ味はどうかね」

「最高でなけりゃ嘘だ」

 樽作りのウィンストンが船首楼の中から小さな樽を運んできた。逆さに伏せた樽の上に生きた鶏が置かれる。茶色っぽい小さなチャンパ鶏だ。観衆たちがやいのやいのと囃したてる。エヴァンスが左手で胴体を押さえつけて刀を振り上げたとき、半甲板からセーリスの声が響いた。


「クリストファー・エヴァンス! 今すぐその武器を樽の上に置け!」


 一拍の沈黙の後でココ、ココ、ケーッと矮鶏(ちゃぼ)が鳴いた。

 手を放すなり飛び降りて甲板でのたうち回る。コルファックスが慌てて押さえつけながら言う。「おい砲手補、従えよ、司令官の命令だぞ!」

 エヴァンスが我に返って刀を置くなり、セーリスが背後を省みて命じた。

「キャプテン・フォスター、エヴァンスに足枷を掛けろ」

「無断上陸の処罰でしたら、私は杖打ちと伝えてあります。船中の誰もが知っていると思いますが、司令官も同意なさっていた筈です」

「ああ。無断上陸の件だけならね。その砲手補の罪状は他にもあるんだ」

「どのような?」

「度重なる私への侮辱さ!」セーリスが苦々しげに答えた。「心ある水夫諸君が何人も知らせてくれたんだ。その砲手補は私のことを非常にしばしば《ジャック・セーリス》と呼んで、能無しの間抜けだと嘲笑していたらしい。船団司令官への侮辱は反逆罪だ。私がその気になったら縛り首にでもできる。聞いた話では同調して騒ぎ立てる輩もいたということだが――」

 セーリスがそこで言葉を切って水夫たちを見回した。マリネルが蒼ざめて棒立ちになっている。ジャックはと見れば、こちらは膝をガクガクさせているところを、クレメンスが肩を抱いて宥めてやっている。その様をゆっくりと見回してから、セーリスは満足そうな笑みを浮かべて告げた。

「いいか諸君。このクリストファー・エヴァンスは卑劣な男だ。ヘクター号の反乱に途中まで与しながら、哀れなキャプテン・フラーを見棄てて私の機嫌をとった。この男はスペインの奴隷船育ちで全く信用できない。彼がこの先私についてどんな誹謗をしようと、諸君は何一つ信じてはいけない。その点を肝に銘じてくれ」

「はい司令官! 肝に銘じます!」

 声高に答えたのはフェールだった。帆布のスモックではなく、白バフタの上等のシャツを着て鮮やかに青いブリーチズを履いている。腰のサッシュは鮮やかな赤だ。そして小銃を手にしていた。


 なんだあいつは。

 俺の紛い物かよ。


 気づいた瞬間、エヴァンスは強烈な嫌悪を感じた。

 セーリスがフェールに笑いかけた。

「有難うフェール。君の存在は心強い限りだよ。済まないがひとつ頼まれてくれないかな?」

「はい司令官何でしょう」

「足枷を持ってきてくれ」


 足枷はすぐに運ばれてきた。

 厚い樫の板に二つの孔が穿たれて、角に錆びた鎖がついている。

 エヴァンスは外科医の助手に後ろから肩を押さえられた。セーリスに命じられて足首に枷をかけたのはマークスだった。眉の間に深い二本の縦皺が寄っていた。メーンマストを囲む柵に鎖が繋がれた後で、フォスターが事務的な口調で訊ねた。

「司令官、処罰はいつまでですか? この暑さですから、あまり長いと命に関わりますが」

「期限はない。反省するまでさ。私に詫びて忠誠を誓えばいつでも許してやる。それまで念のためにすべての武器を取りあげて起き給え」

「すべてとは、先ほどの王からの刀剣も?」

「当然だろう。バータン、持ってこい」

 セーリスが樽の上の刀剣を顎で示した。外科医の助手の荒れた手が柄を掴んだ瞬間、エヴァンスは怒りを覚えた。


「――くたばれジャック・セーリス」


 気が付くと声が漏れていた。

 セーリスが足を止める。

「何だい砲手補君。今何か言ったかな?」

「ああ言ったとも糞野郎! くたばれジャック・セーリス!」

 怒鳴りつけた瞬間、セーリスが一瞬だけ妙な表情を浮かべた。まるでにんまりと笑うような、順調に進んだ計画に満足するような顔だ。エヴァンスはしまったと思った。


 やってしまった。


 かかってしまった。


 何を考えているのか知らねえが、こいつは俺に皆の前で反逆者のレッテルを張りたかったのだ。


 それは今ぺったりと張りついちまった。


 こうなれば――こうなればもう何を言っても同じだ! 


 思うなり晴れ晴れとした開放感が湧きあがった。

 エヴァンスは大きく息を吸いこんで怒鳴った。

「おいてめえジャック・セーリス! バンタムからこっち死んだ連中の名前を言ってみろよ! 会社の恒常的な利益のためじゃなく、あんたのつまんねえ名誉心のために死んでいった連中の名前を! 俺は言えるぞ! 覚えている! 好きでも嫌いでもねえ連中だったが、一緒に船に乗り合わせたからには仲間だからな! お前は俺たちの仲間を死なせた! お前ひとりの名誉のために十一人も死なせた! 初めにフトマン、次にアッシャー、その次が――」

「――黙れこの反逆者が! 読み書きもできない怠惰な貧民が、身の程を弁えろ!」

 セーリスが白目を血走らせて怒鳴るなり、ブーツの先でエヴァンスの顎をしたたか蹴り上げた。「お前はしゃべる鸚鵡と同じだ! 他人の言うことをただ覚えて分かりもせずに繰り返している!」

 セーリスは裏返った声で怒鳴り、ゼイゼイと息を整えてから、別人のように穏やかな笑みを浮かべて、愕然とする観衆を見回した。

「皆もう一度言う。この男を信じるなよ」

「はい司令官」

 幾人かが掠れた声で答えた。

 セーリスの傍らでお気に入りが銃を手にしていた。

 

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