第三章 魚の店 七
「マティンガ」はぎりぎり実在します
設定はほぼ創作ですが
ボールスとトッティが女を選ぶのに迷っている間に、エヴァンスは巻き毛に連れられて二階へと上がった。よく軋む狭い階段を登りながら訊ねてみる。
〈あんた名前は?〉
〈客はマティンガと呼ぶ〉
〈本名は?〉
〈イギリス人は発音できないだろう〉
階段を登り切ると黒光りする板張りの廊下に出た。右手に小部屋が並んでいる。女が迷いのない足取りで進んで三つ目の紙張りの戸を動かす。中は小さな板の間だった。向かい側に格子を嵌めた窓が開いて、下に草を編んだ矩形の敷物が敷いてある。
女が戸口で足を止め、ふり返りながら訊ねた。
〈一メース。払うか?〉
〈払うよ。安い買い物だ。あんたは女王様みたいに綺麗だから〉
褒めると女は鼻を鳴らして嗤い、敷物の上に坐って髪を解いた。くるくると縮れた豊かな巻き毛だ。濡れた炭のような光沢がある。
〈綺麗な髪だな〉
〈恋人みたいに褒めなくていいよ。あんたは客なんだから〉
ガウンを脱いだ女の体は思ったよりも浅黒かった。
途中、外で驟雨が走ると、女は訝しげに首を横向け、羽虫を見つけた猫のようにじっと格子窓を見ていた。
一仕事終えると女はすぐに体を起こし、手早く巻き毛を結い直しにかかった。エヴァンスはふと気になって訊ねた。
〈なあマティンガ、何処でスペイン語を覚えたんだ?〉
〈父親に教わった〉
〈教会の神父様?〉
〈私の父親〉
〈父親がスペイン人なのか?〉
〈違う。私の父親は昔マニラに行ったんだ。法印様の命令で、カピタン・ガスパルの船に乗って。だからスペイン人の友だちが沢山いる〉
〈へえ。日本の船がマニラに行くのはよくあることなのか?〉
〈昔はよくあった。太閤様の時代にはね。カピタン・ガスパルは太閤様の手紙を届けにいったんだ〉
マティンガが黒い目を輝かせて話した。キャプテン・ドレイクの話をする少年水夫のように無邪気な貌だ。たぶんそのカピタン・ガスパルというのは、平戸人にとっては世界中の船乗りが知っていて然るべき船長なのだろう。エヴァンスはそちらには触れず、ふと気にかかったもう一方の名前について訊ねた。
〈そのタイク・サムというのは、フォイン・サムの前の平戸の王様か?〉
〈違うよ。太閤様は前の皇帝だ〉
〈皇帝は王様より偉いのか?〉
〈ずっと偉い。あんたは日本に来ているのに、日本のことを何も知らないんだね〉
〈俺は他にも色んな場所に行っているんだよ。世界の半分を航海してきたんだ〉
〈なら、世界の半分のことを何か知っているのか?〉
挑むように訊かれてぐっと詰まると、マティンガは声を立てて笑った。
身繕いを終えたマティンガは、部屋の隅の籠を引き寄せて繕いものを始めた。眺めていても顔もあげない。エヴァンスは身形を調えながら一か八か頼んでみた。
〈なあマティンガ、覚えていてくれよ〉
〈何を?〉
〈俺はクリストバルだ〉
〈クリストバル〉
マティンガが針を動かしながら思いがけず繰り返した。
階下へ戻るとボールスがいた。土間のテーブルで萎びた無花果のような顔をした女に給仕をされながら青い陶器のジョッキで何か飲んでいる。同じものをくれと手まねで頼んで飲んでみるとドロッとした舌触りの濁った酒だった。一杯干す間にようやくトッティが戻ってきた。
「雨が降っていたみたいだね」
照れ隠しのように若者が言う。外へ出ると路地に大きな水たまりができていた。左手から射す赤い陽を映して輝く水面を踏み砕きながら、トッティが俯きがちに呟いた。
「なあ砲手、あの娘カタリナっていうんだってさ」
「あの娘って、あの栗毛か」
「ああ。身内がキリスト教徒で、だからみな殺されちまったんだって」
「皇帝の迫害か? 魚の店にはぴったりだが、たぶんその娘どの客に同じ話していると思うぞ」
「俺の女も似たような身の上話していたな。おいトッティ、まさかとは思うがお前、可哀相な聖カタリナとお話しするだけで一メース恵んじまったなんて言うなよ?」
出資者が口を挟むと若者は泣き笑いのような表情を浮かべた。「安心してくれボールス。あんたの金は無駄にしていないよ」
雨上がりの空気は爽やかで、汗ばんだ膚を心地よく冷ましてくれた。背の後ろから照る入日に急かされるように路地の口へと急いでいると、窓の下の棚に蝋燭を並べた二階屋の中から、驚くほど流暢なラテン語の主祈祷文が聞こえてきた。




