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24.夢の世界へ

 ――聞いた話だ。

 大学の中庭を歩いている時、鈴谷凛子は、いきなりロリータ系ファッションの女性に話しかけられた。白を基調としたデザインだったが、あまりそれが似合っているようには思えなかった。濃いめメイクの所為で分かり難かったが、既に少なくとも20歳以上には達しているように見えた。

 「あなた、エッチな研究をしているのでしょう?」

 彼女は“はい?”とそれを聞いて疑問に思ったのだそうだ。しかし、それから直ぐに以前論文で“性の文化と多様性”に触れ、「性表現の規制は問題がある」と主張した事を思い出した。この娘はその内容を勘違いしたのだろう。

 「性の文化は研究テーマの一つですね」

 と、だから返した。するとそのロリータファッションの女性は、「あたし、メリリン。そういう女の子を探しているんだ」などと変な事を言って来た。

 「メリリン?」

 「雌羊のメリリンだよ。みんなを夢の世界に案内するの…… なんてねっ! 楽しい所があるから誘いに来たのよ。きっと素質があると思って」

 彼女は軽く恐怖を覚えたのそうだ。絶対に普通じゃないから無理もない。が、それと同時に彼女は“世話をしてあげなくちゃいけない”という母性のような何かが自分の中に込み上げて来るのも感じていたらしい。

 「あなたは何者? ここの大学の生徒じゃないわよね?」

 そう返した時、自然と口調が敬語ではなくなっている事に彼女は気が付いた。

 「うん。生徒じゃないよ。でも、この大学に知り合いはたくさんいるんだ。つい最近まではここで別の人が夢の世界に案内していたのだけど、できなくなっちゃったから、代わりにあたしがやって来たの」

 恐らく何らかの仕事の勧誘だろうと彼女は考えた。

 「その“夢の世界”というのは何かのお店の事かしら? そこで私は何をすれば良いの?」

 「働いても良いし、遊んでも良いし。それに色々な人に会えるよ」

 よく分からなかった。“何かのコミュニティかしら?”と彼女は考える。ただ、いかがわしい気配がプンプンと漂って来るが。

 「行ってみたくない? 夢の世界?」

 無邪気にメリリンは、そう尋ねて来た。

 「いや、私はそういうのじゃないのよ……」と断りかけて言葉を止める。

 誤解を解くべきかどうか、彼女は逡巡したらしい。メリリンの言う“夢の世界”に、社会科学を研究する者として興味を抱いた…… か、または、既に“蟻地獄娘”の人たらし能力に当てられていたのかもしれない。

 その時、メリリンはまるで仔犬のような憐みを誘う目でじっと彼女を見つめていたらしいのだ。不安がっている。演技には思えなかった。彼女はまるで悪い事をしているかのような気分になってしまった。

 「一度、遊びに行ってみるだけでもダメ?」

 と、メリリンは懇願して来た。

 軽く「うーん」とうなると、彼女はこう尋ねた。

 「本当にただの見学よ? 私はそういう文化も研究しているから…… まあ、取材みたいなものね」

 すると、一気にメリリンは顔を明るくした。

 「本当? 嬉しい! じゃ、連絡先を交換しよう!」

 それから彼女はほとんど警戒心を抱かすに彼女と電話番号を交換したのだが、後で冷静になって気が付いた。それはビジネスで使っている電話番号であって、メリリン個人のものではなかったのだろう。つまり、彼女は一方的に個人情報を渡してしまった事になる。

 それで彼女は不安になった。

 騙されたという気はしない。メリリンを信用した訳じゃない。騙せる程の能力があるように思えなかっただけだ。ただそれでいて、確実に危ない橋に彼女は一歩踏み出してしまっていた。

 不気味である。

 鈴谷は大学の専攻教室でメリリンの連絡先の電話番号を記録したスマートフォンを眺めていた。まだ連絡は来ていない。だが、恐らくは数日以内には連絡が入るだろう。彼女がメリリンにとって“商品”なのだとすれば、であるが。

 ――そもそも、あの娘は何だったのだろう?

 考える。

 この大学の生徒ではない。が、知り合いはたくさんいる。これまで別の人がここで“夢の世界”に案内していたが、できなくなったので代わりにやって来た……

 “きっと、あの娘の印象で判断してはダメね。もっと客観的な事実だけで判断するべき”

 それで彼女はここ最近のこの大学での出来事の記憶を辿ってみた。そして、ダンスサークルが活動停止に追いやられている事を思い出したのだった。

 “ダンスサークルの男生徒達は、この学校の女生徒達に対してあまりよろしくない事をやっていたって噂があったわよね……”

 それから彼女は同じ専攻教室の女生徒に話しかけた。その女生徒は噂の伝播を研究テーマにしているのだ。何か知っているかもしれない。

 「ああ、ダンスサークルの件。噂では、“危ない所”への斡旋にも手出ししていたらしいわよ。極一部みたいだけど」

 「信憑性は?」

 「あるっぽい。実際に勧誘されたって女の子に会ったけど、嘘を言っているようには思えなかった」

 「つまり、夜のお店で働かせられそうになったって話よね?」

 「夜のお店…… なのかな? どちらかというと会員制の秘密クラブみたいな所って印象だったけど。まぁ、売春もやるみたいだからほぼ一緒かな? 自由に男と女が出会って、自由に色々な事をやるって感じだって聞いている」

 なるほどね。

 と、それを聞いて鈴谷は思った。

 ……それが“夢の世界”か。

 フリーセックス的な思想の持主にとっては確かに夢の世界かもしれない。勘違いされそうな論文を自分は幾つか書いているから、それで誘って来たのだろう。

 その翌日、メリリンから彼女へ連絡があった。もちろん、その夢の世界へ案内する為の。

 

 そこは繫華街の一角だった。

 キャバクラやホテルなどが幾つも立ち並んでいる。目的地は洋館風の建物で、飲食店のようにも見え、実際に食べ物を提供してもいるようだった。外見よりも中は広く、上品な雰囲気があった。ただ、入って来る客層の幅は広く、必ずしも上品な人々だけが利用しているようではないようだった。そして、これは単なる彼女の勘なのだが、その建物はメリリンが所属するフリーセックス的な組織の本体ではないと感じていた。多分、単なる窓口のような場所なのだ。

 「へぇ。今日はその娘なんだ。珍しいタイプだね」

 この店(?)で働くにしろ遊ぶにしろ、面接に合格しなければならないらしい。客間のような場所に通されて待っていると、ラテン系のボーイ風の若者が現れた。彼が面接をするらしい。日本語は流暢でなまりもなかったので、日本育ちだろう。健康的に日焼けしていて、よくモテそうだった。

 メリリンが嬉しそうに言う。

 「うん。この娘、エッチな研究をしているのだって。ここにピッタリでしょう?」

 「エッチな研究?」とボーイが疑問の声を上げる。メリリンは誤解したままなのだ。

 「文化の研究です。性の文化の多様性も研究テーマの一つなので」

 「その為にここに?」

 「ええ、彼女から聞いていませんか?」

 それを聞くと、ボーイは眉をへの字に曲げた。メリリンは慌てて言う。

 「でも、“乱婚制”とかってのも研究しているのでしょう? なんかエッチでコミュニケーションをしている動物もいるって」

 鈴谷は首を軽く左右に振って返す。

 「“ボノボ”ね。確かにボノボは性行為をコミュニケーションに用いています。その為、異性どころか同性間ですら性交を行う。そして平和な社会を実現しています。それをモデルに“性の解放”によって平和な社会を実現しようと主張している人がいる事はいます。

 ですが、私はその主張には反対ですがね」

 それにメリリンは驚いた顔を見せる。

 鈴谷は少し前にボノボを扱った短い論文を書いている。メリリンはその論文も読んだのかもしれない。ただ、きっと彼女は中途半端にしか読んでいない。だから驚いているのだ。

 「ボノボは自己家畜化によって、極めて温厚な性質を獲得しています。その為に、性行為が暴力に結び付いていないのではないかと私は予想しています。

 “性欲”は様々な欲に結び付く性質があるようです。食欲にも排便にも睡眠にも結び付いている点からもそれは明らかでしょう。ですから、性欲は平和な性質を持った人には平和的に作用するでしょうが、暴力的な性質を持った人には暴力的に作用してしまう可能性が大きいと考えられるのです。

 それに、不特定多数の人との性交に抵抗を感じない人もいる一方でそれが大変なストレスになる人もいる。ボノボのように性交が当たり前になる社会は、人間には向いていないと思うのです。もし強引に実現したら、数多の問題が発生するはずです」

 鈴谷は淡々と語り終えた。いち研究者として語ったつもりだった。ボーイは軽く溜息を漏らした後で細かく何度も頷いた。

 「うんうん。よく分かったよ。あんたにはここは相応しくない。研究の為に見せてやりたい気持ちもあるが、それじゃ俺が怒られちまう。悪いが面接は不合格だ」

 それを聞いて、メリリンは「えー」と声を上げた。

 「多分、大丈夫だよぉ」

 ボーイは呆れる。

 「“多分”ってな。お前は色々な奴を連れて来るが、少しは選べ。そんなに簡単な場所じゃあないんだよ、ここは」

 メリリンはまだ不服そうだったが、それでももう何も言わなかった。

 それから直ぐに“不穏分子候補は吐き出せ”とばかりに直ぐに鈴谷は建物の外に連れて行かれた。

 “夢の世界”から追い出されたのだ。

 外に出ると、メリリンは直ぐに謝って来た。

 「ごめんねぇ。あたしが誘って連れて来たのに」

 「いいえ、私の方こそ悪かったわ。もっと分かるようにあなたに伝えれば良かった」

 彼女がそう返すと、まるで気の置けない友人を見送るような仕草で名残惜しそうにメリリンは手を振った。そしてそれからそそくさと夢の世界に戻っていってしまった。よっぽど夢の世界が楽しいのだろう。そんな場所ではないと分かっていながら、彼女はその光景を微笑ましくすら思ってしまったのだった。

 が、その場所を離れようとしたその時だった。

 「――良かった。あんた、直ぐに出て来られたんだな。もうこんな所に関わっちゃダメだよ。あの蟻地獄娘にもだ」

 そう話しかけられたのだ。

 見ると、いかにも人の良さそうなおじさんが近くにいた。二三件先のカラオケパブの客引きらしい。

 「“蟻地獄娘”って何ですか?」

 「あの娘の二つ名だよ。女の子を捕まえて来て、蟻地獄に堕とすんだ。生活がそれで変わっちまったら、もう二度と真っ当な生活には戻れなくなる」

 彼女は目を見開く。聞き捨てならない。

 「……その話、もう少し詳しく聞かせてもらって良いですか?」

 彼女はほぼ反射的にそうお願いしていた。

 そして、そのおじさんから、彼女は本当のメリリンの怖ろしさを教えてもらったのだった。

・本編とはまったく関係のないオマケ

挿絵(By みてみん)

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