23.“蟻地獄娘”の事件
どうやら鈴谷凛子にはブラックフェイスの正体を公にするつもりはないようだった。或いは、彼女も感情的には“女の敵”とも言える男達が許せないのかもしれない。“法をもって正義とする”思想は彼女にはなく、“法は社会的な道具でしかない”と考えているような節もある。だから、ブラックフェイスについても許してくれているようだ。
つまり“世の中の役に立ちさえすればそれで良い”のである。社会科学を研究している彼女らしい考え方だ。
もっとも、それはブラックフェイスが社会に悪影響を及ぼすような存在になったなら、糾弾するという事でもあるのだが。そして、彼女は思想的には稲塚薫のしている行為を否定したいとも思っていたようだった。ただ、彼が単に“白鳥愛を護りたいだけ”である事には気が付いていないようだったが。
「――なんか、動画になっているみたいだけど、大丈夫なの?」
恐らくみょんチャンネルのブラックフェイスの動画を観たのだろう。鈴谷凛子が稲塚薫に突然電話をかけてきた。
それは稲塚の仕事中、オフィスにいる時のことで、少しばかり彼は驚いてしまった。まさか彼女の方から自分を心配して電話をかけて来てくれるとは思っていなかったからだ。今、彼が直面している“ブラックフェイスの正体を探られている”事態に対して、彼女に何かできる事があるとは思えない。そういう場合、何もせずに放置するドライなタイプだと彼は彼女を思っていたのである。
もっとも、それは雰囲気から感じる単なる印象に過ぎず、実際の彼女の行動を観れば“情に厚い”面も多分にあると分かるのだが。
廊下の人気のない場所に移動すると、彼は小声で返した。
「今のところは平気だと思う。ストーカー事件を探っているみたいだから」
彼がそう応えると「そう……」と、彼女は少しの間を作ってから口を開いた。
「でも、少し気になるのよね。私も動画を観たのだけど、警察を気にしているみたいじゃない」
「そうだね。でも、警察はあのストーカー事件にはあまり関心がなかったみたいだよ。塩対応されたって白鳥さんが愚痴っていたから」
ストーカー君についてはほぼ警察に無視をされたらしい。彼はブラックフェイスに暴行されたと警察に訴えたようだったのだが、真っ当には相手にされなかったのだ。
『バットを持った男に追われています』
と、白鳥が警察に通報した後だったから、バットを振り回して正当防衛で返り討ちに遭い、それを逆恨みをしているだけだと思われたのだろう。だからブラックフェイスについては捜査自体が行われていない。
「そっちの件は私も大丈夫だと思っているわよ」
と、鈴谷は言った。
「私が心配しているのは、“蟻地獄娘”の方よ。あの事件の顛末、不自然だわ。多分、警察はあなたの存在を知っていたのじゃないかと思う」
“蟻地獄娘”はもちろん通称である。本人はメリリンと名乗っていて、それも本名ではないだろう。本人曰く、『みんなを夢の世界に誘うセクシーキュートなパワフル乙女、“雌羊のメリリン”でーす』との事だ。
“女も男もみんなを幸せにする”
それが彼女の主張だった。
“夢の世界でみんなを幸せにする”と。
もちろん、そんな夢の世界なんてありはしない…… いや、あったのかもしれないが、そこはみんなが幸せになれるような素晴らしい場所などではなかったのだ。少なくとも、鈴谷や稲塚、白鳥達にとっては。
その蟻地獄娘の情報を、初めて稲塚に伝えたのは鈴谷凛子だった。
彼女は“問題有りな人間”への対応は「一に“予防”、二に“ケア”、“排除”は最終手段」だと主張していた。そして、彼女にとって蟻地獄娘は最終手段を執らなければいけない可能性を持った“問題有りな人間”だったのである。
暴力事件などの分かり易い犯罪を起こすのは圧倒的に男性が多い。それは一部はコントロール不能に陥ってしまう事が原因だ。例えば“首藤ノブ”。鈴谷は彼の取材を行って知ったそうなのだが、彼は家庭環境に恵まれておらず、母親は彼の妊娠中にアルコールやニコチン、それ以外の何らかの薬物を摂取していた可能性が高いらしい。
それら数々の毒に曝露され続けた彼の脳は生まれた時には既に異常を抱えており、その所為で非常に鈍感な世界で生きる人生を強要されてしまった。
「あれだけの恵体だもの。もし、真っ当な母親だったなら、スポーツ選手として大成していた可能性だってあったでしょうに」
と、彼女は残念そうに語っていた。
もちろん、その“鈍感さ”が暴力行動に結び付いてしまったのは、テストステロンなどの男性ホルモンの影響も大きかったのだろう。男性ホルモンだけでは、暴力の原因にはならないが、他の何かと影響し合えば、どうしようもない危険な衝動をその人にもたらしてしまうのだ(これは男性に限らない)。
「性的な快楽を得る為に連続殺人を犯すのは圧倒的に男性が多い。女性にだってそういう人はいるけど稀なケースね。
女性の場合、連続殺人の動機としてまず疑うべきなのは“お金”と考えるべきだと思う。保険金目当てだったり、遺産目当てだったり、その他にも、売春宿を経営して多くの女性被害者を出したなんてケースもある。これは正確には殺人じゃないかもしれないけど、金目的で女性の人生を破壊しているという点ではほぼ殺人みたいなものよ」
鈴谷は稲塚にそう語った。
“蟻地獄娘”は、きっとそんな女なのだと、彼女は考えているのだろう。
――女性は“感情の生き物”である。
そういう主張がある。
そして、それは特有の優しさにも結び付いている。
がしかし、ならば、“感情の機能の対象外”の存在に対しては、その優しさはまったく発揮されないという事になりはしないだろうか?
熊を可哀想に感じる人は多くいて、「殺すな」と苦情を言ってしまったりもする。が、ゴキブリを「殺すな」という人は滅多にいない。熊に対しては感情の機能が働くが、ゴキブリには働きにくいからだ。
理性ならば、道徳や倫理によって歯止めがかかるだろうに、感情にはそれがない。何処までも冷徹に残酷になれる。
例えば、肉体関係を結んだ後で、合意はなかったと主張して金を脅し取る女がいる。高齢の男性を恋愛感情を利用して騙し、多額の金を奪い取ってしまう女がいる。自分の娘をセックスワーカーとして売ってしまう女がいる。
――しかも、罪悪感を抱いているようには思えない。
恐らくは、感情の機能が働いていないのだ。
“対象外”
同じ人間だとすら、感じていないのかもしれない。
(もちろん、男性にだってそれくらいの事をしてしまう者は星の数ほどいるのだが)
“蟻地獄娘”は、女性を騙し、売春組織に紹介してマージンを受け取る事を生業にしている女だった。
つまり、女性を“同じ人間”とは思っていなかったのだろう。
蟻地獄娘・メリリンは知能犯には思えない。が、それでいて言葉巧みに数多くの女性を騙し、セックスワーカーにしてしまっていた。いや、“言葉巧み”という表現は正確ではないのかもしれない。彼女の醸し出す雰囲気に皆は騙されてしまうのだ。一見、可愛く弱そうに見える人懐っこさが、彼女を“傷つけてはいけない”と本能的に思わせ、信用させてしまうのかもしれない。
本人には、或いは騙しているという自覚すらないのかもしれない。その方が楽しくて幸せになれると本心からそう思っていたのかもしれない。
ただ、相手がどうなろうと彼女が何ら後悔をしているようには思えなかった点はそれでも変わらない。
コミュニケーション能力に優れた天性の詐欺師。
否、“天然”詐欺師。
それが蟻地獄娘・メリリンなのである。
そして、彼女もまた、白鳥愛の安寧を脅かす怪人の一人なのだった。ブラックフェイスが打ち倒すべき“問題有りな人間”である。




