22.鈴谷凛子という女
論文の発表会。
地味だがよく見ると綺麗な女性が登壇している。眼鏡越しでも失われない鋭い眼光。気は強そうだった。大学の講義室で行われているその発表会には、まばらではあるが人がそれなりに入っていた。
そして、稲塚薫も彼女の論文を聞いている一人だった。
「“配偶者防衛”という行動が動物のオスには観られます。これは精子に比べて貴重な卵子の生産者であるメスを、オスが独占しようという行動を指します」
発表している論文のタイトルは、“男女平等と性の文化の多様性”となっていた。社会科学方面の論文であるはずなのだが、語っているのは生物学的な内容に思える。
「人間にもこの配偶者防衛は観られます。男性にとってみれば、自分のパートナーである女性が他の男性の子供を産み育てるのは絶対に防がなくてはなりません。言うまでもなく、自らの遺伝子を残せなくなってしまうからですね。
ですから、男系社会・男性優位社会では、男性側の都合に沿った性道徳が成立する傾向にあります。貞淑さをもって美とし、伴侶意外の男性との接触を禁じるのです。もし仮に伴侶意外の男性と関係を持ってしまったなら、文化よっては殺されてしまうケースすらもあります。それは理不尽にも強姦である場合も含まれているのですが、男性側が浮気をした場合は許されるばかりか、称賛される事すらもあります。
つまり、“貞淑さをもって美とする”性道徳において、女性は差別されているのですね。もっとも、近年は男性も平等に糾弾されるケースが多くなって来ていますが」
その論文の発表者の名は“鈴谷凛子”といった。社会科学方面を研究している優秀な大学の女生徒である。
「――さて。
“配偶者防衛”の極端な事例としてあるのがハーレム制です。少数のオスと多くのメスで構成された社会体制ですね。これを男性優位の極致と見做している人も多いかもしれませんが、実はそうとばかりも言い切れません。何故なら、メスにもちゃんとメリットがあるからです。
ハーレム制を認めれば、メスは優秀なオスの遺伝子を特定のメスに独占されずに済みます。“オスを共有できる”という事ですね。また、メス達で子育てを協力して行えるようにもなります。
人間は少なくとも一時はハーレム制を経験していると言われているのですが、その人間のメス…… 女性には周囲にいる女性達と月経周期を同期させるという現象が報告されています。月経周期が同期すれば、同じ時期に妊娠する可能性が高く、そうなれば生まれて来た赤ん坊に母乳を分け与えられるようになる可能性も高くなります。母乳が出難い女性、逆に母乳が出過ぎる女性がいる点を考えるのなら、これは理に適っているでしょう。子育てを協力して行えるようになるのですね」
鈴谷凛子は淡々と語っていた。聞き取りやすい声で、自然と耳に入って来る。
“やっぱり、頭の良い人なのだなぁ”
と、稲塚はその論文発表を聞きながら思っていた。彼女がどんな人間なのか知りたくて参加したのだが、論文自体も面白かった。彼女は説明を続ける。
「“ハーレム制の主体は、実はオスではなく、メスである場合も多いのかもしれない”とも言われています。
これはライオンの群でも観察されている現象です。ライオン群のオスは狩りをしない事で有名ですが、“メス達に働かせて自分は楽をしている”と言うよりも、性交専門要員として群の中に配置されていると解釈した方が良いのだそうです。
――ただし。
ハーレム制はメスにとってデメリットもあります。その最大のものは、“せっかく産み育てて来た我が子を他のオスに殺されてしまうかもしれない”というリスクでしょう。
新たなオスがやって来ると、そのオスは我が子をメス達に産ませる為に、他のオスの子を殺してしまうのですね。
一応断っておくと、ハーレム制だけに限ったリスクではありません。ただし、ハーレム制でより顕著になるのはまず間違いないでしょう。
これは幅広い動物のオスに観られる行動で、人間にだって観られます。女性が浮気で産んだ子供は、辛い立場に追いやられる場合が少なくありません。“我が子を産ませる為”ではありませんが、実質的な“他の遺伝子の排除”ではあるはずです」
相変わらずにまるで生物学の論文のようだった。ただ、時折、人間社会に触れる瞬間があり、それが巧みに伏線を張った小説のような面白みを稲塚に感じさせた。
「――さて。
もし仮にメスがオスによる子殺しを防ごうとするのならどうすれば良いでしょう? 逃げる? それも一つの手段でしょう。ですが、群れで生活する動物の場合は難しい。実はもっとシンプルな解決方法があります。
それは“複数のオスと性交する事”です。
そうすればオスはメスの子供が他人の子供なのか自分の子供なのかが分からなくなり、殺せなくなります。
このようにメスが複数のオスと性交する状態は“乱婚制”と呼ばれています。この乱婚制を執っている動物の代表例はチンパンジーやボノボですね。彼らは乱婚制の動物である事が知られています。そしてそのお陰で同じ群内では“子殺し”は行われないのです。ただし、チンパンジーのオスは他の群の子供は殺してしまうのだそうですが」
“なんだか生々しい話だな”と、稲塚はそれを聞いて思った。
“自分なら、例え自分の子供でなくても殺したりできない”
ただ、同時に“もっともそれは自分が現代日本社会の道徳に染まっているからなのかもしれないけど”とも思っていた。
「実はこのような行動を見せるのは、チンパンジーやボノボだけではありません。稀ではありますが、ライオンのメスも複数のオスと性交する事があるのだそうです。そして、その場合も子供は殺されない。発見されていないだけで、他の種でもあるのかもしれません。
恐らく、オスには、自分と性交した後に生まれたメスの子供には殺意を抱かないような性質が備わっているのでしょう。
――ただし、それをメスがちゃんと理解した上で他のオスと性交しているのかといえば、違うと考えるしかないでしょう。複数のオスを受け入れる性質を持ったメスが、生き残る事が多かったからこそ、そのような性質をメスは獲得しているのです。
進化論。遺伝的アルゴリズムですね」
そこで鈴谷凛子は一度言葉を切った。一呼吸の間の後で再び口を開く。
「――さて。
人間にも複数の男性を受けれ入れてしまえる女性が存在します。しかも場合によっては積極的に。そういう女性は、或いは男性に“子殺し”をさせないように進化適応した女性なのかもしれません。いえ、それだけではない可能性もあるでしょう。男性は女性が自分の子供を産んだのかもしれないと思ったのなら、支援をする場合もあるでしょうから。
実は稀有な事例ではありますが、そのような人間の性質が、社会制度にまで昇華した文化も存在するのです。
南アメリカのマラカイボ盆地に住むバリ人は、女性が複数の男性と性交をします。そして、それら男性から支援を得られます。“分割父性”と呼ばれているのですがね。そのお陰で女性は生き残りに有利になります」
“そんな文化があるのか”と、稲塚を心の中で呟いた。
現代の日本で暮らしていると信じられない話だが、それも多様な文化の一つなのだろう。稲塚は感心をしていた。きっと否定されるべきものではないのだ、と。
「――ここで問題提起です」と、そこで鈴谷は言った。
「もし仮に、このバリ人の女性の複数の男性と性交を結ぶという行為を、現代の“貞淑さをもって美とする”日本人が観たらどう思うでしょう? “淫らな行為”として、糾弾するのではないでしょうか?
しかしその性道徳は、男性優位社会の都合によって作り上げられたものに過ぎないのです。決して唯一の正解ではない。世の中には性的に奔放な女性も多くいる訳ですが、それは生存戦略の一つだと考えるべきでしょう。
近年、一部のキリスト教の影響を受けていると思われる団体に性表現を規制しようとする動きが観られますが、キリスト教は典型的な男性原理社会で、だから“男性の都合によって作り上げられた性道徳”を持っています。このような押し付けは、文化相対主義の観点からも問題があると言わざるを得ないでしょう。
実は女系社会では性に対して寛容である事が知られているのです。日本は欧米に比べて性に関して寛容だと言われていますが、日本は比較的女系社会が長く生き残って来た事がその原因かもしれません。
女性原理の特徴の一つに“受容性”があります。これは“幅広く様々なものを受け入れる”という意味です。“性”を悪者扱いするのではなく、まずは受け入れる努力からするべきではないのでしょうか?」
鈴谷凛子はそう言葉を結ぶ。
彼女の発表はどうやらそれで終わりのようだった。会場から拍手が起こる。稲塚も自然と拍手をしていた。素直に面白いと思ったからだ。
真面目な人なのだろう。
きっと自分を脅すような真似はしない。
彼はそう判断した。だが、だからと言って、彼の敵にならないとは限らないのだが。
――鈴谷凛子は、先日、突然稲塚薫に接触をして来た。彼女は“闇落ちストーカー”の件について話があると彼に言い、
「結果的にではあるけど、彼はあなたのお陰でケアが順調に進みそうです。プライドを破壊されていた所為で、ケースワーカーの方達の話を素直に聞いてくれたのですね。
ただ、それは単なる幸運に過ぎません。問題のある人をただ排除しようとするあなたのやり方には賛同できません」
と、そう続けたのだった。
驚いた事に、彼女はブラックフェイスの正体が稲塚である事を見抜いていたのだ。大学の食堂での事で、彼は周りに聞かれていやしないかと冷や冷やしていた。
「どうして知っているのですか?」
と、小声で彼はそう返した。なんとなく誤魔化しても無駄な気がしたのだ。口論にでもなったら、誰かに聞かれてしまうかもしれないリスクが上がる。
彼女はそれに淡と返した。
「“首藤ノブ”という男性の事はご存知ですよね?
私は犯罪社会学も勉強していまして、興味深い事例だったものですから彼に取材をしました。その時に“黒いヘルメットの男と闘った”と聞いたのです。彼は白鳥愛さんと当時交際をしていたとも言っていました。更にダンスサークルの方々も白鳥愛さんに手を出そうとしていたと聞いています。そして、今回のストーカーをしていた彼もまた白鳥愛さんに付き纏っていたらしいじゃないですか。
いずれも白鳥愛さん絡みです。ならば、彼女と同じ高校の出身者である可能性が高い。それで調べてみました。該当者はあなたしか存在しません」
その確信的な口調に稲塚は頭を掻いた。
あっさりと見抜かれてしまった。恐ろしく頭の良い女性なのかもしれない。
「一に“予防”、二に“ケア”、“排除”は最終手段です。あなたは間違っています」
――そしてそれから、彼女は彼に向かってそう言ったのだった。




