13.暴力はまだ必要
仕事でやや疲れてはいたが、多少の無理をして稲塚薫は自宅のパソコンで“首藤ノブオの事件”の記録を検索し、どれくらいブラックフェイスとの関連が疑われる情報が出て来るかを長時間かけて調べ上げた。そして、
「ふーっ」と、思い切り息を吐き出す。
安心したのだ。
多分、ブラックフェイスと結びつけられるような記録は残ってはいない。
そもそも黒いヘルメットを被って彼が首藤と闘っているのを目撃した者はいなかったはずだから、それも当たり前なのかもしれないが。首藤の腕の骨折は、首藤が常日頃から喧嘩していたグループの誰かの犯行だと思われていたらしい。相当に恨みを買っていただろうから無理もない。気がかりがあるとするのなら、首藤に使った注射器を回収しようと後で探したのだが、結局見つからなかった事くらいだった。
「……これなら大丈夫か」
そう呟いて、伸びをする。風呂に入って寝ようかと思っていると不意に彼のスマートフォンが鳴った。誰かと思って見てみると、上原拓海という高校時代の知り合いからだった。
「おい、稲塚。見たか? 白鳥愛が動画に出ているぞ」
恐らくそれはブラックフェイスがチンピラと闘っているあの動画だろう。
「知っているよ」
と、だから彼はそう返した。上原は明らかに興奮していて、「相変わらずに可愛いな! おい! 芸能界からスカウトが来ちゃうんじゃないか?」などと一方的に喋った。
あの動画に対してのコメントの中には、確かに“この娘、可愛いな”なんてものもあったが、今のところはそこまで彼女自身は注目されてはいなかった。芸能界からのスカウトは来そうにはない。
“相変わらずだなぁ、こいつは……”
とそれで彼は笑った。
思い込みが激しくて、想像力が暴走しがちな傾向がある。
“考えてみれば、こいつがいなければブラックフェイスは誕生していなかったのかもしれないのだよなぁ”
上原自身は稲塚がブラックフェイスだとは知らない。しかし、それにも拘わらず、この男はブラックフェイスの成立に間接的に関わっているのである。
首藤ノブオは警察に逮捕された。直接の逮捕理由は教師に対する暴行だが、毎日のように喧嘩をしていた彼に余罪が多数あるのは明らかで、恐らくは少年院送りになるだろうと予想されていた。
きっと、彼らが学生の間は、もうこの街に首藤は戻って来ない。
白鳥愛は今回は酷く落ち込んでいたが、彼にはどうすれば良いか分からなかった。天野ですらも「どう慰めれば良いのか分からないのよね」と諦めていたから、そっとしておくしかないのかもしれなかった。
首藤の逮捕を受けて、もう戦闘能力は必要ないと判断した稲塚は、筋肉増強剤の量を少しずつ減らしていた。「一気に摂取するのを止めると、身体の負担が却って重くなりますよ」と紺野から教えられたので、その通りにしていたのだ。
格闘技ジムに通うのも彼は辞めるつもりでいて、頃合いを見計らっていたのだが、そんな折にこんなニュースが飛び込んで来た。
「白鳥さんが質の悪い連中から、狙わている?」
首藤と敵対していたグループの中で、“あの首藤と付き合っていた女”という事で白鳥愛は有名になってしまっていたようなのだった。しかも、それだけではなく、“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”のことわざ通り、いなくなった首藤の代わりに彼女に恨みを晴らそうという勢力が一部にはいるらしかった。首藤がいなくなったので、復讐される危険がなくなった点も大きかったのかもしれない。
――ただし、
「あの首藤と付き合っていた女なら、俺らでもいけるんじゃねぇか?」
みたいな連中も中には混ざっていたようなのだが。
それで稲塚は格闘技ジムに通い続け、筋肉増強剤はより負担の少ないものに変えてもらって摂取し続けたのだった。
――もし、白鳥さんが襲われたら護らないと。
そう考えていたのである。がしかし、それは杞憂に終わった。天野小夜子が首藤の喧嘩相手のグループを止めてくれたからだ。
「単に警察に通報しただけよ」
と、天野は言った。
首藤と敵対していたグループは、ネット上で物騒な書き込みを繰り返していたのだ。彼女の写真を貼り付け『この女だ。襲っちまおう』だとか、『首藤と付き合うようなビッチだ。どうなっても構うもんか』だとか。
時折、インターネットが公の場であるという事実を認識していないかのような人がいる。絶対に普段は口にしないような反社会的な内容を書き込んでしまうのだ。家の中にいるから、感覚としては実感できないのかもしれないが、それは世界に向かって大声でドン引ひきされる反社会的な発言をしているのとほぼ同じなのである。
白鳥に対して反社会的な書き込みをしている個人の特定は容易かった。驚いた事に、彼らは隠そうとすらしていなかったからだ。それであっさりと何人かが特定されると、後は芋づる式に見つかっていき、起訴まではされなかったらしいのだが、あっという間に彼らは黙ってしまった。
幸いな事に彼らのコミュニティ内でしか白鳥愛への悪口は広まっていなかった。だから大きな問題になる事はなく、その事件は呆気なく収束していった。ただし、上原拓海だけは例外だったのである。
白鳥愛から依頼をされた訳ではない。ただ、「最近、尾行されているような気がするの」と彼女が言っていただけだ。しかし稲塚はそれだけで心配になり、自主的に下校時に彼女の警備をし始めた(つまりは彼も彼女を尾行していたのであるが)。
そして、本当に彼女を尾行している男を見つけたのだ。否、それは見つけたと言うよりも……
「お前は何者だ! なんで彼女を尾行けている?!」
上原拓海は突然そう稲塚に怒鳴って来た。つまり、上原の方が彼を見つけたのである。稲塚は白鳥の帰宅ルートは大体把握しているので、下校している他の生徒達がまばらになるくらいからこっそりと後ろから護っていたのだが、それは人のいない工事現場の近くを通った辺りだった。
上原は昭和の世界からタイムスリップして来たかのようなスタイルの不良だった。赤髪で軽くリーゼントにしている。“自分は危険人物だ”と世界に向かって全力でアピールしているように思えた。背は彼よりも少し高ったが、大きなハンデになるほどではない。
彼は“嫌だな”とは思ったが、白鳥を護る為だと思うと恐怖心はそれほど沸き上がって来なかった。
「僕は彼女の同級生だよ。尾行されているかもって言うから心配して護っていたんだ」
まさか、こっそりと護っているとは言えない。すると「だったら、一緒に帰っているだろうが!?」とやっぱりツッコまれてしまった。そして、
「そこまでツラ、貸せや」
と、彼は人気のない工事現場を指差したのだった。
「お前が白鳥愛を狙っているのなら無駄だ。彼女は俺に惚れるからな」
と、上原は断言した。
「は?」と、それに稲塚は返す。
「どういう根拠があって言っているんだよ?」
白鳥の事では彼も退く訳にはいかない。強気に噛みついた。すると上原は勝ち誇った表情でこのような事を述べて来た。
「白鳥愛は喧嘩しか取り柄のない首藤と付き合っていた。つまり、喧嘩が強い男が好きなんだ。そして俺は喧嘩が強い。だから、俺に惚れる!」
ほぼ反射的に稲塚は返していた。
「そんな理由で彼女と付き合えるのなら、とっくに僕が付き合っているよ!」
「ホー」と、自信たっぷりな顔で上原は言う。
「つまり、お前は俺よりも喧嘩が強いって言うんだな?」
「なんでそうなるんだよ!」と、稲塚はツッコミを入れたが、それを無視して上原は構えを取った。
言葉は通じそうにない。
彼も構えを取った。喧嘩に勝ったら、上原が白鳥を諦めるというのなら話は早い。それに有り得ないとは思うが、白鳥がこの男に惚れてしまう可能性もゼロではない。何しろ、彼女はあの首藤ノブオに惚れてしまったのだから。
格闘技ジムで稲塚は打撃も習うようにしていた。それは白鳥が複数人の男から狙われていたからだった。関節技で複数人の相手は不利である。
だが、相手は今は一人だ。素人相手なら関節技の方が手っ取り早いとは思ったが、練習して来た打撃技も試してみたかった。
「いくぞぉ!」
妙に迫力のある声で、上原は拳を振り上げて殴りかかって来た。予備動作が見え見えで、楽に対応ができた。稲塚は少し迷ったが、一歩引いて拳を空振りさせると、その隙に踏み込んでジャブを当てる。もろにヒットした。上原は驚いているようだった。余裕で勝てると思っていたのだろう。
「てめぇ!」
逆上すると今度は彼は拳を強く握って大振りのストレートを放って来た。
今度も見えやすい。
稲塚は一歩踏み込んで懐に入ってそれを躱すと、掌底を顎に当てる。そこまで強くはヒットしなかったが、それでも脳が揺れたはずだった。
まずいと思ったのか、上原はよろけながら距離を取る。
驚いた顔をしている。
が、それから「へへ」と笑うとこう言った。
「そうかそうか。お前はボクシングが何かをやっているんだな。いいぜ、いいぜ。なら、組み付いてやる」
そして、プロレスラーのような構えを取った。もちろん、見よう見まねの偽物である……
「いててててっ! 痛いって!」
数分後、稲塚は上原の腕に関節技を極めていた。既に勝負は付いている。
「さっさとギブアップしなよ。言っておくけど、いつでも折れるからね?」
それに上原は「うるせぇ!」と返す。
「俺は絶対にギブアップはしねぇ!」
「あ、そ。なら、折っちゃおう」
手に力を込める。骨が軋んだ。
「待った待った待った!」
と、それに彼は叫ぶ。そして、その後であっさりとギブアップをしたのだった。ギブアップ後、彼は「うわあぁぁ!」と叫び声を上げて滂沱の涙を流した。
「いや、何もそんなに泣かなくても」
稲塚がそう言うと、彼は地面を殴りながら叫んだ。
「俺は喧嘩しか取り柄がないんだ! その俺が喧嘩で敗けたんだぞ? しかも簡単に! 首藤にも勝つつもりだったのに!」
“それは無理なんじゃないかな?”と稲塚は内心で呟く。
これだけ悔しがっているのに、上原はギブアップ後に彼に攻撃をして来なかった。根は案外いい奴なのかもしれない。
「とにかく、これで白鳥さんには手を出さないよね? 僕より喧嘩が弱いんだから、彼女が惚れるはずがない」
彼がそう言うと、上原は睨みつけて来た。そして、それには応えず、
「見てろよ! 絶対にリベンジしてやるからな!」
などと、返して来たのだった。
――それから上原は白鳥愛からは手を引いた。が、代わりに稲塚に執着をするようになってしまったのだった。
上原からの果たし状が度々稲塚の元に届くようになった。それは週に一回の時期もあれば、月に一回程度だった時期もあったが、一度も稲塚は敗けなかった。稲塚は格闘技ジムに通って実力を伸ばしていたので差は縮まるどころかむしろ広がっていたからだ。
ただ、それでも上原は諦めなかった。
そして、そのお陰で稲塚は身に付けたテクニックを実戦で試す事ができていたのだ。上原は卑怯な手段も武器も使わなかったから、完全な実戦とは言い切れなかったのだが、それでもそれは貴重な体験になった。それに少しは彼もそれを楽しんでいた。いつの間にか一種のコミュニケーションのようになっていたとすら言えるかもしれない。
だが、ある日、それは突然の終わりを迎えてしまったのだった。
「あ~、君達、何をやっているのかな?」
いつものように稲塚と上原が決闘をしていると中年の男性にいきなり話しかけられた。普通のおじさんに見えた。中肉中背で人が良さそう。国語教師にでもいそうなタイプに思えた。ただ、なんとなく奇妙な雰囲気はあったことはあった。
「なんだよ、おっさん!?」
やる気満々で上着を脱いでいた上原が威嚇するように言うと間髪入れないタイミングでおじさんは「警察だよ」と返した。
「君達がしょっちゅう喧嘩をやっているって苦情が来てね。それでおじさんがこうして注意をしに来たって訳だ」
上原はたじろいではいたが、それでもなんとか「俺らは何にも悪い事はしてねぇぞ!」とそう返した。すると、その刑事だろう警察は淡々と言った。
「“決闘罪”と言ってね、決闘は日本では罪になるのだよ」
それで彼は完全に黙った。
それからニコニコとした顔で、刑事はこう続けた。
「一応、住所と名前と電話番号を聞いておこうかな」
二人は大人しく言われた通りに教えた。刑事はスマートフォンにそれを打ち込むと再びニコニコと笑い、「もうやっちゃダメだよ。今度は見逃さないからね」と二人に告げたのだった。
こんな事で前科は作りたくない。
そう稲塚は思っていたのだが、幸いにも上原も同じだったらしく、それ以降果たし状を送って来る事はなくなった。もっとも、その後、彼は稲塚の通う格闘技ジムに顔を出すようになるのだが。
去り際、刑事は妙な事を稲塚に言った。
「……ところで、君は首藤ノブオ君が腕の骨を折られたのを知っているかな?」
「知っていますけど?」
そう彼が答えると、奇妙な間の後で刑事は「そうかい」と言い、「あまり喧嘩はしちゃダメだよ」とそう続けた。
上原との喧嘩の事を言ってるようにも思えたが、或いは、彼が首藤ノブオの腕の骨を折った犯人だと勘付いていたのかもしれなかった。
もっとも、どうやって勘付いたのかは見当も付かなかったが。
――幸村刑事は、首藤ノブオが腕を折られた現場で注射器を拾っていた。彼は麻酔状態にあったというから、恐らくはこれで麻酔薬を注射されたのだろう。
警察への通報では、白鳥愛という女子高生が首藤ノブオから暴行を受けそうになっている事になっていた。三城の事件の時と同じ被害者である。
偶然とは思えない。
更にそれから白鳥愛が不良グループから暴行のターゲットにされているという通報が入った。その件については未然に防がれたのだが、それから「男子高校生が決闘している」という苦情が警察に入って来るようになったのだった。
そして、“上原拓海”は白鳥愛を暴行しようとしていた不良グループの一人である。
「多分、三城達をやったのも、首藤ノブオの腕を折ったのも、さっきの稲塚薫って子ですね」
彼はそう呟いた。
彼が白鳥愛を護る為に様々に奮闘していると考えるのなら辻褄が合う。もっとも、まだまだ証拠不十分ではあるのだが。
“やれやれ、これ以上は何も問題を起こさないでくださいよ”
と、彼は肩を竦めた。




