2-11.優婉という花
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
風が冷たい。雨は雪に変わった。十二月、モーツァルトの亡霊が私の前から消えて、半年以上が過ぎた。
世界滅亡の噂が引っ切りなしに流れた世紀末、一七九九年が終わろうとしていた。私の二十代最後の歳が。
ウィーンで世紀末を迎えて思うことは、ここの連中は皆、この一年間よく、したいことをしまくったもんだ、ということだ。
もう三十を迎えることだし、私も私なりの決着をつけたかったが、そうはできなかった。とても新しい気持ちで三十代を、新世紀を迎えられるような心境ではなかった。
モーツァルトを失ってから間もない六月、私がここウィーンでやっと見つけた無二の親友、カール・アメンダが、
「ウィーンを去ることになった」
と言ってきた。バルト海沿岸にある故郷クアラントに帰って、家業の牧師を継ぐ、と言うのだ。
私は内心、また神に奪われるのかと、唯一心から話せる相手を失う衝撃でいっぱいだったが、急に兄が死んだのでどうしようもないということだった。私は、ちょうどその頃、モーツァルトのためにヘ長調の弦楽四重奏曲を作曲していたので、それを彼に捧げた。
六月二十五日、アメンダが出発する日、その曲のアダージョ楽章を彼のために演奏した。
「この曲は、まるで二人の恋人の別れを描いているように思える」
と彼は言った。
「そうだ。これは『ロミオとジュリエット』の墓場の場面だ」
と私は答えた。
誰にも相談できない苦しみに追いつめられていた。
アメンダと別れてからは、とにかく一人で、モーツァルトを求めて、ウィーンの思い付くところすべてを訪ね歩いた。またどこかで彼女が別の誰かに取り憑いているのではないかと気が気ではなかった。
しかし、探しても探しても、あの香りには辿り着けない。彼女はどこにもいないのだ。いったいどこに行ってしまったのか……。
そうだ、と私は最終的に考えた。彼女はハイドンのところに行ったのかもしれない。彼女は私と一緒に、あの『天地創造』を聴いたのだ。だとすれば、私を見限ってハイドンに憑いてもおかしくはない。彼は確かに偉大だ。あんな大作をものにするくらいだ。並の才能ではない。
彼はあたかも完全であるかのようだ。まるで私を認めないこの世の創造主そのもののようだ。だから彼の音楽はまさに神のように、人の苦しみを楽しみに変える。人々は楽に流されるように彼のもとへと流れていく。
モーツァルトも所詮、そんな人間の一人でしかなかったのか。
それとも、また『魔笛』の台本作者であるシカネーダーのところへ行ったのか。あるいは、ずっと一緒にいるのか。あの異常に女にだらしのない男のどこがあなたをそんなに惹きつけるのだ。あなたは結局、誰でもいいのか。
私は毎晩のように悲しみに暮れ泣き明かした。壁に掛かる彼女の肖像画は無言のまま動かない。転がった指輪も見つからない。夢の中にさえも現れない。
やがて、これほど追い求めても気配一つ感じさせず沈黙し続ける彼女に対して、私は恨みさえ抱くようになった。その苦渋が頂点に達すると、今度は毒のようになって滲み出してくる。どんな毒にも勝る強力な毒素が、体中に回って蝕んでゆく。そのあまりの気色悪さに、いつしか私は眠れなくなった。
夏はウィーン郊外のメートリングに逃げ、なんとか日々をやり過ごしたが、九月にはポーランドに逃げ込む計画を立てたにもかかわらず、それが実現しなかったため、彼女のいないウィーンの切なさに滞っていた私の感情はついに爆発した。
全身に回った毒があまりに苦しく、その毒抜きに良いような手頃な女を探しては、求婚しまくった。だが、そのたびに「狂人」だと騒がれ、断られ続け、苛立てば苛立つほど何もかもがうまくいかず、ますます私の苦悩は深まるばかりだった。どんなにごまかしたくても、真実は迫ってくる。それを避けようと、私はすべてに対して傍若無人になった。賭け事ばかりは金がなくてできなかったが、酒に女に溺れた。欲望にまみれた生活の中では、絶望に陥ることすら忘れられた。
これではあのヨハンという男と変わらない。やはり私は彼の息子なのか……。そんな不吉なシナリオがいつも頭をよぎったが、自分の生活を改めることはできなかった。
もう私の人生は終わりだろうかと、酒が切れるたび、ふと思った。
モーツァルトの息子、フランツ・クサヴァ・ヴォルフガング・アマデウスに再会したのは、ちょうどそんな頃だった。
今の私にとって、この再会は、モーツァルトの音楽以上に心を逸らせるものだった。
モーツァルトが遺したたった二人の子ども、と世間では言われているが、とりあえず上の息子のカールは違う。モーツァルトの息子ではない。コンスタンツェと浮気相手の息子だ。
だが、下の子はどうなのか。コンスタンツェの家で初めてこの子に会ったとき、コンスタンツェは私に何も語らなかった。しかし、私はひとめ見たときから確信していた。この子はモーツァルトの子だと。顔形がモーツァルトにそっくりだったから。父親は誰だか知らないが、シカネーダーだろうか? いや、名前がフランツ・クサヴァということは、モーツァルトの最後の作品と言われている『レクイエム』を補筆完成させた弟子フランツ・クサヴァ・ジェスマイヤーだろうか? とにかく彼女は私と別れてから大して時も経たぬうちに、また新しい恋人とよろしくやっていた。私との思い出など、彼女にとってはすぐに忘れられる程度のものでしかなかったのだろう。
悲しみのあまり、私はモーツァルトの息子を避けた。ところがコンスタンツェがこの子をモーツァルトⅡ世として売り出そうと躍起になっていて、いろいろな音楽の先生のもとにしきりに通わせ始めていたので、そうしたところでよく出くわすようになった。私は不本意にもこの子の演奏を聴いたことがある。取るに足らない凡庸な演奏だった。おそらく彼本人にやる気がないのだろう。私も作曲を習ったことがあるアルブレヒツベルガーのところで、彼はよく怠惰癖を叱責されていた。そのたびに彼は泣いて教室を飛び出すのだが、教育ママのところにも帰りたくないらしく、子どもには優しいハイドンのところでしょっちゅうぐずっていた。
ハイドンはこの子のことを才能とは関係なく気に入っていて、私が彼を見かけるのはほとんどがハイドンの家でだった。
去年の春、ハイドンと絶縁したとき、もうこの子にも会うことはないだろうと胸を撫で下ろしたが、今の私はあのときの私とは変わってしまっている。今はどんな些細なものでも、モーツァルトの面影が欲しい。もはやプライドも何もかも失くしていた。彼女から主導権を奪い、彼女を引っ張っていこうと決意した頃の私は、もう跡形もなかった。
私がこんなにボロボロになってしまっても、彼女は私のもとには現れず、その代わりに彼女の息子が現れたのだ。
ある日、アルブレヒツベルガー宅でついに鉢合わせとなった。
私は彼を見るなり、自分の中に激しい怒りと憎しみが湧き起こるのを感じたが、彼に駆け寄るとなぜかその感情は瞬時に変化し、そのまま固く彼を抱き締めていた。
「おい、この華奢な少年の背骨を折る気か!」
とアルブレヒツベルガーに邪魔されて引き離されると、少年はなぜか泣いていた。
「もう帰る」
と言って少年は出ていってしまった。私は、アルブレヒツベルガーが止めるのも聞かず、少年を追いかけた。少年は後ろの私に気付くと、恐ろしがって駆け出したが、私は彼の腕をしっかと掴んで引き留めた。
「モーツァルト……だな?」
彼の青白い顔を食い入るように見つめながら、この名を呟くと、今までの憎しみは浄化していった。
「おまえ、いくつだ?」
「は、八歳」
彼はうつむいたまま答える。あれからもうだいぶになる。もうそんな歳になったのか。あのときよりもなお、見れば見るほど、本当に彼女に似ている。まるでモーツァルトの少女時代を見ているかのようだ。
「おじさん、誰?」
彼は無垢な瞳で問うてくる。
「ベートーヴェンだ」
と名乗ると、少年は余計に怯え出した。大方つまらない噂でも聞いたのだろう。
「私は悪魔じゃない。おまえと同じ人間だ」
少年はそこで顔を上げる。愛らしい大きな瞳が私を射る。
「『悲愴』っていうソナタ、作った人でしょ?」
「そうだ。よく知ってるな」
「この間、サリエリ先生のところで弾きなさいって言われた」
「うまく弾けたか?」
「ん……」
少年はうつむく。
「おじさんの曲みたいなの、ボクも書けるといいのに」
「!」
私は耳を疑った。
「私のような曲を書きたいだと? おまえはあのモーツァルトの息子だろう」
「ううん、違うよ」
少年は首を横に振る。
「ボク、知ってるもの。モーツァルトは本当はボクのパパじゃないって」
「なんだって?」
私は少年の両腕を強く掴んだ。
「い、痛い」
と、また少年が泣きそうになったので、慌てて手を緩める。そして聞いた。
「それを誰から聞いた?」
「し、知らない人が、うちに来て話してた」
「誰かにそれを話したか?」
「うん、ハイドン先生に。でも信じてくれなかった」
「他には?」
「誰にも……だって、どうせ言ったって誰も信じてくれないんだもの」
それを聞いて、私はほっと息をつく。
「フランツ、よく聞くんだ。おまえは間違いなくモーツァルトの子だ。モーツァルトのことを知っている誰かに聞いたら分かる。おまえのその顔はモーツァルトそっくりだ」
「うん、よくそう言われる。ハイドン先生にも」
「そうだ。おまえはとてもいい両親を持っている。それを決して疑うな。おまえは愛されて生まれたんだ」
こんなことを言うのは辛かったが、少年のためにと、言い切った。
すると少年は眉根を寄せて私から顔を背ける。
「ママは、ボクを愛してなんかいないよ」
「何?」
「だって、いつもとても冷たいんだもの。パパのことは聞いたらときどき教えてくれるけど。 ……ママはキライ。ボクを愛してなんかいないよ」
「……」
そうか……。この子がモーツァルトの子どもなら、コンスタンツェにとっては他人だ。
コンスタンツェは、一昨年あたりから新しい男と同棲生活を始めていると聞く。それでこの子が邪魔になって辛く当たっているのだとしたら……。
「おじさん?」
少年は私の顔を覗き込む。ちょうどいい。それならいっそ私がこの子を奪い去ってしまおうか。
そうして、またモーツァルトを掴み取ることができれば、もう一度正しいと信じる道を行くことができる。この最悪な堕落から立ち直れる。
だが、そんなことを? そのためにこの少年を利用するというのか?
「おじさん、ボクのパパを知ってるの?」
「あ、ああ」
「どんな人だった? なんだかママには聞きにくいんだ」
「そうだな」
私は考えながら、まさに相応しい詩をもう思い付いていた。
「フランツ。思い出した」
「え?」
彼の大きな瞳を見ながら、その詩を語って聞かせた。
どこかの静かな谷に
小さな花が一つ咲いている。
それは夕べの月の輝きのように
人の目と心を喜ばす。
それは黄金より、
真珠よりダイアモンドより貴くて
人が「優婉な花」と名づけるのも無理はない。
人の心や体に
不思議な力をあたえる私の花の魅力について
いくらでも歌うことができよう。
どんな妙薬も与えることのできぬ
奇蹟を、我が花よ、おまえはあたえる。
お前の姿にそんな力があるとは
誰も思えないのに。
「この詩を知っているか? 『優婉という花』という詩だ」
私は小首をかしげている少年に話して聞かせた。少年には聞かせなかったが、この歌には続きがある。それはまさにモーツァルトを表している箇所だ。
かつて私の宝石であった彼女を
死が、私の手からうばい、
結婚の祭壇からひきさいたが、
もしお前が彼女を知っていたら、
愛とは何か、判ったであろう。
そして明るい昼のような
真実の光に彼女を見たであろう。
「フランツ、おまえのお母さんに会わせてくれ」
と私は言った。
これまでの私は自堕落な生活に溺れていたが、にわかに目が覚めたような気がした。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




