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2-7.ナポレオン

彼らの神々はどこにいるか、

彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

彼らの犠牲のあぶらを食い、

灌祭(かんさい)の酒を飲んだ者はどこにいるか。

立ちあがってあなたがたを助けさせよ、

あなたがたを守らせよ。

今見よ、わたしこそは彼である。

わたしのほかに神はない。

わたしは殺し、また生かし、

傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出しうるものはない。

わたしは天にむかい手をあげて誓う、

わたしは永遠に生きる。


(申命記第三十二章より)

 一七九八年四月二日、サリエリ主催の慈善演奏会が開かれた。

 会は二日間で、一日目はちょうど昨日終わった。私は二日目に出演を依頼されていた。

 それというのも、この五日前に催されたドゥーシェク夫人の演奏会で、私が作品十二のヴァイオリン・ソナタを初演したところ、その会に顔を出していたサリエリがえらくそれを気に入ってくれてまとまった話だった。

 さて、出演する当日になり、会場に向かうと、さすがと言おうか、なんと言おうか、客筋が社会的な意味で月並みではなかった。見渡すと、フランツ帝をはじめとするフォン付き貴族ばかりが並んでいる。彼らもやはり、サリエリの持つ高級さに惹かれるのだろうか。

 そこには、この二月にウィーン入りしたフランスのベルナドット将軍もいた。フランス全権大使としてウィーンに駐在している人物だ。

 ここは主催者の人格そのもののように、敵味方に区別なく開かれている。

 私はズメシュカル男爵と一緒だった。彼はハンガリー宮廷官房長の書記官としてウィーンに駐在していたのだが、リヒノフスキー邸の弦楽四重奏団の一員でもあり、私とはそこで知り合った。彼はチェロは確かにうまかったが、実に傲慢な利己主義者だったため、私は内心では彼を嫌っていた。それでもリヒノフスキーが不在のときの雑用の役には立つので、表面的には付き合うことにしていた。

 この日も彼は私の手を引き、あるフォン付き貴族の女を紹介した。そばには彼女の夫もいたかもしれないが、小さくなっていたようでよく分からなかった。

 それで、その女だ。さすが男爵の紹介だけあって、何か人間のような名を名乗ってはいるが、名前付きの豚と言う方が相応しい。ひとめで私が最も軽蔑すべき種類の輩だと分かった。それほど、身体全体で、自分の手柄でもない生まれを嫌味なほどに誇っていた。

 そのごまかしに満ちた笑みを引き裂いてやりたい衝動にかられていると……まもなく自分の出番がきたので、ピアノにつく。

 そして、もう初演ではなくなってしまったが、サリエリのために作曲した例のピアノと管楽器のための五重奏曲を演奏した。

「スヴィーテン男爵に楽譜を見せてもらったのか? モーツァルトが全く今の曲と同じ編成で作曲した五重奏曲があったが」

 演奏を終えて席に戻ると、ズメシュカルがそう言ってくる。

「ああ、よく知ってるな。その通りだ」

 彼からの意外な言葉に、少し戸惑いながら答えると、

「あの曲の自筆楽譜は、もともとは私が持っていたんだ。スヴィーテン男爵がどうしても欲しいというので、譲り渡したが」

 と彼は得意げに言う。なぜ彼が持っていたのか分からなかったが、彼とはあまり口を利きたくないので、聞かなかった。何はともあれ、それが回り回って私の知るところになったことを、とても幸運に感じた。

 サリエリの反応を見ると、彼は満足げに笑って手を叩いている。それを見て安心していると、さっき見かけたフランスのベルナドット将軍が近付いてきた。

「ベートーヴェン君といったかね。君の作品も演奏も素晴らしい。まるでフランスの魂のような音楽だ」

 と彼は言った。このような台詞は、どこかで聞いたことがある。そうだ、かのヨーゼフⅡ世が言った言葉。として語り継がれているモーツァルト讃。のようなこじつけ。「モーツァルトの音楽は、まるでフランスの宝石箱のようだ」。この言葉と共に、モーツァルトの音楽は全ヨーロッパを席巻(せっけん)し衝撃を与えた。時期が重なり、まるでそれは革命の嵐のようだったとも。

 しかし言わずと知れたことだが、モーツァルトはこのような決めつけに、とても悩み苦しんでいたのだ。人間が人間たることを行う芸術の前で、革命など、何の関係があろうか?

 私は怒りを満面に表して、こう答えた。

「そうですかね。しかしこれはフランスの魂ではないし、フランス革命でもない。レッテルは迷惑だ」

「おっと、これは失礼した。しかしあなたは誤解しているようだ。私は今自分に言える最高の賛辞を選んだのだがね」

 彼は意外と柔軟な人で、私の誤解を解くためにただちにフランス革命思想の講義を始めた。

「革命家というものが、どの世界でも大変換期には必要とされる。私の言うフランスの魂とは、この世界の向上のために尽くす高貴なる魂のことだ。つまり、現状を打ち砕き、新世界を切り開く勇敢な魂だ。

 我がフランスに、そういう魂を持つ男が現れた。あなたも知っていよう。ナポレオン・ボナパルトだ。

 彼が民衆の目の前に立ったとき、我々は自分の目を疑った。彼はとても普通の人間とは思えなかった。それまでは彼を田舎出の若造と見下していた兵士たちも、彼を前にした途端にひれ伏した。その圧倒的な威力に押されて誰もが彼を仰いだ。彼こそがフランスの未来を救える唯一の男だと。

 しかし私はここでもう一人の天才を知った。まさかウィーンの音楽界でそんな魂を見出せようとは……」

 ここで彼に求められ、私は彼と握手を交わす。さすが軍人だけあって、その手は力強かった。

「ベートーヴェン、あなたはフランス人ではなくドイツ人だが、ナポレオンに劣らぬ高潔な魂の持ち主だ。あなたの音楽を聴けばそれが分かる。今までの宮廷音楽ではない。あなたの音楽は革命だ。

 だから仲間として語り合いたい。このたび我々が起こした革命は、世界の歴史始まって以来の大事業となった。我々はこれをこの世に必要不可欠な変革と考えている。この革命が掲げている理想の前では国も民族も関係ないのだ。血統などもどうでもいい。問題は、人類一人一人はどうあるべきなのか、正しい世界とはどんなものであるべきなのか、であって、それ以外の偏見でしかない仕切りはすべて撤廃(てっぱい)すべきなのだ。

 我々が目指しているのは、人間が、人間であるというただそれだけの理由で自由に気高く生きることができる世界だ。以前から唱えられていた『自由・平等・博愛』という最上の理想をこの世に打ち立てるために、信念を武器にして戦っている。まずすべての階級をなくし、平等な土台の上に向上を促す教育を施し、すべての人々が誰にも気兼ねなく自己を開花して極めることができるように。そしてやがては最上の天国を地上に実現させるのだ」

 それはまさしく、私が密かに願い続けてきた通りの理想だった。彼は続けた。

「文化活動の邪魔をされたと、この町の人々は革命に批判的だが、我々は決して文化を破壊するようなことはしない。救世主ナポレオンの出現によって、この革命は予定より早く終結するだろう。だからもう少しの辛抱だ。信じて、待っていてくれ。私も音楽をこよなく愛している。そうだ、君に紹介したい男がいる」

 と、そこで一人の男を紹介される。その人物は質の良さそうなヴァイオリンを両手で大事そうに抱えていた。

「我がフランスの誇るヴァイオリニスト、ロドルフ・クロイツェルだ」

 ベルナドット将軍の紹介を受けて、彼は私に握手を求めてくる。

「あなたの作品には心から感服しました。もし、少しでもあなたに私の演奏能力を認めていただけるなら、今度ぜひ一度共演させていただきたいのですが……」

 礼儀正しくそう言われ、ベルナドット将軍の情熱に影響されて久々に覇気(はき)が蘇っていた私は愛想良くうなずく。そして将軍に誓った。

「ベルナドット将軍、あなたの情熱に心打たれた今、私は革命を讃えます。二度と愛国歌など書かない。この手で音楽界にも大革命を起こしてみせます」


 モーツァルトに対して、私はもはや彼女に操られる人形ではなく、主導権を手にした。そのことを、今回の演奏会では表していなかった。まだ私は彼女の導いてくれたままの私だった。この演奏会を最後にしようと思っていたのだ。

 今後どこに進むのかを考えていたので、ちょうどよかった。いい話が聞けた。遅ればせながら、私も革命家になる決心がついた。

 珍しく充実した気持ちでお開きを迎えると、サリエリが忙しい中、私の作品を褒めにわざわざ私のところまで来てくれた。彼は特に五重奏曲が面白かったと言い、いつかモーツァルトの作品も聴いてみたいと言っていた。

 そのあと、さっきズメシュカル男爵から紹介された貴族の女が、私にすり寄ってきた。彼女は貴族らしく私がフランスの将軍と一緒のときには近付かず、帰り際を狙って近付いてきたのだ。おかげで先ほどのせっかくの爽快さも消え失せた。

 なんでも、女は、私を自宅に招きたいとか。いつもならそんな話は断るのだが、今回は考えるところがあって、あえてその誘いを承諾した。

【参考文献】


★『ベートーヴェン』(上)(下)

      メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)

★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)

★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)

★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)

★『古代の宇宙論』

    C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)

★『世界創造の神話』

    M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)

★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)

★『ギリシア・ローマ神話事典』

    マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著 

     木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)

★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』

         カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)

★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』

                 〈音楽選書65〉

       ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)

★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)

★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』

       アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)

★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』

        ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)

★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)

★『比類なきモーツァルト』

        ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)

★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)

★『ベートーヴェン大事典』

      バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)

★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)

★『ベートーヴェン全集』(講談社)

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