2-6.シカネーダー
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
一七九七年。
この年は、前年から引き続いて恐怖の年だった。
ギロチン騒動で一時はどうなるかと思われたフランスだったが、フランスの危機と言えばお決まりのパターンで、救世主が現れたのだ。
彼の名はナポレオン・ボナパルト。その勇ましい指揮のもと、フランス軍は進軍し、ヨーロッパ中が戦火に荒らされ始めた。
それは神業としか思えない凄まじさで、昨年の五月にはミラノを占領し、八月にはチロル近郊まで迫ってきたとか。私の故郷のボンなどあっという間に占領され、昔の田園風景は跡形もなくなってしまったという。
ちなみにボンの選帝侯だったマクシミリアン・フランツは、これまで各地を転々として、今はこのウィーンに来ているらしい。今となっては居場所も分からないので、会いに行ってこそいないが。
この町も大変な騒ぎだった。もはや美しさも輝きも失くした町で、ウィーン市民たちは恐怖に慄き、革命思想に替わって今度は愛国主義がオーストリアを支配するようになっていた。作曲家はこぞって祖国を讃える歌を作曲した。ハイドンは『オーストリア皇帝を讃える歌』を、そして私は『我ら大ドイツ民族』を。時代は人の心を翻弄し、弱い者は精神を破壊されていった。
緊急事態の中、千人の学徒、七千三百名の若者が戦争に駆り出されていった。呑気なこの町の住人たちも、もはや勇み立たねば生きていけないほどに追い込まれていた。
聞けば、今年の十月十七日にナポレオン軍との講和条約が結ばれたとかで、とりあえず危機は脱した。だが、これが一時的な静けさであることを誰もが分かっていた。
そんな静けさの中で、我々は年末を迎えていた。
話は遡るが、この年の四月六日には、シュパンツィヒの催した演奏会で、モーツァルトの曲を模範にしたピアノと管弦楽のための五重奏曲を初演した。残念ながら、私的な演奏会だったので、位の高いサリエリは呼べなかった。
それとともに、プラハ旅行の際に作曲した劇唱とアリア『不実なる人よ!』を、初めて自分の手で指揮演奏した。
もし少しでも憐れんでくださるなら
どうか、わたしにさよならと言わないで
かつてあなたの愛だったわたしがこれから何をしようとしているか
最愛の人よ、あなたは知っているはず
このとき、ソプラノを歌ったボン出身の娘がモーツァルトと重なり、思わず私は恋をしてしまった。手酷くふられて我に返ったが、モーツァルトはいつもこんなふうに私の心を捉えて離さない。
分かっている。彼女は私の裏切りを許さない。私は彼女の妻だったコンスタンツェのことも抱きたいと思った。そのことに気付きながらも許してくれたのは、実際には過ちを犯さなかったからだ。だが、プラハの歌手ドゥーシェク夫人とは本当に深い関係にまで至ってしまった。誓って言うが、そこに愛など少しもなかったというのに。
モーツァルトに戻ってきてほしい。彼女の音楽が鳴っているのを耳にするたび、音を残らず掴み取って隠してしまいたくなる。彼女の音楽に感銘を受ける人間に、残らず嫉妬する。だがその一方で、彼女の作品を上演しない劇場など、放火でもして焼き払ってしまいたい。
私は暗い衝動を堪えながら、お気に入りの宿屋「牡牛亭」に入ったが、いっぱいで座れず、ケルントナー通りとノイエルマルクの間にある宿屋「白鳥亭」まで来て、やれやれと腰を下ろした。すると、そこにエマヌエル・シカネーダーがいて、私に話しかけてきた。
「おう、ベートーヴェンじゃないか! 元気か?」
彼は陽気だったが変にやつれていた。
彼は、モーツァルトの傑作オペラ『魔笛』の台本作者である。フライハウス劇場の座長をしていて、劇作家としても作曲家としても演出家としても俳優としても歌手としても活躍している、非常に多才な男だ。
彼とはすでに一回目のウィーン旅行の折にモーツァルト邸で会っていた。
二度目のウィーンで最初に出会ったのは、着いて二週間くらいの頃だったか。私が『魔笛』の百回記念公演を聴きに行ったときのことだ。そのときのことが思い出される。
「ウィーンに来てからいろいろ驚いたことはあったが、一番の驚きは『魔笛』だった」
あのとき、私は初っ端からオペラを褒めちぎった。
にも関わらず彼は、
「ありがとうよ……」
と、ウィーン中の人気をかっさらっている男とは思えぬ陰気さで、溜め息をついた。
「どうしたんだ?」
私が問うと、彼はうなだれて語り出す。
「なあ、教えてくれ。いったい俺が何したっていうんだ? 『魔笛』の音楽はモーツァルトが俺の台本のために書いてくれたもんだ。なのにそれを上演するたびに、モーツァルトの才能で儲けてやがる、だとよ。モーツァルト未亡人、果てはゲーテまでもが、今の俺にとっては敵なんだ!
でもまあ、考えてみりゃ、俺みたいなヘボ作家にあんな幸運があったってこと自体、妬まれても仕方ないことだよな。普通、あんな天才に曲をつけてもらうなんてのは夢のまた夢だろ。その点、俺は偶然、天才の友人だったってだけで、いとも簡単に夢を叶えちまってさ。そりゃ恨まれもするわな。
でもなあ、運にまで因縁つけられちゃたまんねえぜ!」
彼は強がりながらも、ふっと同情を誘う表情になる。
「だが、とにかく今は、自分の幸運に対してもっと遜って、あんな友人を持てたこととか、そういう運命の巡り合わせをこさえてくれた神への感謝を強調しなきゃならないな」
ワインに酔っていたことを勘案しても、その言い方には腹が立った。
「生活の知恵ってやつか。処世術か」
と言うと、彼は大きくうなずいた。
「そうとも。俺はな、こんなことで敵を増やすわけにはいかないんだよ。妙な噂で大衆の反感を買うわけにはいかない。特にこういう仕事はな」
「なるほど。大衆劇場を大きくしようと思えば、媚びるのも仕事のうちと言うわけか」
「大きくしよう、どころじゃないぜ。俺は世界を狙ってる」
「ヘコヘコへつらって世界進出か」
私の言葉はすべて皮肉だった。
「俺だってホントはそんなことしたくねえよ! だがこうなりゃやむを得ねえじゃねえか!」
ついに彼は激しく泣き言を言い出した。
「まんまと天才の餌食にされちまったよ。言っても信じてくれないだろうが、奴の亡霊がどこまでも俺を追ってくるんだ。いっこうに俺を解放してくれないんだ」
「……!」
私はそこで荒々しく席を立って帰ったことを覚えている。彼の信念の無さを嘆いてのことではない。嫉妬だった。このとき、私はウィーンに来てからというもの、初めて人に嫉妬したのだ。だが、そのときはまだウィーンに着いて二週間しか経ってなかったこともあり、モーツァルトは私の前には現れていなかったので、そのくらいの反応で済んだのだった。
それからも、シカネーダーには何度も会った。彼の劇場で上演されるモーツァルト作品は頻繁に聴きに行った。だが、それよりも、彼が私に会いに来る回数の方が多かった。彼はどうしても私にオペラの作曲を依頼したいというのだ。それは彼が自分の劇場のために、私を利用しようと目論んでいたためもあろうが、私がスムーズにオペラ作曲家としてデビューできるようにとの配慮からでもあったかもしれない。私としては珍しく善意的に捉えていた。
だが、彼が持ってくる台本はどれもくだらなかった。あの『魔笛』を書いた台本作者とは到底思えない。
私がもっと高尚な内容のものを、と言うと、彼は、
「初めは、誰にでも受け容れられる作品を書け。おまえが言うような台本じゃ売れない」
と言うのだ。それは間違っている、と私は言い返した。現に『魔笛』は売れているじゃないか、と。そしたら今度は魔法ものばかりを集めてきた。私は頭からそれらを拒否した。そんなことが書きたいのではないからだ。
どうにも、話にならない。私は習作のつもりでと自分に言い聞かせ、それらのくだらない台本に取り組んでみるのだが、やっぱり耐え切れずに投げ出してしまう。この一年間はその繰り返しだった。したがって、これまで完成されたものは当然一つもない。
無理に書こうとすると神経が参ってしまう。下手をすると、命がなくなるかもしれない。大袈裟なようだが、それほどオペラというのは精神力を必要とするジャンルなのだ。命を懸けてもいいと思えるくらいの台本が見つかれば、すぐにでも私は書くだろうが。
とは言え、台本が見つかったとして本気で取り掛かるとなれば、命の心配よりもなお心配なことも出てくる。オペラというのは作曲に長い時間が取られる。長くあろうが短くあろうが、芸術作品というのは全体を通してそこに一つの理念が織り込まれていなければならない。それが、私のように思想の変化が激しい人間は、作品に携わる期間が長いと、どうしても途中で疑念が湧いてしまうのだ。
真理に関して疑問が尽きないのは、不完全な人間にしてみれば当たり前のことだ。だが、一つの作品は、一つのしっかりとした真理への踏み台になっていなければならない。しかも、それは固く揺るぎない真実でなくてはならないのだ。
いくら言葉の助けがあるとはいえ、音楽に魂がこもっていなければオペラとは言えない。だからその台本の思想に疑問が湧いたら、もう駄目だ。もうそのオペラは完成されない。完成されたとしても、真のオペラではない。音楽と台本の言葉との調和が完全に成されてこそ、オペラと言えるのだから。
よほどの確信がなければ持続できない。そこがピアノ・ソナタなどとはまるで違うのだ。
とにかく今までの台本では駄目だった。その苦悩に、私は行き詰まってしまった。
「もう少し、待ってくれないか」
私はシカネーダーにいきなりこう切り出した。
「何をだ?」
「オペラさ」
「ああ、おまえのペースでゆっくりやってくれればいい。おっ、そうだ。オペラで思い出した。新年に『魔笛』の三百回記念公演をやるんだ。よかったら観に来てくれ」
「ああ、もちろん!」
「そうだ、この機会に言っとこう。実はな、『魔笛』の第二部をやろうって計画があるんだ」
「!」
「これからすぐに取りかかって、来年の夏には初演する運びにしたいと思ってる。ベートーヴェン、どうだ? 作曲してみないか?」
「そうだな……だが、その前にちょっと聞きたいことがある」
私は、この話は、モーツァルトを取り戻すいい機会だと考えた。モーツァルトの行方を探るために、彼に一応確かめた。
「以前、あなたは言っていただろう? モーツァルトの亡霊に取り憑かれていると」
「あ、ああ……あれか」
「あれからどうなった?」
「ああ、まったくあいつったらまだ俺から離れやしないんだ。最近はもうそれにも慣れてきたけどな」
「!」
「それがどうか……あ、おい」
私は彼の話を避けて、足早に立ち去った。自分の動揺を見られたくなかったのだ。誰もいない道まで来ると、恨みに恨み抜いたはずの神に呼びかけていた。
神よ、私には何よりも大切なものがある。それが何であるかは、おまえも知っていよう。
しかしその女は浮気者なのだ。裏切った私ばかりが悪いと今までは考えてきたが、どうもそうではないらしい。彼女の方も、あんな遊び人の軽々しい男のところに、ずっと同じ微笑をもって現れていた。
それでもいい。彼女を取り戻したい。彼女が戻ってくれるなら、一緒に「『魔笛』第二部」を作曲したい。私はすべてのオペラの中で『魔笛』を最も愛しているのだ。このオペラを知ってから、ますます彼女を深く愛するようになった。このオペラの中のタミーノとパミーナのように、私たちも新しい殿堂で結ばれたい。これはもう、どうにもならない想いなのだ。
家に帰り着くと、私は自然にピアノを奏でていた。こうして完全に一人でピアノを弾くのは久し振りだ。ひたすら欲望のままに弾いた。彼女を失ったときの音に似ている。あのときも、そこには絶望があった。
私はここウィーンに来たときから変わることなく飾り続けているモーツァルトの肖像画を見つめながらピアノを弾いた。私はその演奏に彼女へのありったけの想いをぶちまけた。
すると、肖像画の方から彼女の香りがしてきた。また私のもとに現れてくれたのだ。私は安心した。しかしそのときの私は今までの私ではなかった。
「アンネル」
私はピアノを弾きながら、肖像画に向かって呼びかけた。アンナ・ゴットリープ・モーツァルト。モーツァルトが私に最初に名乗った名前だ。モーツァルトの妹でも娘でもない。本人だ。アンネル、彼女と会っているときは、いつもそう呼んでいた。
「お遊びはおしまいだ。これからは決して私のもとを離れるな。あなたはあなたのままでそこにいろ」
それは命令だった。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




