表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

2-5.耳疾の兆候

ベートーヴェンは、「自分」であること、ということに

すごくこだわっていた人だったのですが、

モーツァルトという愛する人を失ったことで

その恋心から、自分自身というものを、手放してしまう。


しかし、もうこの小見出しでは、

他の女と肉体関係を持ってしまう。


人の心(すべての人ではないけれど)というものは

本当に、移ろいやすいんだな、と

書いていて、切なくなりました。

ベートーヴェンは、案外、いい加減な人だったのか?

こんな、根が真面目な人でも、こんなことになってしまうのか。

意志も強いのに。


これから、どうなっていくのか。書いている私でさえも、分かりません。

ただ、多くの人のベートーヴェン像を、壊してしまうことに

なるかもしれませんので、読者の方々には

本当に、用心して読んでください、という気持ちで

いっぱいです。

それでも、やっぱり好きに書かせていただきます、としか

今は言えませんが。


何はともあれ

このページに来て下さって

ありがとうございます。


最後まで、一所懸命、書きますね。

    かつてあなたの愛だったわたしが

   これから何をしようとしているか

    最愛の人よ、あなたは知っているはず

 

 一七九六年の八月、私は生まれて初めての大旅行から半年ぶりにウィーンに帰ってきた。

 貴族たちは残らず避暑地に行っていて、町が静かなのはいいが、やはり暑かった。

「暑い!」

 と感じるたびに冷水を浴び過ぎたのが(たた)ったのか、まもなく私は重い病に伏すことになった。しばらく寝込んでいて、やっと起き上がれるようになったかと思うと、もうすでに季節は秋も暮れていた。

「おおい! ベートーヴェン君じゃないか!」

「あ!」

 そんなとき、私はサリエリと再会した。深刻な悩みを抱えてプラーター公園を闇雲にうろつき回っていたときだっただけに、少々うろたえもしたが、彼だからいいかと思い直してお辞儀をした。

 アントニオ・サリエリ。一七八七年の初対面から一年後、今から数えるとちょうど八年前から、ウィーンの宮廷楽長を務めている。彼の音楽は貴族を中心に絶大な人気を得ていた。それは才能というよりは、彼の生まれ持った高貴な性質によるものだろう。

 ウィーンに来てすぐにでも会いたい人だったが、宮廷楽長というのは私にとって複雑な身分だった。宮廷作曲家になるつもりもないし、誤解されたくなかった。これまでも遠くから挨拶くらいはしていたが、近くで話をする機会はあえて作らずにいた。しかし私にとっての彼は初対面のときとまるで変わっていない。彼は私にとって特別な存在の人だった。彼の前では、普段は秘密の多過ぎる私でも心から安らげた。

 彼は詮索してこない。かと言って、どうでもいいというふうでもない。深刻ではない。かと言って軽薄でもない。万事に(わた)って、暑過ぎもせず寒過ぎもしない。ちょうどよい人物だった。それでいて偽善者でもないのだ。

 だからだろう。宮廷楽長という高い地位を獲得していながら、誰からも慕われていた。彼を嫌う人間など一人もいなかった。

 私は幸運なことに、この日はそのまま彼の自宅に招かれ、彼と昼食をともにすることができた。

「モーツァルトが死んでもう五年か」

 彼は会話の途中、少しの沈黙ののち、ふとそう呟いた。

「君に初めて会った日からは九年になるな」

「ええ」

「君は全く変わっていないね。あのときのままの姿、あのときのままの顔、あのときのままの目だ」

 彼は感じ良く言う。見えているものとは、まるで違ってしまっている私だったが、彼は気付かないのだった。それは(かえ)って安らぎを覚えさせた。

「サリエリさんも、まるっきり変わってませんよ。時代はこんなに変わったのに、相変わらず自然体で、こうあるべきという見本のような人だ」

 私はお世辞ではなくそう言った。

「ははは、よしてくれたまえ。本気にするよ」

「本当のことです。そうだ。サリエリさん、私の先生になってくれませんか?」

「は?」

 サリエリは驚いていた。私がハイドンの弟子だというのはウィーンでは有名な話だからだ。

「実はハイドン氏の気まぐれに振り回されて、今、大変なんです。彼は口先では私にオペラを書かすと言うんですが、実際は簡単な声楽すらもまともに教えてくれない」

「ふむ、それはいかんな」

「サリエリさんは何作もオペラを書いてるオペラ界の巨匠だ。ハイドンなんかに習うよりもずっといい」

「しかし、ハイドンに知られたら、君の立場がまずいことになるんじゃないか?」

「構いません。もう何人も他の先生に習ったんです。今も違う先生に習っています」

「そうか。まあ、私にできることがあるなら、お安いご用だが」

「本当に? やった! これで大助かりだ」

 私は嬉しさでいっぱいになった。彼の才能が目的なのではもちろんない。だが、私は彼のそばに少しでも長くいたかった。ハイドンよりもサリエリの方がよっぽど快く私と過ごしてくれる。


 ハイドンとは相変わらず衝突しっぱなしだった。と言うより、彼と接触するたびにロクなことがない。もう出会い頭から双方が闘争心むき出しで、貴族社会で鍛えられた彼の趣味に付き合わされて皮肉合戦になるのがオチだった。もう私が他の教師についていることも知っているだろうに、そのことについても暗にしか言ってこない。だが、その仕返しに私に何も教えないのだろう。実に性格の曲がった人間だ。

 とは言え、才能はある音楽家なので、私は何度も思い直して彼と話し合う機会を持とうとした。だが、私が何か主張すると、彼は決まってこう言うのだ。

「馬鹿でも困るが、偏り過ぎというのも困りものだね」

 これを聞いた瞬間に思った。我々二人はどんなに話し合っても分かり合えることはあるまいと。彼は私の人格をそもそも認めていないのだ。

 その証拠に、彼は私がちょっとでも古い形式を無視した音楽を弾くと、決まって顔をしかめる。そしてこう言うのだ。

「君は、たくさんの頭と、たくさんの心と、たくさんの魂を持った怪獣みたいな感じだね」

 どう解釈しても、それは褒め言葉ではない。

「真面目に言ってください!」

「もちろん真面目だよ。私が聴いたところ、君の作品にはいつも何かこう、奇怪というか、思いがけないもの、普通でないものを感じる。それが美しくて驚くべきものだというのも確かだが、あちこちに奇妙なもの、暗いものがある」

「いい加減にしてください! 怒りますよ」

「いや、それにしても、いつからそんなふうになったんだろうね。ボンで初めて君の演奏を聴いたときには、それほどではなかったんだがな」

 それはまだモーツァルトとの合作が始まっていなかったときだろう! モーツァルトだっていつまでもあなたの籠の中の鳥じゃないんだ。モーツァルトは私との魂の話し合いの中で、やっとこんな世界を望むようになった。そのことは誰も知らない。モーツァルトは生前のしがらみから、今は自由になれた。彼女はもっと優れたものに変容した。ハイドンごときに分かるようなものではなくなったのだ。

「あなたは何も分かっていない」

 私は、長い言葉を呑み込んで、ただその一言だけを口に出した。

「いや、分かるよ。私なりにね。こうした君の音楽が君自身であることも」

「私自身?」

「作品には必ず作曲家自身の性質が表れる。だから君も、君の音楽のように、どこか陰気で異常なのだ」

「……」

 こんな先入観を抱いた人間に何かを語って聞かせたところでなんにもならない。彼が私についての考え方を根本的に変えない限りは、これ以上関わっても無駄だ。無意味にはやし立てる貴族たちの方がまだマシだ。


 そんな苛立ちに神経を痛めていたところに、リヒノフスキーがやってきた。前述の通り、私はリヒノフスキーの館でも痛い目に()わされて、もうウンザリだと、ウィーンを出ていく準備をしていた。彼は慌てて私をなだめ、気分転換に旅行でもしてはどうかと言ってきた。費用を工面してくれるならということで、私はうなずいた。それで、一七九六年に入ってすぐにプラハに赴いたのだった。

 プラハ滞在中の二月二十日、「黄金の一角館」というプラハで最も大きな旅館に滞在することになり、そこで、去年、ボンからウィーンに呼び寄せた弟二人のうち、下の弟ニコラウスの方に手紙を出した。新しいウィーンという町でまだ慣れずにあくせくしているであろう彼を安心させるために、プラハで成功している兄がいるという事実を伝えたかった。だが、こんな成功は一時的なものでしかないので、彼自身の収入を得る方法を早く見付けなさい、と書き添えておいた。

 リヒノフスキーは、プラハに着いてまもなく気まぐれに帰りたがったが、私はもっと旅を続けたい気分だったので、彼とはこの旅館で別れることにした。……ということになっているが、実は彼は最初からそのつもりだったのだ。というのも、彼は女なしでは生きていけないと断言してはばからないほどの女好きだったから。彼の夫人は手術で乳房を両方とも切り取られていたということもあり、性に閉鎖的であったため、彼はこうして旅をしながら情事を繰り返さずにはいられないのだそうだ。彼が言うには、こうでもしなければ嫉妬深い夫人の目を逃れられないというのであった。

 私が抗議の眼差しで彼を睨むと、

「これは病気なんだ! 憐れんでくれ!」

 と哀願してきた。病気と言われれば確かにそのようにも見えて、今は互いに先を急いでいるだけに無理強いもできず、夫人にぎりぎりの金しか渡されていない彼に、仕方なく金も貸してやった。費用を負担してくれるという約束はどうなったのか? 逆に金を取られてしまった。

「次に会うときには病気を治しておいてくれ」

 と私が言うと、彼は深々と頭を下げてきた。

「すまん。本当に申し訳ない。もちろん、ウィーンに帰ってきてくれたら、かかった旅費の二倍払う」

 とここまで言うと、彼は顔を上げて、訴えるように私を見、その太い指を二本立てた。

「だから、間違っても旅した土地に留まらないでくれ。いくら気に入ってもだ。特に宮仕えにだけは絶対になるな。取り返しがつかなくなる」

  と彼は立場が悪いのに傲慢だった。私にかなりの執着心を燃やしているのは分かるが、こういうところは本当に苦手だ。金のしがらみさえなければ、とっとと消え失せろと言いたいくらいだった。


 とにかく彼のその風変わりな病気のおかげで、私は自由になることができた。

「さあ、ベートーヴェンさん、こちらへ」

 しかし、次の関わりが待っていた。プラハの高名な歌手ヨゼファ・ドゥーシェクだ。彼女は四十代だが若作りで、なかなかの美人でもあった。リヒノフスキーの息がかかった監視役といったところか。

 しかし彼女はとても親切で、私を、プラハ近郊スミーホフにある彼女の別荘に招いてくれた。

 そこには彼女の夫もいた。彼は作曲家で、夫人よりはかなり高齢だったが、礼儀正しく清らかな人だった。しかしなぜだろう。私を見た途端、彼は持っていたコーヒーカップを落としたのだ。

「何か?」

 彼が私を凝視しているので、私はそう問うた。

「い、いや、これは失礼。昔知り合いだった人があなたと重なったもので……」

 彼が私に何を見たかはすぐに分かった。私の後ろにモーツァルトの姿を見たのだ。だとすれば、彼も彼女に魅入られていたのだろうか。

 晩餐の席で、夫人がモーツァルトの思い出を語る。

「わたしはモーツァルト先生ほど才能のある音楽家を他に知りません。なぜ彼はプラハに移ってこなかったのでしょう。この町でなら、彼は幸せになれたはずです。

 彼の死を聞いたときには本当に信じられない気持ちでした。彼の音楽はそれほどわたしの喜びのすべてでした。彼がわたしのような者のためにいろいろな音楽を遺してくれていなかったら、わたしは今頃、悲しみに打ちひしがれていたでしょう」

 私も彼女の夫も、黙ってそれを聞いていた。

「でも、あなたの即興演奏は、モーツァルト先生以来、初めてわたしを驚かせました。もう二度とこんな感動は味わえないと思っていたのに。あなたはモーツァルトの再来と呼ばれるに相応しい方です」

「いや、私はモーツァルトの力で動いているだけです。あなたを感動させたのは、モーツァルトであって、私ではない」

「え?」

 夫人は問い返したが、私にはモーツァルトの亡霊の話までする気はなかった。


 夕食のあと、夫が早々と寝室に入ると、夫人は私に旅の計画を持ちかけてきた。

 行き先はライプツィヒ。ヨハン・ゼバスティアン・バッハゆかりの地だ。

「あの町で、わたしと一緒にコンサートを開きましょう。あなたにとっても利益になると思います」

 と言って、それに当たってはと、その演奏会で夫人が歌うアリアを作曲してくれるように依頼してきた。

「私の声の質はもうお分かりですね?」

「え? 質?」

 私はオタついた。そんなことは考えたこともなかった。

「一応、これが、モーツァルト先生がわたしのために作曲してくださった歌です」

 と、彼女は二つの総譜を持ち出してきて私に見せた。

「これは、先生が『ドン・ジョヴァンニ』を初演するためにプラハに来られたときのものです」

「!」

『ドン・ジョヴァンニ』の初演というと、一七八七年の秋だ! 私がモーツァルトを訪ねたすぐあとの作品ということになる。

 私は夢中で五線譜を目で追った。それはヨンメッリの祝典劇『なだめられたチェレーレ』の詩によるレチタティーヴォとアリアだった。


   いとしい人よ、さようなら

   ふたりは幸福になれない定めなのだ

   結ばれる前に解ける

   この純潔な結び目は、ふたりの心を

   ひとつにつないでいたものだった


 美しいシチリア王女を、恋しさのあまり略奪してしまったイベリア王は死罪に処されたが、後に国外追放に処罰が変えられる。しかし国を去らねばならない王は、せっかく強引に手に入れた王女との別れを嘆いて絶望を歌う。


   留まれ、我が心よ。苦い死が、

   私をお前から……ああ、離すまで……

   留まってあの方を世話し

   あの方をお慰めするのだ

 

 それは三十一歳の女性が書いたものとは到底思えないほどの劇的効果を持っていた。

「素晴らしいでしょう」

 とドゥーシェク夫人は言う。

「ええ」

 私は今更だが、また恍惚(こうこつ)としてしまった。

「こういう感じで、作曲していただけないかしら」

 夫人が私を覗き込むので、私は急ぎ正気に戻った。

「分かりました。まず詩を探さなくては」

 と私が言うと、急に向こうの部屋からすごい地響きが聞こえてくる。

「な、何かしら」

 夫人は怯える。夫君は起きてこない。それで仕方なく私が音のした部屋を覗くと、本棚から本がなだれ落ちていた。

「まあ、こんなこと、これまで一度もなかったのに……」

 夫人はそれらの本を一冊一冊拾い上げて棚に戻す。私もそれを手伝った。そのとき、上向きに開かれていた本の、詩人メタスタージオの詩がやけに気になった。

 

   ああ、不実な人よ!不実な心よ!

    残酷な裏切り者よ!

   あなたは私から去ってしまうの?

   ここで最後の別れを告げるというの?


 え? 私は思わず我が目を疑った。モーツァルトの意思が伝わってきた。彼女は不安に打ち震えて、この詩を私に見せたのだ。

 

   もし公正な裁きが行われるなら

   天はあなたを罰してくださるはず

   わたしは常にあなたのそばに

   亡霊のようにつきまとっている

   それがわたしの復讐なのです!


「……」

 なぜこのような詩を? 数々の霊現象も、今や私はなんのためらいもなく受け容れている。それが彼女の愛の形だと信じて疑っていないからだ。……それをあなたは、復讐だというのか?

 

    すでに稲妻が光を放ち

    あなたを取り巻いているのが見える

ああ! 待って! 復讐の神々よ!

    彼の代わりにわたしを打って!

たとえ彼が変わらなくても構いません

  わたしは彼のために生きた

  今は彼のために死にたいのです!

 

「その詩になさいますか?」

 と夫人が声をかけてくる。私は気持ちをひどく乱されていたが、口元を押さえたままうなずいた。

 早速そこにあったピアノを借りて作曲に取り組み始める。しかし、その詩を見ていると、なぜか音楽ではなく詩が浮かんできて、五線譜にその詩を書き付けた。

 

   もし少しでも憐れんでくださるなら

   どうか、わたしにさよならと言わないで

   かつてあなたの愛だったわたしが

   これから何をしようとしているか

   最愛の人よ、あなたは知っているはず

   わたしは悲しみの中に死ぬでしょう

   ああ、なんと残酷な!

   あなたはわたしの死を望むのですか?

   わたしを憐れんではくれないのですか?

   なぜあなたを愛してやまない者に

   このようなひどい報いを?

   言ってください、このような苦しみも

   同情に値しないのですか?

 

「なるほど……」

 その詩を読んで納得した。彼女は私の裏切りを案じているのだ。それをこの機に乗じて私に訴えてきたのだ。

 それなら、その返事と思って作曲しよう。

 メタスタージオ作詞の第一曲目は劇唱にしようか、レチタティーヴォにしようか。とりあえず劇唱にしようとしていったんはその線で書いたが、モーツァルトが怒って鉛筆を折ってきたので、変更してレチタティーヴォにした。そのように、うるさい助言者つきで、たった一晩で作曲し終え、それをドゥーシェク夫人に見せると、彼女はその曲を非常に気に入ったようだった。

 二か月間、ドゥーシェク夫人と彼女の音楽仲間をこの曲やその他の曲で楽しませたあと、このアリアを演奏する目的で、私は夫人とともに新たな旅に出発した。


 四月二十三日、ドレスデンへ着き、そこで一週間あまりを過ごした。その間、ザクセン選帝侯をはじめとする王侯貴族連中を得意の即興演奏で楽しませ、名誉とかいうものをとりあえず手に入れることになった。

 しかし、私が手に入れたものはそれだけではなかったのだ。モーツァルトの予感は当たっていた。私はこの旅で結果として、モーツァルトを裏切ることになってしまった。

 私はドゥーシェク夫人と結ばれたのだ。彼女は私を誘ってきた。私は最初こそ拒絶していたが、数日後には参ってしまった。彼女はこうしたことに慣れているのか、とても巧妙だった。私たちは毎夜、意味のない肉体の遊びを繰り返した。

 五月一日、ライプツィヒに到着してからも、その遊びは続けられた。もちろんここには例のアリアをドゥーシェク夫人に歌わせに来たわけであって、それを実現させようと頑張ったが、なかなかうまくいかなかった。どこの支配人にもオーケストラにも、もう少し待てば場所が空く、と同じことを言われ、仕方なしに私は日中は聖トーマス教会のオルガンを弾いてそこの住人たちを喜ばせた。大バッハの曲ならだいたい暗譜や初見で弾けたからできたことだ。

 しかし、そんな生活にもいい加減疲れてきて、

「ベルリンに行きましょう」

 と私はある日、いきなりドゥーシェク夫人に切り出した。

「まあ、どうして? もう少し待っても……」

「もう少し、もう少しで、もう三週間も過ぎてしまった。どうせ当てになんかなりませんよ。こんなのは時間の無駄だ」

「でも、ベルリンではもっとひどい状況になるかもしれませんわ」

「行ってみなきゃ分かりませんよ。私は行きます」

 彼女は悩んでいたようだったが、やっぱりベルリンはあまり馴染みがないから不安だと言ってきた。彼女は一人でライプツィヒに残り、場所が空くのを待って、単独でコンサートを開くことにするということだった。

 それで五月下旬、私たちはそこで別れた。これで愛人生活ともおさらばだ。


 私は一人気ままにベルリンへと向かった。

 一人だからもう性欲処理はできない。ドゥーシェク夫人との関係のために、モーツァルトの霊もすっかり離れていってしまっていた。久々に本当の独りだ。これから先は、ボン時代の自分を思い出してやっていくしかない。そこまでしか、私は、確立されかけたものすら何一つとして持ち合わせていないのだ。

 六月に入る頃、私はやっとベルリンに入った。行ってみると、案外ベルリンも悪くなかった。それどころかリヒノフスキーが持たせてくれた数々の紹介状というのが案外効いて、ベルリン到着後まもなくして私は宮廷に招かれた。

 サンスーシー宮殿において、プロイセン国王フリードリヒ・ヴェルヘルムⅡ世の御前で、私はピアノを弾いた。モーツァルトの影はもうすでに消えていたが、それでも諦めず、いつものように指輪をはめていた。しかし久し振りに自分一人だけの力量で奏でた演奏は、やはりただのボン時代のノスタルジアでしかなかった。

 落ち込みがちに弾き終わると、国王は目を輝かせて私を見た。そして言った。

「君の演奏には、何かこう、異様な引力を感じる。ピアノがこのように恐ろしい楽器とはな。まるで愛と憎しみのような音で鳴る。こんな演奏は初めて聴いた」

 どこかハイドンの批評を思わせるような感想だったのに驚いた。

 これまでの、人々を熱狂させた演奏、過去に私が彼女に求めた作曲を、今、一人きりになった私がしているのか? ずっとモーツァルトと私との共同作業だったはずだ。それなのに、彼女が離れてしまっても、まだ私のものとして残っているというのか。

 それが本当だとしたら、この指輪のおかげだろうか? 彼女と交じり合っていた間に見つけたすべての価値を、彼女は私の魂に残してくれていた?

「ああ……」

 彼女の愛はどこまでいっても本物で、捧げることに尽きている。そのことに気付いて、私は彼女に心から感謝し、彼女の指輪を両手で強く握り締めた。

 

 チェロ好きなプロイセン国王は、私の作曲したチェロ・ソナタを聴きたがり、有名なチェリストと共演させた。その曲は、正直それほど自信作というわけでもなかったが、国王はこの演奏にも充分過ぎるほど感動してくれて、

「ここに留まってくれぬか」

 とまで言ってきた。

 リヒノフスキーの言うなりになるのも(しゃく)だったが、彼女のいない今、私にはウィーンという町が必要だった。この町には留まらない。悩むまでもなくその頼みを断ると、国王は記念にと、ルイ金貨の詰まった金製の嗅ぎタバコ入れをくれた。それは私が生まれてこのかた見たこともないような立派なものだった。

 すっかり気を良くした私は、六月二十一日のジングアカデミーにも顔を出した。この地の有名音楽家の作品を知るためと、名演奏家たちの演奏を聴くためだ。最後にピアノ演奏を頼まれたので、彼らの作品から主題を取ってその場で即興演奏してみせた。すると聴衆は涙を流しながら私の方に押し寄せてきた……。

 

「君は、もう『フィガロの結婚』を聴いたかね?」

「!」

 サリエリの問いかけで、急に現実に引き戻される。そうだ。私はサリエリに昼食に招かれていたのだった。

「あ、はい、聴きました。ボンで」

「あれはすごいオペラだっただろう?」

「すごいというか……」

 音楽は良かったが、台本が駄目だった。というのが正直な私の感想だ。ヴィオラの席で聴いていて、音楽には驚愕しながら、モーツァルトはいつまでこんなふうに遊んでいるのかと溜め息をもらしたものだ。

「私は、以前話したときには言わなかったが、実は、『フィガロの結婚』をすべてのオペラの中で一番愛しているのだ」

 とサリエリは言った。

「私は、音楽としてはすごいものだと思いますが、オペラとしてはちょっと。台本に満足できないんです」

「革命的な台本は苦手かね?」

「え? いえ」

「あの時代にあれほど危険な題材を選ぶとはな。まったく、どこが女なんだか分からないよ」

「! サリエリさん、そのことは誰にも言っていませんか?」

「は? ああ、モーツァルトが女だってことかね? 誰にも言ってないよ。と言うか、言えないよ」

 とサリエリは軽く笑う。

「絶対に口外しないで、というとても大事な一言を言い忘れていたので、それが少し気にかかっていたんです」

「大丈夫だよ。しかし女にこんなオペラを書かれちゃ、男としては形なしだな」

「サリエリさん、私は必ず近いうちに大オペラを書きますよ。本当は彼女に書いてもらいたかったものを、いや、彼女が書けたはずのものを。誤解なく、もっとはっきりした形でこの世に伝えたいんだ」

「分かったよ。そのつもりで、暇を見ては声楽を教えよう。……ところで、今、君は誰についているんだ?」

「エマヌエル・フェルスター先生に」

「ほう、弦楽四重奏曲を習っているのかね」

「今やっているのは五重奏曲です。スヴィーテン男爵にモーツァルトの自筆譜の写しを見せてもらって、私ならどうするだろうって」

「それはまた難しいジャンルに挑戦しているね」

「ただの五重奏曲じゃないんです。とても変わった編成で。ピアノ、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン」

「聴き覚えがないな、初期の作品かね?」

「初期とは思えない内容なんです。とても深い(おもむき)(はら)む音楽で、到達しがたい世界で。彼女の愛が込められているのがその一音符一音符にひしひしと感じられる」

「聴いてみたいな。モーツァルトのも、君のも、両方とも」

「出来上がったらぜひ聴いてください。モーツァルトのと比べられてしまうと(かな)いっこないけど……」

「そんなに自分を卑下しなくてもいいじゃないか。もう君は充分に立派な音楽家なのだから」

 おそらくは親切心で発せられた言葉だったが、私にはその言葉がズッシリと堪えた。

「いいえ、サリエリさん」

 私は打ち明けた。

「正直に言うと、私はまだあれから少しも立ち直っていないんですよ。あまりにも傷が深かったから。ハハッ、あなたはあのときの事情を知っているから、気兼ねなく話せる。

 本当に何もかもが消えてしまった。もう駄目だと思った。何もかも、世界も自分も神も嫌になって……もう……」

「ベートーヴェン君」

「だってあの人が死ぬだなんて信じられますか」

 そう言いながら、また涙があふれていた。

「彼女は『アマデウス』というその名の通り、神に愛され過ぎたんだろう。神も美しいものが好きなのさ。ただそれだけのことだ。そうやたらと深刻に考え過ぎるのは良くない。自分を滅ぼすような思考に入りかけたら、君も冗談の一つでも言ってみるといい」

 彼は優しく私の肩を叩く。私は彼にすがり付く代わりに、ふと思い付いてこんなことを申し出た。

「サリエリ先生、あなたにヴァイオリン・ソナタを捧げさせてください。一緒に演奏してほしいんだ」

「ああ、いいとも。だが私は楽器の演奏はうまくないよ」

 と笑う。サリエリさん、あなたは知らない。私は彼の館を出て、自分の身を抱き締めた。

 実は、あまりの恐ろしさに、誰にも話せない悩みがあるのだ。誰にも、サリエリさん、あなたにさえも。

 それでも、サリエリさん、今日、私があなたに会えて良かったと思うのは、ちょうどこのことについて悲嘆にくれていたからだ。あなたが私に気が付いて声をかけてくれたあのとき、私はあまりに重大なその出来事に促されて、それを悩んだあげく、公園をうろつき回っていたのだ。

 それは私にとって他のどんなことよりも、言うならば、死よりも恐るべき瞬間だった。

 一時的なこととはいえ、耳が聞こえなくなったのだ。

 あれはしょっちゅう行っているフライハウス劇場で『魔笛』を聴いていたときのことだ。ちょうど第二幕の水の試練にタミーノとパミーノが向かう場面で、タミーノの吹くフルートの音が、急に聴こえなくなったのだ。私は慌てて小指を耳に突っ込んだ。モーツァルトの指輪が落ちたので、すぐに指を抜いて足元を捜したが、その間も途切れ途切れにしかフルートが聴こえてこない。それからはもうオペラどころではなくなり、急いで家に帰ったが、ピーンという耳鳴りが止まらない状態だった。

 しばらくすると痛みも出てきて、その耳鳴りと痛みは明くる日も続いた。私はいつも日課にしているピアノの練習もできずに寝台の上でうずくまっていた。こんなときに限って訪問客がやたらと多かったが、全部断って一日中そうしていた。

 だが、その明くる日も、耳鳴りはやまず、真昼になっても、外は動いているはずなのに、なんの音も聞こえなかった。そして今日は、今朝方なんとなく耳鳴りはしていたが、聞こえないことはなかった、というわけだ。

 私はそうなった原因をいろいろと考えた。敵の仕業か? 競演で打ち負かした者たちのうちの誰かが、夜中に忍び込んで耳に何か入れでもしたのか。心当たりは数え切れない。そのうちの誰かなど分からない。

 だが、どんなことがあったにしても、そうさせたのは私だ。気付かぬままに人を傷つけてきた過去の報いだ。この世では真実の姿であろうとすれば人を傷つけることになる。傷つけまいと語ることは偽りでしかない。私が真実に生きてきたための報復というのなら、受け止める他ない。

 私だったらそんなことはしないだろう。しかし、そうする者は存在するのだ。そして私をこんな目に()わせる。それもまた、神のおぼしめしというやつだ。

『モーツァルトは神に愛され過ぎたからな……』

 サリエリの言葉が思い出される。

 彼女は確かにそうだったのだろう。だが、私は違う。昔から神になんざ好かれた覚えはない。大切だと感じたものを片っ端から奪われて、今度は音が奪われるかもしれない。そうなれば、これまで私を闇雲に讃えていた者たちは一人残らず私のもとから去っていくだろう。

 むしろ、その方がいいのかもしれない。私は何よりも真実を愛する人間だ。私の何かよく分からないようなものを勝手に解釈して面白がり、真の私自身を求めていない人間など、最初からいないに等しい。一掃するいいチャンスだ。彼らは音楽を快楽の道具にしているだけだ。音楽を娼婦にし、私はさしずめその売春宿の店主。馬鹿げている。

 耳など失った方が、より本来の姿に戻れるのかもしれない。

 だが、聞こえなくなったら、もうモーツァルトの音楽も聴くことはできないのだ。彼女がこの世にいない今、彼女との触れ合いの最も大きな門が閉ざされることになる。

 神よ、おまえは私が反逆したことへの報復として、ついにここまでのことをするのか。私から彼女を完全に取り上げようというのか。彼女が私の裏切りによって行方を(くら)ました今こそとばかりに権勢を振るってくるおまえは……まるで悪魔だ。

 ここまでのことをしてまで、自分を絶対権力者と認めよと?

 だが、どんなにひどい仕打ちを受けたとしても、私の答えは決まっている。私はおまえを認めないし、モーツァルトを失うこともない。

 私の心からの望みは一つしかない。それは生死を越えてモーツァルトと合流することだ。

 彼女は光だ。光は私を溶かした。彼女と分かり合うためには言葉も肉体も要りはしない。ただそっと近付くだけでいい。あとは否応なしに取り込まれる。一瞬で終わりだ、何も残らない。骨のカケラさえも。神々しくきらめく光だけだ。彼女と私だけだ。

 神よ、聞くがいい。彼女を永遠に失うくらいなら、私はいつでも死ねるのだ。

 私から音を奪うというのなら、いっそ殺すがいい。こうして彼女に惹かれ続けている私を。

 光を失うより、光に抱かれ、光になりたい。

【参考文献】


★『ベートーヴェン』(上)(下)

      メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)

★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)

★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)

★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)

★『古代の宇宙論』

    C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)

★『世界創造の神話』

    M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)

★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)

★『ギリシア・ローマ神話事典』

    マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著 

     木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)

★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』

         カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)

★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』

                 〈音楽選書65〉

       ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)

★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)

★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』

       アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)

★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』

        ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)

★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)

★『比類なきモーツァルト』

        ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)

★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)

★『ベートーヴェン大事典』

      バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)

★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)

★『ベートーヴェン全集』(講談社)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ