2-3.誘惑
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
演奏会場は、幻想的な空気に包まれていた。
「今日はいい香りがしますね」
と支配人が私に声をかけてくる。
「そうですか?」
私は知らない振りをして答えたが、私には分かっていた。モーツァルトがここに来ている。おそらくこのいい香りは祝福の香りだ。彼女は霊になってもなお、私のデビューをこうして祝ってくれている。
私の左手の小指には彼女のエメラルドの指輪が光っていた。サイズは少々きつめだったが、無理矢理にはめた。彼女の場合は親指にでもはめていたのだろう。小さな手をしている人だったから。
さて、まず、『皇帝ティトゥスの慈悲』の第一幕が上演された。これは彼女の最後のオペラ作品である『魔笛』と並行して作曲されたオペラだという。私はこの日それを初めて聴いた。正直な感想は、『ドン・ジョヴァンニ』や『魔笛』ほどすごい音楽ではなかった、ということ。なぜだろう。さすがの彼女も、オペラを二つ並行して書くことはできなかったということか。
しかし、コンスタンツェはこのオペラばかりを上演させているという。モーツァルトの力量はこんなものではないというのに。
オペラは意外と早めに幕間に入り、支配人が私を呼びに来たので、私は出て行ってピアノにつく。
オーケストラの音が流れていく。
「きゃ!」
私がピアノを奏で出してすぐ、観客席から昨日と同じような声が上がった。またピアノの弦が切れたのだ。
もちろん私はそんなことには構わず弾き続けた。会場のざわめきもいつしか消えた。私は確かな誘導者を感じていた。私は元々はそういうことを好まない人間だったが、変わってしまった。これでいいのだ。この世と比べたらずっと確かな支えだ。
モーツァルトよ。そんなに求めてくれるのなら、なぜ逝ってしまった? あなたをもう二度と抱き締められない。なぜあのときもっと抱いておかなかったのだろう。あんなに求めていた人を、私に力が無いばかりに手放してしまった。もう取り返しがつかない。
目を閉じて、あなたの姿を思い描くと、あなたは思い通りに枠の中に入ってくれる。どんなに価値を落としても、どんなに聖人化しても、あなたは愛されたいばかりにその通りにする。
あの時、最後の瞬間に感じた遠さは、もうどこにもない。今やあなたと私とは一体だ。
こうして私が生きている限り、あなたは、私の中で生まれ、消えてゆく。何度でも、私を通して生きてくれ。私の体はあなたのものだ。本心がどんなに悲鳴をあげようと、今にもくずおれそうになろうとも、私はあなたのために弾き続ける。
喜びもありながら、その実、辛くてならない。あなたはこの世界では幻影に過ぎないのだ。いっそあなたのところへ逝ってしまいたい。本当に儚いのはこの世界なのだとあなたはしきりに言っていた。今の私にはその意味が分かる。
弾き終えたときの拍手の大きさとは関係なく、大成功と言えた。
「あなたは本当に人間ですか」
舞台の袖に引っ込んだ私に、劇場関係者は真面目に言ってくる。
「あなたが演奏中に悪魔を呼び寄せているのを見ました。あれはなんなんです?」
などとのたまう。私は聞いていられなくなり、
「そんなことより……」
と彼に言葉を返した。
「ピアノの弦ですよ! ああもしょっちゅう切れたんじゃたまらない。なんて脆いピアノだ! もっと頑丈に作れないのか」
「え? し、しかしこのピアノは一流の……」
「何が一流だ! そいつは詐欺師だ! ハープとピアノの区別もつかないような奴に楽器を作らせるな!」
と怒鳴って、さっさと劇場を出ようとしたが、今度は客席にいた連中がちょっかいを出してきた。彼らは皆、滝のように涙を流していた。
「ベートーヴェンさん! 今度うちのサロンへぜひ!」
などと、数十人が一斉に叫び出す。
「通してくれ!」
と私が言っても無駄だった。彼らはまるで競争でもするかのように私のそばにすり寄ってくる。
「いい加減にしろ!」
もみくちゃにしてくる奴らを乱暴に振り払い、ほうほうのていで逃げ出した私を助けてくれたのは、コンスタンツェの馬車だった。彼女は手をさしのべて私を中に引き込み、素早く馬車を出してくれた。
「いいんですか? 次の幕は?」
「わたしがいなくても上演に差し支えはありませんわ。それよりも、あなたとお話がしたいのです」
彼女はそう言いながら、まっすぐ前を向いたままだった。しばらく、そんな彼女の横顔を眺めていると、
「素晴らしい演奏でしたわ」
と、やっとこっちを向いてくれた。
「そうですか?」
しかし、コンスタンツェには悪いが、この手の台詞はもう聞き飽きていた。それを察したのか、彼女は慌ててこう付け加える。
「お世辞じゃありませんわ。昨日は演奏のあと控え室にわたしといらしたからご存じないでしょうけど、昨日も大騒ぎだったんですってよ。あなたはもう他の追随を許さないウィーンの名演奏家ですわ」
「彼らに選ばれても決して名演奏家などとは言えませんよ。何が真実かなんてまるで興味のない連中だ。馬鹿馬鹿しい祭り上げはごめんだ」
ウィーン人の批評を並べ立てているうちに、彼女の住む家に着いた。彼女は私を中に招き入れたが、モーツァルトと一緒に住んでいたときのような豪華絢爛な住まいでは当然ない。質素で、しかし女性らしい趣味のいい家だった。
家の中には、モーツァルトの子どもだと言っていたカールは、学校にでも行っているのか、いなかったが、まだ三つか四つくらいの小さな男の子がいた。その子を見て、私は驚いた。あまりにもモーツァルトにそっくりだったからだ。
「この子は、モーツァルトの子ですね?」
私は彼女に確認した。
「……ええ」
彼女はそれにはあまり答えたくなさそうだった。
「あの人が遺した子どもは、二人か?」
私が問うと、彼女はそれに答えずに、そらしたままの目を少しチラつかせた。
「この子はまだ小さいが、カールには特別な音楽教育を? あれから八年が経ってる。カールはもういい歳頃だろう」
「……いいの、あの子は」
「どうして!」
私は思わず叫んだが、そのときふと分かった。彼女は以前、カールはモーツァルトの産んだ子だと言ったが、それは嘘だったのだ。カールはモーツァルトの子ではない。そういえば、あの人に似たところはどこもなかった。カールは、コンスタンツェと不倫相手との子なのだ。
なぜ、あのときあんな嘘をついたのか。と問いつめようとして、やめた。おそらく彼女の心は、あのとき切羽詰まったなんらかの想いを抱えていたのだ。嘘をつかなくては切り抜けられないほど、それは張りつめたものだった。それによって、私の気持ちに何か決定的な変化があったならともかく、モーツァルトの不貞は一つや二つに留まらなかった。そもそもモーツァルトはあの時、他の男の子どもを身籠もっていたのだ。その子は結局助からなかったが、そんなことは問題じゃない。私は当時の傷を思い出し、思わず目を伏せた。
コンスタンツェがなんのためにこの家に私を呼び、この子を見せたのか。そのことについても、あのときの嘘と同じ匂いがした。だが、私はコンスタンツェに対しては、モーツァルトに対するような許しがたい裏切りや怒りなど、さらさら湧かなかった。
「彼女は好きにやっていたんでしょうね。誰彼構わず関係を持つ癖はずっと続いていたんだろう」
私が吐き捨てるように言うと、
「どうか分かりませんけど、でも……」
コンスタンツェはまだ続けて何か言いたげだったが、
「モーツァルトは本当にあなたを愛していたんです」
とだけ言った。
「本当に最後の最後まで、あなたのことばかりを……」
こうしてモーツァルトの子をわざわざ見せておきながら、その穴埋めをするように、コンスタンツェはそんな言葉を振り絞る。私は聞いているのが辛くなった。
「そんなことを言ってくれなくていい。彼女が私を愛していたなら、起こらなかったことばかりが起きている」
私は胸に迫りくる想いを振り払うように言った。
「あの人は誤解されやすいんです。あなたへの思いは本物でした」
「あの人は誰だって良かったはずだ!」
私はやり切れなくなって叫ぶ。
「だからあなたも、二人は別れた方がいいと言ったんじゃないのか」
そうだ。あの時、まさに私がモーツァルトとの愛を成就させようとした時、つまりモーツァルトとの結婚を真剣に考えた時に、コンスタンツェは言ったのだ。二人は別れた方がいいと。
「芸術家同士では無理だということが言いたかったんです。燃え上がっている本人同士では分からないことでしたでしょうけど、わたしには分かったんです」
それを今になって彼女はこんなふうに言う。
しかしどうあれ、それは正しかったのだ。私が、母親の危篤の知らせを受け、ボンに帰ろうとした時、モーツァルトは私を殺そうとした。今にして思えば嫉妬としか考えられないその仕打ちは、まだ幼かった折の私には到底理解することはできなかった。それほどに二人は相容れなかった。
「そうだな。結果的には、あなたの言う通りだった」
私は苦々しい気持ちでこう言うしかなかった。
「あなたはあのとき、わたしがモーツァルトをあなたから奪おうとしたとおっしゃいましたけど、そんなことは決してありません。二人のためにどうすれば一番いいのかを考えてのことだったんです」
そうコンスタンツェは言ったが、私にはその言葉がどうしても信じられなかった。
「いいんだ。そこにどういう要因が働いていたんであれ、結局あなたの判断は正しかった」
と、一応、たった一人なるべき結果を見通していた彼女を讃えたが、そのすぐあとにこう続けた。
「だが、あなたはモーツァルトを本当に愛していたのか? こんなふうに彼女が若くして死ぬことをそばにいながら見過ごしたんだぞ」
「止められなかったことは言い訳できません。わたしにその落ち度はあります」
「あなたは、愛とは何かと私に聞いた。あなたは、金さえあれば愛はなくても生きていけると言った。あなたがモーツァルトと結婚したのは、金目当てだった。違いますか?」
「違いますわ!」
コンスタンツェは極めて強い瞳をこちらに向けた。
「わたしがモーツァルトと偽装結婚したのは、簡単な話です。わたしは、あのとき自分の家庭の事情もありましたけど、モーツァルトがわたしの姉に恋い焦がれているときから、その才能に惹かれていました」
「あなたの姉というと、アロイジアか。ただのコケットだ。まったくあんなくだらない女にたぶらかされて」
「わたしの姉を悪く言わないでください。モーツァルトも、アロイジアのどこに恋をしたかと言えば、その歌手としての才能に恋をしたんです。わたしとモーツァルトは似ていました。男だからとか、女だからとか関係なく、才能を愛するというところが」
「……」
私はこのとき、ふと考え込んだ。私自身も実はそうだったんだろうか? 私がモーツァルトに恋をしたのは、その才能ゆえだったのだろうか。彼女がなんの才能も無いただの女だったならば、そもそも好きになどならなかっただろうか。
いや、私は、才能も容姿も魂も、すべてひっくるめて、彼女の全部を奪いたいと思ったんだ。彼女を私だけの存在にしたかった。しかし、それは本物の愛だったのだろうか?
「あの人も、あなたも、お互いのために生きるのではなく、自分の才能を一番愛するのが妥当なのではないかと考えたんです。だってそれが芸術家ってものでしょう?」
彼女はさらっとこんなことを言う。私はそれについてはすぐには分からなかった。確かにあの人は嫉妬し、私を消そうとまでした。だが、もしかしたらそれは嫉妬ではなかったのかもしれない。このまま相手を失うくらいだったら、完全に自分のものにしたいと考えただけなのかもしれない。
いずれにしても、同じことだ。結局、自分を一番愛するのが芸術家なのか? 芸術とは所詮自己愛なのか。
「でも、あの人は特別だった。お義父さまにすべてを与えられて育った人ですから。お義父さまに愛され過ぎて、お義父さまを愛し過ぎて……」
「……父親……か」
まざまざと思い出した。この父娘に対しては、私の中にはまだそれこそ嫉妬があった。モーツァルトは確かに父親を誰よりも強く愛していたから。
だが、その父親からはとうに捨てられていたのだ。そのことを、私は第一回ウィーン旅行の帰りに立ち寄ったザルツブルクで確認済みだった。
しかし、本当のところはどうなのだろう? モーツァルトのそばにいたときに終始感じた、父親の執着心。それは父親として許される想定を遥かに超えていた。だからこそ、それが叶わないと分かると、あそこまで徹底して彼女を排除し尽くしたのではないか。つまりは激し過ぎる愛情の裏返しだ。
「確かにあの二人は、お互いを愛し過ぎていたんだろうな」
と私も結論付けた。コンスタンツェは続ける。
「でも結局、モーツァルトも自分を選ぼうとした。なぜなら、お義父さまでは相応しくなかったから」
「相応しくない?」
「モーツァルトの持っている才能の大きさからしてみれば、お義父さまはかなり足りない人だったのね。ところが、お義父さまは自分でこの事実に気付かず、モーツァルトの手を握り締めて離さなかった。あのお義父さまの分からず屋のせいで、モーツァルトがどんなに苦しんだか……」
「……」
私は、自分の父という肩書きの男を思い出していた。ヨハンという名だった。取るに足らない男だった。ろくでなしだった。だが、彼は私をわりと早いうちから他の教師につかせたような気がする。もちろん充分な配慮とは言えなかったが、同じように屈折した父子関係を持っていたモーツァルトは、なまじ父親が中途半端に優れていたせいで、私よりさらに苦しみが深かったのか。
あのとき感じたのは父親としての執着心だけではなかった。モーツァルトも、私と同じような暴行を、父親から受けていたのではないか? という疑いがある。私はそのことをいつも考えないようにしているが、彼女の父親への思慕の深さは異常だった。その異常さが、私の暗闇を掘り下げてしまった。私はあのとき、そのことを思い起こしてしまったのだ。私を根本から滅ぼし去るような暴力の痕を。
しかしコンスタンツェはそんなことなど夢にも考えていないようだった。
「そこへあなたが現れたのよ」
コンスタンツェは、まるでモーツァルトに代わるかのように、愛おしげに私を見つめる。
「私など、それこそ全く足りたものではなかったがな」
私は言った後、モーツァルトの視線を避けるように、下を向いてしまった。
「いいえ、モーツァルトにとって、あなたは最も優れた父親だったのです。あなたの後にもいろんな人を、父親を愛するように愛したけど、あなた以上の人は現れなかった」
「かいかぶり過ぎだ」
私は言い捨てたが、しかし、そう言われることは嬉しかった。昔であれば、腹を立てただろう。私は父親ではない! と言うくらいには、ボンでの終末期は煮え切っていたから。
「あなたをレオポルト・モーツァルトの代わりというんじゃないのよ?
決してそうじゃない。モーツァルトはレオポルトよりもあなたを、
ベートーヴェンを選んだの」
やはり、コンスタンツェはこのようにフォローした。
「モーツァルトが一番愛していたのは、あなただった。
このことを、どうしても伝えたくて、今日はあなたに来てもらったのです」
そんなふうに言うコンスタンツェからは、昔のたおやかさが感じられた。
「それでも、芸術家は自分を選ばなければなりません。
わたしは、モーツァルトに、お義父さまを起点にした呪縛から、自由になってほしかった。
そのまさに分岐点で、あなたが現れた時、わたしは悪い夢を見てしまったのです。
二人の大芸術家が同時に駄目になる可能性を目の当たりにしてしまった……」
コンスタンツェはすっかり以前の愛らしさを纏い、その姿はまるで私を蠱惑するモーツァルトのようだった。ここに連れて来られた時から勘付いてはいたが、彼女はこのようにして、またあの日のように、モーツァルトの身代わりになろうとしている。罪滅ぼしか。それとも……。私は体の向きを変えて、それを見ないようにした。
「あの人は死んでしまった。一人立ちできなかったんです。
わたしにもっと力があれば……」
コンスタンツェはそこで少し涙を拭ったようだったが、私は用心のためにまだ彼女の方を見なかった。
「助けられなかったのは、私も同罪だ」
言いながら、私はこのことに初めて気付かされた。ショックだった。
「いいえ、きっと誰のせいでもないの。
ただ、あの人をあんなに弱くしたのは、お義父さまだと言う他なくて、
彼のせいだけではないと分かっているけど、わたしはしばらく彼を憎んでいたわ」
コンスタンツェは、一向に自分に振り向かない私などを庇い、そして告白もした。
「でも今は恨んではいないの。
彼はモーツァルトを弱くしたけれど、強くもした。
あの人が死ぬまで信じる人であり続けることができたのは、お義父さまのおかげだから。
お義父さまの保護のもとで、これ以上もないほどの深い愛情に包まれて育てられて、
だからあんなにも愛らしい人物になれたし、素晴らしい仕事ができたのだもの」
私はそこでやっと彼女を見た。私は父親の身代わりになれなかったことを詫びようとしたのだが、彼女はそんなことは求めてないふうで、その肢体も表情も視線も、ただ切なげなだけだった。
「モーツァルトの作り主ってやつか。完全保護者か。どんなに変わっていたとしても、この世にそういう状況があり得た、という記憶は、確かに彼女の心の支えだったんだろうな」
私は傷を隠して、そして少しだけ湧いていた浮気な感情も押さえ込み、ただ他人事のようにそう言いのけた。幼い頃からの、今も変わらぬ嫉妬心が爆発しないように、気をつけて言った。この言葉は、ほんの少し、本心だった。どんなにか彼女と私との共通項だと信じたかった父子関係だったが、たとえ状況が似通っていたとしても、彼女と私とはやはり違う。私は父親に愛されていなかったが、彼女は本当に愛されていたのだろうから。たとえその愛情が、彼女の無理を押しての独り立ちという裏切り行為によって、底知れぬ憎悪、怨念に変わり果て、彼女を死に追いやるまでに苦しめたとしても。私には、どんな形であれ、父の憎しみなど、夢のまた夢だった。本物の関心すら、怪しかった。
彼女は想像を遥かに超える激しい復讐心に痛め付けられながらも、自分がいかに愛されていたかをいつも感じていたに違いないのだ。
「本当に、わたし、いつも不思議でしたもの。どうしてそこまで信じられるのか」
コンスタンツェは私の心の暗闇を知ってか知らずか、話の流れに沿って明るく言う。
「この世界を?」
「ええ、この世界を」
「確かに赤ん坊の頃から泣くたびにひっぱたかれていたんじゃ、この世界への強い信頼なんぞ育ちようがない」
私はコンスタンツェの誘いを避けるように、少しおどけてみせた。
「わたしたちなんて、物心付いたときにはもう失くしてましたものね」
「生まれてまもなく失くしましたよ」
ここで笑いが起こる。
「それを、あの人は死ぬまで持っていたんですわ。
あの人は、本当に天使のような人でした。
わたしたちには遠いはずの記憶を、音楽という形でわたしたちに思い起こさせてくれます」
「それがモーツァルト」
「ベートーヴェンは?」
「彼は……まだいない」
「え?」
「とりあえず今は、私が彼女に求めていたすべてを成し遂げたいんだ。でもこれは私じゃない。彼女の忘れ物の整理に過ぎない。自分の理想を彼女に任せていたのは、結局甘えていたんだ。今度は自分の手でやり遂げてみせる。彼女がこの世でできたかもしれない、と、私が信じたものを、創り出すんだ」
「でも、あなたはベートーヴェンだわ」
「同じ人間だ」
「モーツァルトと比べて、自分のことを『同じ人間だ』と言える人も少ないと思うけど……」
コンスタンツェはくすりと笑う。馬鹿にされたのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。そう、彼女は、モーツァルトではない。私の神経を痛め付けるあの笑いは、いくらコンスタンツェでも真似できない。
「でも、モーツァルトは自分として生きたから極めたのよ。女であったことも含めて、与えられた運命にうなずきながら、すべてを力に変えたわ」
彼女の忠告めいた言葉に、私は否定の意味で手を横に振った。
「コンスタンツェ、私は運命も神も信じていないんだ。彼女は人が好過ぎた。だから運命の言いなりになった。だが彼女は死ぬべきではなかった。私は彼女に死を与えた神を呪う」
私は、自分にも責任があることに今日初めて気づいたのではあっても、それを含めた全責任を権威になすりつけるしか、やりようがなかった。
私が悪いのであれば、私を殺せばよかったではないか? 私が憎むのは、どうにでもできる、そういう権威だ。
「彼女を殺した運命も神も、許さない。我が魂を賭けて呪う。その根本が腐り滅びるまで! そのために私は生きているんだ」
私が目の前で拳を握り締め力を込めてそう言うと、コンスタンツェはどこか諦めたように優しく溜め息をつく。ここで、彼女の誘惑は閉じたようだった。彼女は気付いたのだ。私が本気でモーツァルトのために生き、そして死のうとしていることを。
この心を、知られたくなかったが、知らせずには彼女はきっと収まらなかっただろう。これで、モーツァルトが仮に私のことを少しは愛してくれていたのだとしても、私はそれ以上に、いや、以上に以上に、モーツァルトは私のすべてであり、命であること、不滅の想いであることを、コンスタンツェは了解したに違いなかった。
そのことは最初から隠していなかったが、もはやこれほどまで、自己を失うほどにも、とは、彼女は思っていなかったはずだ。コンスタンツェは自分の亡き夫がこんなにも愛され続けていることを喜び、また、悲しみ、私が私でないことを疑問に思ったことだろう。
「お互い頑張りましょう。わたしも今年は忙しいわ。秋からドイツ巡業なの」
コンスタンツェはもうすっかり平静になり、さらっと話題を変えて終わらせようとした。
「巡業? オペラですか」
私は彼女の欲情が解けたことに安堵し、だからというわけではないが、敬語になった。
「ええ、『皇帝ティトゥスの慈悲』を」
「なるほど。まあ今の状況では差し障りがないでしょうね」
私は皮肉を言った。やっぱり人間としても女性としても、格段に足りない。
モーツァルトのオペラはほとんどが反権力的だが、『皇帝ティトゥスの慈悲』だけは違う。大した作品ではないのに、コンスタンツェがこのオペラを選ぶ理由はおそらくそれだけなのだ。
「はっきりおっしゃるのね」
コンスタンツェは何もかもを承知したように笑みを浮かべる。
「ええ、あなたはあの頃と少しも変わらない。小心者で、凡庸な人間だ!」
彼女とはその怒りを最後に別れた。
帰り道、心はあたたかくほのぼのとしていて、気分良くピアノ協奏曲ニ短調のカデンツァを口ずさみながら帰った。愛している。こんなにも。今日の合作を、霊となったモーツァルトは聴いていてくれたはずだ。まだまだあなたに相応しい者ではない私だが……そう、格段に足りないのはレオポルト・モーツァルトだけではなく、コンスタンツェも、そして私もなのだ。努力でなんとかなること、ではないかもしれないが、できる限りのことはする。今日、私がコンスタンツェに言ったことは、嘘偽りない本心だ。今しばらく、あなたが本当はしたかったことを、求めてみる。そのためには、〝第二のモーツァルト〟と言われることも喜んで受け容れる。私が私自身として確立するのは、それから後があればの話だ。
私は今日話したことで言えば、芸術家としてはあるまじき姿になってしまっていたのだった。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




