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2-2.再会

彼らの神々はどこにいるか、

彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

彼らの犠牲のあぶらを食い、

灌祭(かんさい)の酒を飲んだ者はどこにいるか。

立ちあがってあなたがたを助けさせよ、

あなたがたを守らせよ。

今見よ、わたしこそは彼である。

わたしのほかに神はない。

わたしは殺し、また生かし、

傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出しうるものはない。

わたしは天にむかい手をあげて誓う、

わたしは永遠に生きる。


(申命記第三十二章より)

「弦が切れたわ!」

 観客席で婦人が叫ぶ。

 一七九五年三月三十日。ブルク劇場。私はモーツァルトの主題で即興演奏をしていた。

 弦は、さっきから何本か切れた。すごい音がするので演奏には邪魔だったが、そんなことは私にはどうでもよかった。

 私は怒りを新たにして夢中で即興していた。この度を越した怒りには理由があった。

 昨年の八月十四日、同じこの劇場で上演された『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いて以来、私はモーツァルトに対して腹を立てっぱなしなのだ。このオペラだけはどうしても許せなかった。

 そして今、このオペラから最も美しいロンドを選んで弾いている。

 

   どうぞ、私の恋人よ、お許し下さい

  哀れな恋人の(あやま)ちを。

  この木かげと草の葉の間に

  いつまでもおかくし下さい、神様!

 

『コジ・ファン・トゥッテ』というのはイタリア語で『女はみんなこうしたもの』という意味だそうだ。その名の通り、このオペラは女の心変わりの早さを茶化した低俗極まりない物語だった。

 なぜこんな台本に曲をつけたのか。『ドン・ジョヴァンニ』の方がよっぽどマシだ。『コジ・ファン・トゥッテ』は、単に女がたった一日で浮気することを(あざけ)っただけの話だ。しかもこれは彼女が三十四歳のときの作品だという。三十五歳で死んだ者には晩年も晩年。いったいどうしたというんだ。台本の質は年ごとに落ちていく一方ではないか。なぜ誰も彼女に助言してやらなかったんだ。


   このよこしまな欲望を取り除いて

   私の勇気と(みさお)は、

   私に恥と恐れを抱かせる

   あの思い出を消してくれることでしょう。


 こんなにも感動的な歌にのせて謝られたら、私でもつい許してしまいそうだ。不貞を働いたとは思えないほどに愛くるしく、聴いていると胸が熱くなる。

 

   この無益で薄情な心は

  いったいだれに不実だったというの!

  いとしいお方、あなたの率直なお心には

  よりすぐれた報いをしなければならないというのに!

 

「……!」

 演奏し終えると、静まり返った客席の中央のご婦人が、最初に立ち上がって拍手をした。

「ベートーヴェンさん、貴族の皆様が……」

 と支配人が何やら訴えてきたが、私は疲れていたのでそれを無視して、さっさと控え室に向かう。するとその部屋の扉の前に、見覚えのある人が立っていた。

「お久し振りです」

 と、その人は(うやうや)しく挨拶をする。

 コンスタンツェ・モーツァルト。彼女は、実際は女性だったモーツァルトと、その秘密を守るための偽装結婚をしていた。彼女に会うのは八年ぶりだ。

 外はやかましかったので、私たちは誰にも見付からないように素早く控え室の中に入る。そしてドアに鍵をかけ、備え付けられた椅子に向かい合わせに座った。

 同じ町にいながら、これまで会わなかったのは、彼女の方でも、そして私の方も、意識的に避けていたからだ。〝第二のモーツァルト〟と呼ばれている私と、モーツァルトの妻だった彼女が親しくすれば、その呼び名を認めたことになる。私もそんなつもりはなかったので、会いたくはなかった。

 コンスタンツェは相変わらず黒く美しい瞳を輝かせていた。だが、動作の一つ一つが荒々しくなり、最初に会ったときのようなしとやかさはどこにもない。

「驚きましたわ」

 彼女は、形式的な挨拶のあと、落ち着いた穏やかな声で言った。

「驚きましたし、感動しました。昨日はあなた自身が作曲されたピアノ協奏曲を演奏なさったんですってね。残念ながらそちらは聴き逃してしまいましたけど……」

 と語りかけてきた。親愛の表情は上辺だけ。ただ言いようのない違和感が、私と彼女の間に漂っていた。

「聴かれなくて良かった。大した作品じゃない。習作のようなものです」

「まあ、あんな即興演奏のできる方の台詞とは思えないわ」

 いつまでこんな上っ面な会話をすればいいのか。彼女に話すべきことは決まっている。モーツァルトのことだ! なぜ彼女を死なせたのか。私がコンスタンツェに聞きたいことはただそれだけだった。

「アルブレヒツベルガーさんに作曲を習っていらっしゃるんですってね」

 と彼女は言った。

「ええ、ハイドンはロンドンに行ったっきりですしね」

「なぜ同行されなかったの?」

「は?」

「新聞で読みましたわ。ハイドン先生は弟子のあなたを連れていくつもりでいると」

「……」

 ロンドン行きを断った理由はただ一つ。ハイドンとの仲がしっくりいっていないからだ。ハイドンはモーツァルトの影の部分を見たことがないのか、私が短調音楽を書くと首をひねる。明るいだけが能というやつで、所詮(しょせん)王侯貴族の音楽から離れられない人だ。そんなものしか書くことが許されない旅など、なんの意味があろう。

「あなたについての記事はみな読みましたわ」

 と彼女は微笑む。

「読む価値などありませんよ」

 彼女が敬語を使うので、私もずっとそれに合わせ続けた。わざと丁寧に話すことは、嫌いな人に対してすることだ。コンスタンツェと私との間は、それほどかけ離れていた。

「意地の悪い評論家ばかりですから、何を書かれてもお気になさらず」

「ええ、分かっています」

 実際は、私よりコンスタンツェの方がよっぽどひどいことを書かれていた。今や彼女は全ヨーロッパで、あの処刑されたフランス王妃と張り合うほど、悪女と噂される女性になっていた。モーツァルトの記事が出ると、それに合わせて彼女の悪口ばかり。未亡人は葬式にも出なかった、墓も作らなかった、記念碑も建てるのを拒否した、などなどと……。コンスタンツェが以前の愛らしさを失っているのも、そうしたことが原因なのだろう。

「公開の場で演奏されたのは、今回が初めてでしょう?」

 彼女は傷も見せずに次の言葉を続ける。

「はい。よくご存じですね」

「いつも気にかけておりましたから」

「……!」

 そのとき、私は気付いた。

 コンスタンツェの背後に、姿なきモーツァルトがいる。

 そうか。あなたはずっとコンスタンツェを案じていたんだな。霊としてのあなたに、初めて会うことができた。

「でも、あなたの演奏を聴いて、少し安心しました。あなたはあのとき予感したままのあなたになっていらっしゃる」

「そう見えているだけですよ」

 私はモーツァルトに対して言うように意識して答えた。涙を見せないように笑いさえして。

「私はバッカスの神を演じているだけです」

 本当は、モーツァルトを演じていた。いや、演じているつもりだった。そのことは、モーツァルトも分かっているはずだ。彼女の霊が、それに答えるように、揺れていた。

「自分を見せていないのですか?」

 コンスタンツェはそう言って静かに顔を上げて私を見つめる。彼女の瞳は冷たかった。まるでそうあるべきではないのだと訴えてでもいるかのように。

「この町の連中は、もう、多くが干からびてますからね。革命どころか自分自身にさえも背を向けてる者がいるかと思えば、今や革命的なことは夢でしか語れないと分かり切ってるのに、まだその残骸(ざんがい)をむさぼろうとしてる者もいる。そんな連中相手じゃ、こっちもまともでいるのが馬鹿馬鹿しくなりますよ」

 私は彼女の目を逸らそうと、こんなことを、まるで本音を吐き出すように言ったが、実は私こそがもっとひどい状態で、絶念(ぜつねん)の中にあり、モーツァルトへの想いしか持っていないのだということを、彼女たちは見抜いていたに違いなかった。

「革命は成功しませんでしたわね」

 コンスタンツェはしかし、私の話に乗ってきた。彼女は私を責めずに世間に対して失意の色を浮かべたふうだった。気遣いか、あるいは本当に、彼女も一度は革命に賭けた一人だったのか。フランスの退廃を嘆いているのかもしれなかった。

 フランスの現状は最悪だった。フランス王妃が一昨年の十月十六日にギロチンで処刑されてからというもの、フランスは革命の国ならぬ首の転がる国と化していた。ここ一年半の間に三千人もの人間が権力争いでお互いがお互いを訴え、次々とギロチンにかけられていった。

「選ばれた人間に襲いかかる最終的な誘惑は(おご)りですからね」

 と私は話を合わせてもっともらしいことを語り始める。

「これまでそれに狙われて無事だった者は一人もいない。殺された連中も一人残らず、それにかかったわけだ。ギロチンにかけられながら、彼らは、自分が責めた者と全く同じ弱さを持っている自分に気付かされたことでしょう」

 コンスタンツェは黙ったまま私の話を聞いていた。私は内心では違うことを念じていた。こんな話がしたいんじゃない。本当は……本当は……。

 しばしの沈黙ののち、

「何もお聞きになりませんの?」

 と、ついに彼女は言った。私はこの問いかけに、抑え切れない心があふれ出した。

「聞いたところで……何がどうなるというんだ!!」

 私が叫ぶと、コンスタンツェはまっすぐな瞳を私に向けた。そこには覚悟が見えた。

「わたしをお恨みでしょうね」

「……なぜ? なぜ彼女(※※)は死んだんです? あんなに生命力にあふれていた人がなぜ!」

 私はもう我慢し切れず、涙を流しながら問うた。

「あの人は、自分で自分を殺したのです」

「え?」

 私は驚いた。自分で自分を殺した? まさか……。

「彼女は自殺したんですか?」

「ほとんどそう言って差し支えありません。()は働き過ぎたのです」

「まさか寝ずに食べずに仕事を?」

「ええ。死の年には特に」

「ああ……」

 私は頭を抱えた。なぜあのとき彼女を置いてボンに帰ってしまったのだろう。

「なぜそんな彼女を止めてくれなかったんだ!」

「言っても聞かなかったんですわ。楽譜も取り上げて隠しましたけど」

 私は会っていたときの彼女を思い出し、それはそうだったろうと思う他なかった。私がうなだれていると、コンスタンツェはさらに続けた。

「そんな無謀な仕事ぶりを見せる前は、ほとんど仕事ができなくなっていました。あなたに出会ったとき、あの人はまだ三十一歳だったけれど、それから二年も経たないうちにひどい(うつ)に落ち込んでしまって……」

「!」

 彼女が、私と同じような状態に(おちい)っていた?

「あの人は自分が何者なのか分からなくなっているようでした」

「そうなった理由は?」

「さあ、分かりません」

 とコンスタンツェは言ったが、いや、コンスタンツェは本当は知っているのだ。だが、教えてくれない。その理由は、私が彼女を置いて去ったせいなのか? 父親が死ぬことに耐えられなかったのか? それとも何か他に重大なことがあったのだろうか。あれほどに輝かしい芸術の魂を持っていてもなお、そんな病に落ちてしまうとは。

 コンスタンツェは、暗中模索(あんちゅうもさく)している私の手をそっと取った。

「この指輪をさしあげます」

 彼女は、私の右手に大きな緑色の石のついた指輪を渡す。

「これは?」

「あの人がピアノ演奏のときにつけていた指輪の一つです。わたし、遺品はみんな、こうしてファンの方にさしあげているんです」

「あなたはいいのですか?」

「わたしにはたくさんの思い出がありますから。たった十年間の結婚生活でしたけど」

 ここでやっと彼女は温かみを帯びた微笑(ほほえ)みを浮かべる。

「何か……私にできることはありますか」

「沈黙を守っていただけるのなら、それでもう」

 彼女は私を過大評価しているのか、モーツァルトとベートーヴェンが一緒にいた時間があることを、隠したいようだった。

「そうだわ。もしよろしければ」

 コンスタンツェは急に思い付いたように持ちかけてきた。

「明日、同じこの劇場でモーツァルトを悼む演奏会を開くんですの。よろしければあなたも出演していただけないかしら」

「喜んで」

「助かりますわ。曲は何に?」

「もう決まっています」

「え?」

「ピアノ協奏曲ニ短調」

 この曲は、モーツァルトと過ごした二週間のうちに演奏された音楽の中で、最も魂を揺り動かされた曲だ。まさしく私に似た音楽。誰にも知られていないはずの自分の内面がそこにあった。醜くしか感じられなかった私の本性が、美しく完全になって立ち現れたのだ。それは衝撃だった。

 モーツァルトが長く居着いたこの町の連中も、ハイドンでさえも、こんな彼女をほとんど知らない。彼女自身、こうした要素を出しかけては引っ込めていたようだ。

 このような音楽をどんなにか極めたかったはずなのに、彼女が取るに足らない聴衆に愛されたがったばかりに、完成されずに終わってしまった。

 それはニ短調。あの『レクイエム』や『ドン・ジョヴァンニ』の世界だ。オペラでは彼女のおどけ癖が世界を曖昧(あいまい)に曇らせてしまっていたけれど、それも彼女の恥じらいからだろうか。『レクイエム』では最期ということで爆発したが、これも未完となった。

 いつか、いつか……私が補完できるなら。しかし今の私には遠過ぎる話だ。

 とりあえず、今、できるかもしれないことをやるしかない。

 私はすでに何に着手するかを決めていた。このピアノ協奏曲には、カデンツァが抜け落ちていた。カデンツァというのは演奏者が技巧を発揮できるように挿入される部分で、たとえ作曲家自身の考えが遺っていたとしても、その通りに弾く必要はない。だいたいどの演奏家も即興でやり切る。しかし作曲家の声が遺っていてほしかった。

 まず、このカデンツァの作曲から始めよう。即興で弾いてもいいのだが、彼女がどんな音を願ったのか、じっくり考えてみたいのだ。そして、明日、また彼女に会いたい。

【参考文献】


★『ベートーヴェン』(上)(下)

      メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)

★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)

★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)

★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)

★『古代の宇宙論』

    C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)

★『世界創造の神話』

    M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)

★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)

★『ギリシア・ローマ神話事典』

    マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著 

     木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)

★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』

         カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)

★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』

                 〈音楽選書65〉

       ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)

★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)

★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』

       アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)

★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』

        ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)

★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)

★『比類なきモーツァルト』

        ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)

★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)

★『ベートーヴェン大事典』

      バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)

★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)

★『ベートーヴェン全集』(講談社)

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