2-1.悪魔の即興
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
ウィーン郊外アルザーシュトラッセにあるリヒノフスキーの住まいと同じ建物内にある屋根裏の部屋の、一番いい場所に、ブロンドの女性の肖像画が飾ってある。
三十歳頃のモーツァルトの像だ。斜めからこちらに向かって微笑んでいる。晩年まで失われなかったというひたむきな青い瞳はとても優しげに描かれている。腰まであった長い金髪は綺麗にカールされていて、彼女の細い肩を覆っている。美しい絵だ。
数ある肖像画の中で、私が出会った頃の彼女に一番近い。
私は暇さえあればその肖像画を眺めて時を過ごした。
三十五歳の若さで急死した彼女の名は、生前もどこの町でも知られてはいたが、没後一周年を迎えようとしている今ではすっかり神格化されてしまった。それこそヨーロッパ中の誰もが、彼女を音楽の神として崇め、天才の象徴としてその名を讃えていた。
今、私はすべての計画を投げ打って、ウィーンにいる。
ハイドンがあれからもう一度ボンにやってきて、私を説得したのだ。モーツァルトが死んですでに半年が経っていた。世間では、ついこの間、神聖ローマ皇帝になったばかりのレオポルトⅡ世の葬儀が無事終わり、新皇帝フランツⅡ世の戴冠式の話題で盛り上がっていた。
「モーツァルトが死んだ」
ロンドン帰りのハイドンは私を見て一言そう言い、肩を落としていた。しかし私はもっとひどい状態だった。心身もろともボロボロになっていた。
「どうしても君が必要なんだ」
ハイドンは、私のそんな状態になど構わず、そう言った。その目には涙を浮かべていた。
「今から私の弟子になりたまえ。モーツァルトの魂を、私から受け取るといい」
そんな言葉に、私は力なくうなずいた。音楽をやめて放浪の旅に出ると決めていたはずだったが、そのときには何もかもが白紙になっていた。
ハイドンは私の返事を聞くと、安堵してウィーンに帰っていった。ワルトシュタインに、私のことをくれぐれも頼むと言い残して。
「ちくしょう!」
私は一人、ライン川のほとりで叫んだ。愛する人の死を聞かされて、極限まで泣き明かし続けた後のことだ。泣きも過ぎて干上がると、今度は次第に憤怒が湧き、私の心は怒りに支配された。自分の感情に砕かれそうだった。すべてに対して憤りを感じた。
彼女の死が納得できない。
彼女はあのとき、満足できないと嘆いていた。あれからまだたったの四年しか経っていない。
なぜ……死なせた? そう、彼女は死んだのではなく、死なされたのだ。それを定めた奴がいる。この時ばかりは私は、元来幻でしかない「神」という存在を、故意に作り出し、ありったけの憎しみを注ぎ込んだ。そうだ、多くの人と同じく、いやそれ以上に、私は愚か者になってしまった。幼い頃に読んだ聖書の言をまた鵜呑みにし、一線を越えて、幻の奴隷になり果ててしまった。
だが、そんなふうにしても、癒えない傷は生々しく痛み、どんなに流してもまだ枯れない涙があったのだ。
神よ、あんたはこの世で最も美しい花を、完全に花開く前に摘み取った。それがあんたの心なら、あんたは私の敵だ。心の底から呪ってやる。
この悲劇をもたらした存在を、私は決して許しはしない。
神よ、こんな私にどんな罰をくだす? これ以上何かできるならやってみるがいい。私を自滅させたいようだが、それが運命なら、この命など少しも惜しくはない。くだらない世の中だ。くだらない設定だ。そいつの喉元こそ潰れてしまうがいい! 神か? 創造主か? 全能者か? 聞いて呆れる。おまえなど、その名に値しない。滅びろ! 滅びろ! すべて無に帰すがいい!
モーツァルトが死んだのだ。
ウィーン、一七九三年、七月。
ここの空気にもようやく慣れてきた。屋根裏から下の部屋に引っ越して、とりあえず当初の予定通りハイドンのもとに通い始めた。が、彼には弟子にじっくり教える暇などないらしく、通うと言っても形だけで、その実、課題を渡されるだけの往復運動だった。
父を騙る男ヨハンは、私がウィーンに来てから二か月も経たないうちに死んだそうだ。その知らせを聞いても、私は全く動じなかった。もちろん、ボンに帰ることもなかった。
思い出してみると、モーツァルトもそうだった。彼女も、父親が危篤だという知らせを受けても帰ろうとしなかった。おそらく葬儀にも出なかったのだろう。いや、彼女の場合は、出られなかった、と言った方が正しいかもしれない。彼女はなんだかんだ言っても父親をこよなく愛していたが、当の父親からは、捨てられていたのだから……。
私の場合は、私の方から捨てた。父と言っても名ばかりだった。私もかつては、どんなにか彼の愛を求めた。だが、度重なる裏切りに遭い、もはや私の心に彼に対する愛らしきものなど残らなかった。だからこそ、なんの思い残しもない。あんな人間は、死んで良かったのだ。
さて、今日も私は、退屈極まりない課題を前に、課題とは全く無関係の美しい幻想を追い求めていた。
すると、カツ、と足音。振り向くとそこには男の影。カーテンを閉め切った暗いところにいたうえ、私は近視のため、それが誰なのかすぐに見分けがつかなかった。だが、誰であろうと関係なく、私はそいつを憎く思った。せっかくの感動的な啓示が消えてしまった。まだ私がそれを理解する前に。
「対位法の勉強か」
ヨハン・シェンクだった。彼は通俗的なオペラ専門の作曲家だ。ちょっと前に競演で私が手酷く負かしたゲリネクに紹介されて知り合った。彼は帽子を置くや机に駆け寄ってきて、私が机から落としていたテキストの一枚を拾い上げて眺める。
「大変そうだな」
と、背後から遠目で答案を確かめてから、数か所、私の間違いを正してくれた。
「もう半年以上もこの課題に取り組んでいるんだ」
と私は彼に今の状況を正直にこぼす。
「ペンはいっこうに進まない。どこまで怠惰が許されると思っているのかと人は言う」
不満を、誰かに聞いてもらいたかった。
「書けない理由は分かっているのか?」
「意義が見出せないんだ。世間に媚びようと思えばいくらでも書けるんだろうが、駄目なんだ。私にはできない」
私は、たとえば私の在り方に相応しいだろうことを言ってみせたが、実はそんなことは夢にも考えていなかった。この言葉が本心だったなら、大したものなのだが。
「大衆ばかりが相手じゃないぞ。たとえばバッハは神への愛を音楽で表現していた」
「やめてくれ、その名前は聞きたくない」
「おっと、バッハは嫌いか?」
「バッハは好きだ」
彼はキョトンとして、次の瞬間笑った。
「……はっは! おまえが悪魔の申し子だという噂はどうやら本当らしいな」
「……」
物心つくまだ前、その頃は、私も従順だった。神は私の唯一の理解者だと信じていた。誰にも愛されていない私を愛してくれる存在として、幻のそいつと戯れさえした。そのうち物心がつき、今度は、何が正しいのか分からなかったから、神の目だけを頼りに善を探した。自信を喪失したときなどは特に卑屈だった。神よ神よと、何かと言えば拠り所にした。
よく何の根拠もなしに信じていたものだ。今なら分かる。神の裁きなどなんの意味もない。恐れるに足りないものだ。
神と名乗ってこの世に権勢を振るっている力など、私は認めない。私には何一つ力などないが、それでも、正しくないものに跪きはしない。
この世を汚すも潤すも、神よ、おまえの手にかかっているのに、それをしようとしないのは怠慢だ。おまえに、この世を司る資格などない。人類の真の自由を阻んでいるのはおまえだ。おまえの支配がある限り、我々の存在理由は水泡に帰する。
何も見えないという人間たちの多さに、おまえはまるで赤ん坊でもあやすように、とりあえずの慰めとして革命をくれた。おまえの管理下で不穏分子と呼ばれる欲求不満者たちが熱狂している。おまえはこのようにして何でも叶うように見せかけ、自由や愛や正義を餌に人類を地上に縛り付け踊らせる。だが、私は従うものか。
「フランスはどうなってる?」
私はシェンクに聞いた。
風の噂によると、フランスでは、カトリックの神を捨てるようにという運動が起こっているそうだ。
これからは理性神という新しい神を自分の内に持つようにと。
「ああ、王妃はまだ生きているが、そろそろだろうね」
そろそろ、ギロチンという新しい方法でフランス王妃が処刑されるというのだ。このギロチンというのは、なんでも最も痛みを伴わずに死ねる処刑方法なのだそうだ。
フランス国王ルイ十六世は、すでにその方法で今年の一月二十一日に首を取られていた。
しかしフランス国民はどうかしている。死刑になど、なんの意味があるというのか。我々は皆いずれは死ぬものだ。この世そのものが死刑囚人用の牢獄だ。具体的には病気になって死んだり、事故で死んだりと、死因は様々な形を取るが、いずれにしても死刑よりは苦しみを伴うことになる。普通に死ぬ方が罪人の死より苦しみが深いなら、なんのための死刑なのか。死刑など意味がないどころか、逆に楽に死ねる方法でしかない。そんなものは廃止すべきだ。
「まったくフランスという国はいつの時代もビックリ箱だな。何かやらかしてくれる」
私がなるべく穏やかに言うと、
「悪魔にでも取り憑かれているんじゃないか?」
とシェンクは意味ありげに私を見て笑った。
「うるさい!」
そんな戯れ言はともかく、フランスの悪魔がかりは本当かもしれない。事実、今の全ヨーロッパの大変革はこの国から直送されたものだ。今やヨーロッパ中の国々がその緊迫感に神経を尖らせている。
ここオーストリアがプロイセンと協力してフランスに宣戦布告したのは去年の四月のこと。もはや革命はフランスだけの問題ではなくなっていた。とにかく影響を受けまいという一心で、オーストリア国の軍隊は、フランス革命軍を攻撃したのである。この町にもフランスから何百人もの貴族が逃げ込んできた。だが、いつまで彼らの安全が保障されるかは分からない。
国内の状況も今やすっかり変わっていた。すでに私がボンにいる頃から、フランツⅡ世の統制によって、ヨーゼフⅡ世時代の有力者たちは次々と処刑されていった。新しい革命の指導者になるのではないかと疑われたためだ。そして、今もそれが続いている。毎日、重要人物が逮捕されていく。監視の目は行き届いていて、政府の批判は御法度だった。ひとたび危険人物だと目を付けられたが最後、すぐにも警察にしょっぴかれてしまう。たとえ革命の話題でなくても、大きな声で話すことは禁じられていた。
私に言わせれば大袈裟過ぎるそうした緊迫感の中、いかにも世紀末といった感じで町は荒れ果てていた。人々の顔は恐怖に青ざめ、町からは音楽が消えた。
だが、皇帝がどのような性質であろうと、オーストリアという国は基本的に保守的な国だ。少なくともこの町の連中の性質は革命には向いていない。確かにわずかばかりの労働者や職人たちは革命熱に乗せられて投獄も恐れずにデモやストに明け暮れているが、それもおそらく一時的な流行に過ぎないだろう。実際、人口のほとんどを占めている農民たちは、ビールとソーセージさえあればあとは何も要らないといった感じで安穏に暮らしているのだ。
それでも若者は、貴族も市民も関係なく、やっぱり若者だった。この世紀末に、今までの歴史が覆されようとしている、今までのすべてが消え、新しい時代が始まろうとしていると、期待に胸を膨らませている。しかし彼らの多くは、本当は何も分かっていない。落ち度と言うにはあまりに大きい気はするが、それもまた時代だ。
時代はともかく、こっちはこっちでそれどころではなかった。他人の興味に気を取られている場合ではないのだ。
私は都会に来てからというもの、上辺はなんとか取り繕っていたが、モーツァルトを失った悲しみから少しも立ち直れず、前述の通り、幻との闘争に明け暮れていたのだから。
ハイドンから、まず君は鏡を見るように、と言われ、鏡を購入して自分の顔を見てみたが、言葉がなかった。
神もモーツァルトも不在の時代に、もはや大いなる力など当てにできないと分かった今、それでもなおかつ理想的なことをやろうとするならば、一番確かでなくてはならないのは自分自身のはずだ。それが、こんなにもみすぼらしくなってしまっている……。
私は即座に鏡を叩き割った。鏡と一緒に、私も割れてしまいたかった。
ボンでの最後の日々に掲げていた思想を思い出す。
並列した向上という思想だ。私がそれを行うには、今の生活の全てを清算し、もう一度あの日に立ち帰らねばなるまい。そして、もはや全体的な意味での唯一神などではなく、自分の至るべき完全体の姿のみを神と呼ぶべきだろう。
だが、故郷では朧げにくらいは見えていたはずの、自分の考え得る完全体というものの姿が、今は見えない。少しの正しさを頼りに断片を掴もうとはするのだが、何度握り締めても手には何も無い。
これまでは、どんな苦境に陥ろうと、いつも時代に反する私が存在したが、今は違う。時代とは無関係にただ混沌としている。
《書け!》
と再三に亘って急かされているような気がする。
その度に、私は実は空っぽな自分の底から、ウジ虫が蠢くような声を出した。
黙るがいい。焦らせて嘘事を書かせようとしても、無駄だ。何も見えないうちは一音符たりとも書くものか。
理想的な台詞だ。だが、私は気がつくと、そのように自分の中の理性神かもしれない存在とまで、諍っていたのだった。力あるものすべてが許せない。もうめちゃくちゃだった。
「ルイジ、知ってるか?」
シェンクは私の内面など気付かずに、楽譜を見終えてから、陽気に話しかけてきた。
「レオポルトⅡ世が毒殺されたって話」
「……」
ヨーゼフⅡ世の後を継いだ皇帝レオポルトⅡ世は、モーツァルトの死から三か月後に急死してしまった。去年の春のことだ。彼の在位はたったの二年。短い治世だった。
「近頃死んだ主だった人間は皆毒殺らしいね。よくできたもんだ」
と私は嘲笑しながら、ハッとした。近頃死んだ主だった者……。モーツァルトも、やはりそうだったのだろうか。
「笑い事じゃないぞ。それが本当だったら、この国ももう革命寸前だってことだ」
「……ああ、そうだな」
「助けようか? 課題」
彼は放心している私をよそに課題を手伝い始める。
「ルイジ、パパの気まぐれやミスなんかには寛大になってやれよ」
と彼は言った。パパというのはハイドンのことだ。ここではみんなが彼のことをそう呼んでいた。
「彼は今、精神的に参っちまってる。最近はことのほか不機嫌らしくてな。とても一緒に仕事ができる状態じゃないってアシスタントがぼやいてたくらいだ。
たぶん一昨年のモーツァルトの死と、今年に入ってまた一人友人を亡くしたのが、よほど堪えてるんだろう」
「……」
私は思い出していた。去年の暮れ、二度目のウィーンにやってきた私は、初めてパパを訪問したのだ。
玄関の前に立っていると、
「ベートーヴェン君、よく来たね」
と、彼は家の中からではなく、背後から現れた。出掛けていたらしい。私は慌てて振り向いて挨拶した。彼は私と違ってとても元気そうに見えた。
それから彼は趣味の良い部屋に私を連れて入り、
「弾いてごらん」
と言った。私は言われるままにそのときの感情を奏でた。すると慌ただしさで忘れていた感情がリアルにあふれ出し、長い間、鍵盤で語り、泣いた。
演奏の途中ですすり泣く声が聞こえてきた。ハイドンも泣いていた。最後まで聴き終えると、彼は言った。
「君は、モーツァルトを失ったウィーンの悲しみを癒やしてくれる人だ」
死をはじめとするすべての運命の前で、人は無力だ。
だが、これだけは絶対に自信を持って言える。モーツァルトは死ぬべきではなかった。この汚れた世界に、あれほど必要な人はいなかったというのに!
それなのに、なぜ死んだのか? たとえ世界が滅びても、あの人は生きるべきだった。それを……取り返しのつかないことをしやがって!!
「なあ、聴かせてくれよ。今話題の『悪魔の即興』」
「!」
我に返ると、シェンクが人の好さそうな顔で私の顔を覗き込んでいる。
「書き留めといてやるからさ」
と、ピアノのそばに椅子を持っていって座り、私に向かって片目をつむる。ウインクというやつだ。
ウインクにまつわる話を、シェンクから聞いたのは、ついこの間のことだった。
『魔笛』の初演のとき、音楽にすっかり魅了されてしまったシェンクが、芝居の終わりまで待てず、弾き振りを担当していた作曲家に近付き、その手にくちづけをしたときのことだ。作曲家は左手で指揮を続けながら、微笑を浮かべてシェンクを見た……。
「そのあと、片目を閉じたんだ。ウインクってやつさ! その顔がまた印象的でね。今でもはっきりと覚えてるよ。いつもの彼はなんてことないんだけど、ときどきはっとするほど美しくなるって噂は本当だったんだ。
でも、そのあとは参ったね。芝居が終わった途端、どっと人の波が押し寄せてきて、何がなんだが分からなくなった。ぼくと同じように彼の魔法にかかっちまった連中さ。もう少しで窒息させられるところだったよ」
「それから……どうなった?」
私は、突然弾くのをやめて、彼に問うた。
「は?」
ポカンとしている彼に、私は苛立ち、
「作曲家はどうなったんだ!」
と怒鳴った。
「作曲家って?」
「……あ、いや」
しまった。知らず知らずのうちに回想を現実に引き出してしまっていた。ばつが悪くなって彼に背中を向けると、
「さすがにすごい。噂通り……いや、それ以上だ」
後ろでシェンクは拍手する。彼は少しも気にしていないようだった。私の変わった振る舞いなどいつものことだと思っているのか。ありがたいやら悲しいやらだ。
「噂なんかに惑わされてると真実が見えなくなる」
私がもっともらしいことを忠告すると、
「この噂は特別さ」
と彼は笑った。
「特別?」
「そうだ。他の人間から見ると、おまえは間違いなく普通じゃない」
「馬鹿げてる!」
私は叫んで、元いた机に戻る。
「おまえは知らないんだな。知らないってことは恐ろしいことだ」
「?」
訝しげに見返す私に、彼は尋ねた。
「『弾き殺す』という言葉を知っているか?」
「いや」
「おまえのために作られた言葉だ。実際、おまえの演奏を聴いたショックで何十人の音楽家の卵がピアニストになるのを断念したことか……」
「馬鹿な奴らだ」
私は、もうどうしようもないからと、ピアノにしがみついてるだけだ。ちょっと弾けるのをいいことに、音楽を嘆きの道具にしているだけだ。
そんなくだらないものでも聴きたいとせがむ者には勝手にさせるが、それで音楽をやめるなどと、まるで見当外れもいいところだ。
自分では人前で弾くべき価値はないと知っている。だが、罪深いことに、何かを弾かずにはいられない。
自分一人のことならば、さっさとこんなことはやめてしまうものを。
一方で、やめられない欲望が不安がる。こんなことさえもうすぐにもできなくなるかもしれない。とりあえず音楽することすら、敵に取り上げられる日が近いかもしれない。私はピアノを弾くモーツァルトを思い浮かべながら硬い机にうつ伏そうとして、ハッとする。すぐに視点はつまらない現実を的にする。ハイドンの課題。
一年間の留学の約束だ。今年の暮れには選帝侯が私をボンに呼び戻すだろう。
ボンのみんな、と言っても最後には数人しか残らなかったが……私の真理への思慕が続いているものと信じている彼らに会いたい。
ここウィーンの住人は少しはマシかと思っていたが、変わらない。革命に呆けた人間ばかりだ。
そして私はここで、そんな彼らの馬鹿馬鹿しい生活の装飾をして日々をつないでいる。
だが、今すぐやめてしまいたいような生活にウンザリしても、弾かずにはいられない。彼女の匂いの染み付いたこの町で、彼女の気配をしっかり感じ取っても、それだけでは足りないのだ。肉体を失い、もう音符一つ書けない彼女のために、恨みと憎しみ以外に何が表せるだろう。今の私は、そのためだけに生きているようなものなのだ。
そしてついたあだ名が『悪魔』。ここでもまた私は悪をなすり付けられた。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




