1-13.モーツァルトの死
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
一七九一年、十一月末。
「ぜひ、君に入ってほしいんだよ」
と、ぼくが決意を新たにしてから数日も経たないうちに、久々に立ち寄った「ツェーアガルテン」で、読書協会のメンバーに囲まれた。彼らの言うことはいつも決まっていて、ぼくに協会に入れと言うのだ。これは初めてのことではない。以前からしつこく言われていたのだが、そのたびに断っていた。
彼らは今日こそはと思ったのだろう。わりと上層部の連中が来ていた。こっちもそろそろ決着をつけたかったからちょうどいい。
「理想の団体だ。有力者たちは皆入ってる。悪いことは言わない。君も入っておきたまえ」
今までは音楽教師のネーフェやワルトシュタイン、アヴェルドンクをはじめとする大学時代の仲間たちなどが一緒だったから、あまりひどい断り方はできなかった。だが、今日は幸運にも彼らはそばにいない。この機会を逃す手はない。
「ぼくは嫌ですね」
「なぜだね?」
「真実が見えなくなるからです」
「そんなことなら心配することはない。この団体は、一人一人の価値観を認め、その可能性を最大限に引き出すことを目的にしている友愛団体なのだから」
彼らはいつもの決まり文句を言ってやまない。そこでぼくは言った。
「この際、はっきり言わせてもらいます。申し合わせて手を組むなんてのは、所詮お互いの依存心の成れの果てでしかない。いずれ、目的のためならそれぞれの真実なんてどうでもいいことになる」
ここまで言えば遠のいてくれるかと思ったが、かえって相手の低俗さを刺激してしまったようだ。
「どうやら君は、ずいぶん誤解しているようだね」
「そうでしょうか?」
「そうとも。これはすべての人間の幸福のための団体なんだ。実際、この世界は考え方が様々な人間が所狭しとひしめきあって同居しているような状態で、それが原因のいがみ合いも少なくない。だが、それではいつまで経ってもこの地上から戦争がなくなることはないだろう? だからと言って、何か一つだけの考えに統一しようと思って誰かが一所懸命布教したとしても、それは他の考えを認めていない無礼な行為になる。大きなことで言えば、たとえとしては古いが、宗教を見てみたまえ。一つの宗教に帰依した者は、もうそれ以外の宗教を受け容れることはできないのだ。それと一緒だ。
我々は、そういった人間の分断、宗教の分断を、非常に憂いでいる。どうにかしたいと考えている。
ベートーヴェン君、君はカトリックだったね。今さら他の宗教を押し付けられても困るだろう? それは他の宗教徒にしても同じだ。そういう理屈で、一人の人間として、すべての人類は独立しなければならない。そしてその魂の違いをむしろ素晴らしいものとして互いに認め合えればいいんだ。そうすれば争いなど起きなくなる。全世界の幸福の実現のために、我々とともに勇み立とうではないか」
ぼくは、話を聞いていて、彼らの言うことが分かった。理想的なことだと思った。だが、彼らは、ぼくを見下し、ぼくをカトリックだなどと言うのだった。そこまでの人間ではないと判断しているわけだ。
そこでぼくは腹に怒りを溜め、こんなふうに切り返した。
「それは誰の考えですか?」
「は?」
「発案者とならお話ししたい」
彼らは面食らったようだった。
「私たちとは話したくないと?」
「とんでもない」
ぼくは手を横に振った。
「あなたの意見ならば聞きましょう。せっかくあなたに会ってるというのに、他の人の意見をくどくどと代弁されるので、退屈でした」
すると彼は相当に気分を害したようだった。
「いったい、君は何が言いたいんだね?」
「あなたはどう考えておられるのですか?」
「何をだ」
「たとえば、この世で一番大切なことはなんだとお考えですか?」
「もちろん神を敬うことだ。カトリックだからな」
「今度はカトリックの代弁ですか。いい加減にしてください! もう帰ります」
ぼくは席を立った。
「それと、ぼくはカトリックじゃありません。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンです」
と、最後に重要なことを言い加えて店を出た。
「下手に出れば付けあがりおって! 若造が」
と店をはみ出してその男の怒号が響く。
そら見たことか。いくら綺麗事を言っても、他人の真実など容易に受け止められはしないのだ。
読書協会は確かに宗教団体などではない。だが、開祖に相当する発案者はいる。その発案者の周りをうろちょろしているのは宗教の開祖に集る信者と同じことだ。
宗教というものに対しては、嫌悪感しか持っていない、と断じたいが、最近は、昔の良き文化として捉えることができるようになってきたところだった。ボン大学で知ったが、どの宗教も、一つの真理の見方として奥深いものがあると思う。問題なのは宗教団体というもの、および信者という在り方で、信者と宗教の話をするほど馬鹿げたことはない。解釈の個人差を楽しむゆとりでもあれば話は別だが、そんなに暇でもないなら、発案した教祖に直接話を聞くに限る。その方が誤解がなくて良い。
まったく信者というのは実にくだらないものだ。教祖の言うことに、そうだそうだと手を打ち鳴らして付いて回るだけの金魚の糞だ。しかも、自分だけがそうなっているならまだしも、他の人間にまで糞になれ糞になれと勧めて回る。
そうではなく、誰もが金魚になるべきなのだ。
すべての団体は、人間の本来の働きを忘れさせる単なる馴れ合い集団に過ぎない。宗教も組織も家族も、あらゆる集団がそうだ。ただ安心したいがために、とりあえず何かに加わりたいという甘えの末に設定されたごまかしだ。教会も宮廷も売春宿も変わらない。
自ら進んで入らなくても、入りたくなくても、入らされてしまう。この世界の仕組みは、どう生きようともすべての個人に団体に所属することを強い、そして、その中でジワジワとあるいは瞬時に、人権を奪っていく。
そんな世界で、ぼくは子どもの頃からまるっきり不当な暴力を、なんの弁解も許されずに全身に浴びせられ続けてきた。そのたびに無言の反論を腹に溜め込んできた。
そうだ、ぼくは遠い昔、とっくに選んでいた。ぼくの精神を殺す設定を課した世に反して、ぼくは生きたかった。生きたいと、生きたいと叫んだのだ! 度重なる責め苦にあってもその気持ちは消失せず、ぼくの内で逆に大きく強く膨れ上がった。
このままいくと、そのうちぼくの居場所はなくなってしまうだろう。地上はすべて敵地となる。今はまだ朧げだから隠れて居座っていられるが、それがはっきりする日が刻々と迫っている。ぼくが唱える「真実」という言葉に、世という敵が牙をむくのだ。
なんと敵の多いことだろう。伝統という名の支配者が持つ軍隊の多さよ! ただ、救いがあるのは、彼らははじめからそんなものに忠誠を誓っていたわけではない、ということだ。伝統という権力のもとに無理に従わされただけなのだ。
本当は、人の数ほど真実がある。ならば、人はそれぞれ個別に神を持てばいい。いや、そんな有るか無いかも分からないような幻を頼らずとも、自分自身が神になればいい。なんのために一人一人に肉体が与えられているのか。自力で本当のことを知るためだ。本当の正しさを追究することこそ、人間の真の働きなのだ。
ああ、皆がこの働きに目覚めたならば、見えてくる人間の可能性の深さはどれほどであろう。誰もが自分の領域の仕事を確実にこなすことを推し進めたなら、こんな地べたではなく、遥か高い場所に辿り着けるに違いない。そのときこそ、自らの働きを終えた者同士、最も有意義に手を取り合うことができるのだ。
だが、その日はなんと遠いことか。まだほとんどの者たちが人間本来の働きに目覚めていないのだ。
「音楽をやめる?」
ブロイニング家で決意を告げると、その場にいたワルトシュタインがまず叫んだ。
「お父上のことでか?」
「いや、彼は関係ない」
「それならいったいなんなんだ! 読書協会と対立したからか?」
「違うよ」
ぼくは興奮して詰め寄る彼に、落ち着いて言った。
「ぼくにとって、真理の他に当たり前のことなどないからさ」
「ルイ、おまえの言うことは難しいよ。もっと分かるように言ってくれないか」
「ぼくの音楽にはなんの価値もないんだ。このままだらだらと続けるわけにはいかない」
ぼくははっきり言った。
「自分ではそう感じるときだってあるかもしれない。だが、君の演奏は、それはもう世界のどこにも類を見ないほど感動的なものなんだ」
ワルトシュタインは必死でぼくに言って聞かせる。
「自分で分かっていなくてもいい。分からないからこそ美しいことだってあるんだ。そういう深淵な、神秘的な、強力な力が、君の演奏にはある!」
と。ブロイニング家の人たちも口々にワルトシュタインに同意する言葉を放つ。まるで世界の終わりが来たかのように悲劇的に叫ぶ。だが、ぼくは首を横に振った。
「納得いかないことには決してうなずかない。つまり、今後ぼくがうなずくことは決してないということだ。なぜなら、今の世は明らかに間違っている。自分を殺さねば暮らしていけない毎日しか、人の世は生み出さない。ぼくは、今皆が言っているように、貴族中心の世が悪いのだ! などとは言わない。貴族も平民も関係ない。人の関わるところに善きものはない。人が作り出す世というものは、ただそれだけで汚濁したものなのだ」
「そんなことはない。革命はより善き世界を作り出す」
ワルトシュタインはそう言い切る。
「君は分かっていない、ワルトシュタイン。革命など、新しい馴れ合いが生じる理由にしかならない。誰もが幸せになるためには、自分の幸せだけを考える人間が一人もいなくならなければならない。だが、どこもかしこも自分の幸せしか考えない者ばかりだ。並び立つ、ということがどういうことなのか、分かる者など、まだどこにもいないだろう。人間が根本的に改心しなければ、なんの改善にもならないのだ」
「ルイ」
「だからと言ってこの革命になんの期待もしていないわけじゃない。古くから続く数え切れないほどのしがらみを全撤廃できれば、大したものだ。全人類がそれぞれの責任でそれぞれの思想の確立に全力を注げるように、真の意味での精神の自由を実現させる世に近付けてほしい。そして真理への誤解をなくすのだ。まずは自己確立し、そのあと意見交換し、完全理解を達成すること。それしか、全人類をより高める道筋はない」
ここまで言うと、やっと彼らは黙った。
そうだ。脳の肥大化、複雑化という忌まわしい進化を遂げた、人型の者どもよ。たとえ周囲の者すべてが間違いだと言っても、くだらないと言っても、否定されればされるほど、それを固く掴んで離すな! それはおまえだけの持つ真理の手がかりである。そのわずか一画も失われるべきではない。それは人が人になるために必要なものなのだ。
人よ、人であるからには働き続けよ。いつか神となる日に、おまえに会えることを楽しみに、ぼくはこれから旅立つ。
「お願いだ、兄貴。行かないでくれ」
荷造りをしていると、上の弟のカールが訴えてきた。直接告げていないことを彼が知っていたのは、誰かから聞いたのだろう。
「どうした?」
「今行かないでほしいんだ。親父は具合が悪いし」
「彼を父と呼ぶなと言ったはずだ」
「ぼくたちじゃどう面倒見ていいのか……」
「面倒なんか見なくていい」
「そんなことできないよ」
彼があまりに切羽詰まった顔をして言うので、ぼくは荷を作る手を止めるしかなかった。
「本当は、ぼく自身が兄貴に行ってほしくないんだ」
「もう決めたことなんだ」
ぼくは彼に言って聞かせた。
「ぼくは今まで、おまえたち二人に満足な教育を受けさせてやりたいと、そのことばかり考えてきた。だが、自分が大学に通ってみて、大したことはないと分かったし、それにもうぼくがいなくなっても生活に困るということもないだろう。おまえたちはもう自分で稼ごうと思えば稼げる歳だし、ここ数年のぼくの年収も溜め込めるだけ溜め込んである」
ぼくのここ数年の年収は四五〇フローリンだったが、これを超える年収は楽長とコンサート・マスターくらいしかもらっていない。この高収入のおかげでこれまで一家を養うことができたのだ。
「そんなの関係ないよ。せめて、年が明けるまでいてくれないか」
「いや、もう限界なんだ」
ぼくは彼の目を見ながら、荷造りの続きをする。
「おまえもいつか、ぼくと同じことをしてほしい。動物や植物の真似をしても敵いっこないんだから、人は人として生きていかなくてはならないのだ。動物は大いなる清らかな愛の中で回っている。食べては食べられていく。だが、人間は、マズいんだよ。たぶん。その中に入れてもらえない。肉では勝負できない。だからぼくたちは、人のみが与えられているもの、つまり精神をもって施すしか道がないんだ」
「兄貴!」
「大自然と違って汚れている人間だが、大自然を超える術がたった一つだけある。それが芸術の業だ。おまえにも、いつか芸術家になってもらいたい」
ぼくの言葉に、カールはその素直な心を開いてくれたようだった。
「おい、ルイ!」
そのとき、突然ワルトシュタインが興奮した調子で家に駆け込んでくる。
「来たるべき時が来た! 次はおまえの時代だ」
と彼は言った。なんのことか分からずにいると、彼は呼吸を整え、冷静になって、こう言った。
「モーツァルトが死んだんだ」
それは、一七九一年十二月になってまもなくのことだった。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




