第4話 峠の送魔線 後編
峠の空は、また曇り始めていた。
西の山腹から、薄い霧が上がってくる。
霧が出る前に、石垣から接地導魔線を離す必要があった。
マルカは小屋の棚から、割れた白冠陶を三つ、古い煌銅留め具を二つ、細い板切れを数枚持って戻ってきた。
「こんなのが見つかったけど」
「十分です」
レンは白冠陶片を見た。
角は欠けているが、表面はまだ滑らかだ。
接地導魔線と煌銅留め具の間に挟むなら使える。
リゼは階段で石垣の根本まで下っていた。封塵噴霧器を取り出し、封瘴井の蓋縁と泥詰まりへ、細かい霧を落とした。
乾きかけていた泥の表面が、ゆっくり黒く湿る。
粉として舞いそうだった部分も、重い塊としてまとまり始めた。
「乾いたまま拭こうとすると、表面が崩れて舞います」
リゼが言った。
「まず湿らせます。大きな泥は雑布で拭って、雑布ごと封瘴袋へ。最後に、蓋の上面だけ吸瘴布で一方向に拭きます」
「ぜんぶ吸瘴布ってやつで拭くんじゃないんだ?」
「大きな泥を取るたびに使うと足りません。仕上げ拭きに使います」
封瘴井の蓋を拭きはじめたリゼと話しながら、マルカも作業を始めた。
マルカは作業足場を組むことにした。
三脚櫓を立てるには、石垣の下の地面は狭く、固さも足りない。
そこで、太い木へ主縄を回し、石垣上の古い環金具から補助縄を垂らして、細い吊り板を石垣の斜面に吊るす。
「金具からの縄は、二本でお願いします」
レンが言った。
「え、二本?」
「右側の石が濡れています。金具が外れてしまうかもなので、別の金具からもう一本要ると思います」
マルカは少し目を細め、吊り板を揺らした。
板は、右端だけがわずかに下がる。
「ほんとだ。嫌なとこ見るね」
「すみません」
「褒めてるって」
彼女はもう一本縄を取り出し、石垣の上のレンに渡した。レンは別の金具を見つけて補助縄を垂らした。
リゼが横から言った。
「作業後、工具は封拭きしてください。石垣側に触れます」
「了解」
マルカは頷き、工具袋の口を締め直した。
さらに、リゼはマルカの肩に掛かっていた縄束を一度止めた。
「活線疑いの接地導魔線に触る作業です」
「何か着るってことね」
「はい、前と同じです。山小屋の雨天用コートを借りてください。手袋も、普通のもので構いません。口元には布を巻いてください」
マルカは雨天用コートを羽織り、手袋をはめた。リゼから渡された保護眼鏡をかけ、口には薄い布を巻く。
「本式ではありません。作業後に、コートも手袋も口布も測ります。反応があれば封瘴袋へ入れます」
「今日も、細かい」
「必要です」
オランは、その一連の手順を黙って見ていた。
最初の不機嫌はまだ残っている。
だが、彼らが「計器は正常だ」と言われて引き下がるだけの者ではないことは、伝わり始めているようだった。
レンは、接地導魔線の巻き付け部を見た。
二巻き。
内側の一巻きは、錆と泥に半分埋まっている。
いきなり外すと、残瘴したものがこぼれ落ちてしまう。
「マルカさん。外側からです。内側は、封瘴布で包んでから外してください」
「分かった」
マルカは工具をかけた。
その瞬間、レンが接地導魔線に当てている測定針が小さく跳ねた。
危険値ではない。
だが、針の収まりが遅れた。
レンは一歩、前へ出かけた。
巻き付け部の奥を、もっと近くで見たい。
内側の錆の下に、残瘴がどこまで入り込んでいるか見たい。
「待ち!」
マルカの声が飛んだ。
レンの足が止まる。
あと半歩で、濡れた石垣の真上に足を置くところだった。
マルカは吊り板の上から、こちらを見ていた。
「見るのはいいけど、落ちたら見えないよ」
マルカの声は、からかっていなかった。
リゼも、記録板から顔を上げた。
「近づけば見えるものは増えます。ですが、測る人が倒れれば、記録は途切れます」
静かな言葉だった。
レンは足を戻した。
「ごめん。今の位置から見ます」
その時、初めて、レンは自分の癖をはっきり意識した。
見えると、近づいてしまう。
近づけば、もっと見える。
だが、瘴気事故を防ぎたい人間が、瘴気じゃない事故には自分から入ってしまって説得力があるのか。
見つけることと、止めることは違う。
誰かが声に出して止めなければ、止まらない。
マルカの「待ち」は、ただの声だった。
紙でもなく、規格でもなく、まだ名前もない。
だが、いまレンの現場を止めた。
「続けるよ」
マルカが言った。
「……はい。外側の一巻きを緩めたら、そこで一度止めてください」
「了解」
外側の一巻きが外れる。
リゼが測る。
「石垣表面、微増。空気中、低。峠道側、変化なし」
「内側は、封瘴布を巻いてからです」
レンが言う。
マルカは片手で封瘴布を受け取り、古い巻き付け部へ通した。
器用だった。
吊り板の上で、片手で縄を取り、片手で布を回す。村の水車場で育った手だ。
内側の線を、ゆっくり切り離す。
接地導魔線が鉄のかすがいから離れた瞬間、石垣の黒い苔が濡れた風に揺れた。
リゼの声が鋭くなる。
「石垣表面、反応上昇。空気中は低。布を当てたまま、線を浮かせてください」
「浮かせるって、どこへ?」
「上へ半尺。白冠陶片を挟み、煌銅留め具で押さえます」
レンが答えた。
「直接、煌銅へ触れさせないでください。白冠陶片が先です」
「はいよ」
マルカは白冠陶片で接地導魔線を挟み入れ、煌銅留め具でその外側を押さえた。
言葉にすれば単純だ。
しかし、濡れた吊り板の上で行うには、十分に難しい。
マルカは最後の留めを締めた。
「固定。どう?」
レンは測定針を見た。
針が揺れる。
中心へ戻る。
さっきより早い。
「反応の収まりが早くなりました」
リゼも続く。
「石垣表面、低下。空気中、低。巻き付け部の反応、低から中弱未満。完全ではありませんが、流出は抑えられています」
マルカは吊り板の上で大きく息を吐いた。
「じゃあ、落ちてないし、ひとまず収まったってことで」
「まだです」
リゼが即答した。
「工具の封拭きと、靴裏の泥回収があります」
「了解。工具と靴ね」
マルカは素直に返事をした。
リゼは短く頷き、使用済みの布を入れる封瘴袋を広げた。
「使った工具は、こちらです。布で拭いたら、袋の外側に触れないように置いてください」
マルカは、吊り板の上で工具を持ち替えた。
*
封瘴井の蓋まわりから出た泥は、湿らせた雑布ごと小さな封瘴袋へ入れた。
最後に、リゼは蓋の上面を吸瘴布で一方向に拭き、その布も別の封瘴袋へ入れる。
リゼは袋の表に、場所、時刻、測定値、作業者を記録する。
マルカは石垣側に、短い板札を立てた。
雨の日は石垣側に立たない。
灯小屋の壁に背をつけない。
封瘴井の泥を乾かさない。
長い、と言いかけて、彼女は自分で線を引いた。
「うーん、これだと読まないね」
別の板に書き直す。
雨の日、石垣側に立つな。
そして、その下に小さく書く。
息が重い時は、灯小屋から離れる。
レンはそれを見た。
「短いです」
「短い方がいいでしょ」
「はい。でも、小さな理由も残っています」
「じゃあ、これでいい?」
「はい。読めます」
マルカは満足そうに板札を打ち込んだ。
オランが、新しく付けた配線留めと、泥を取った封瘴井の蓋縁を見比べていた。
「これで、直ったのか」
「応急です」
レンは答えた。
「本復旧は、今日ではなく、乾いた日にしてください。封瘴井の井口まわりは泥を除き、蓋を直す必要があります。それから、封瘴井まで接地導魔線を導く配線留めを決めてください。この小屋の裏は、煌銅留め具と白冠陶片を組み合わせた方がいいです」
「金がかかる」
「事故の方が高いです」
レンの声は、少しだけ硬くなった。
オランは反論しなかった。
マルカが、横から少しだけ柔らかく言い足す。
「全部いっぺんに替えなくてもいいよ。まず封瘴井の蓋。次に、封瘴井まで接地導魔線を導く配線留め。カルネの送魔番に材料を聞いて、金物屋に触らせるなら、せめて紙に描いてから」
「紙に描けるか」
「描ける人を呼べばいい」
レンは、これまでの自分と重ねて聞いていた。
ノルク村では、現場の言葉に直す人が必要だと知った。
ベルノでは、症状を消さない人が必要だと知った。
この峠では、声に出して止める人が必要だと知った。
自分に出来ないことがあれば、出来る人に協力してもらえばいい。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
レンが言うと、マルカは少し照れたように肩をすくめた。
三人は、荷馬車が止まっていた場所に戻った。
リゼが旅人の方を見る。
旅人は、胸の重さが少し引いたらしい。
顔色はまだ悪いが、呼吸は整っている。
「軽い瘴酔です。今日のところは、灯小屋ではなくカルネ宿場で診てもらってください」
「カルネに、診られる人がいるのか」
御者が訊く。
「送魔番と宿の者へ、この記録を渡します」
リゼは控えの紙を一枚切り、短い記録を写した。
旅人。
白石峠灯小屋で一夜休息後、胸重感。
軽い瘴酔の可能性。
水は少量。無理に歩かせない。
夜まで症状が残るなら、送魔番へ。
御者は紙を受け取り、しげしげと見た。
「細かいな」
「必要です」
リゼは淡々と答えた。
リゼが記録板を閉じる。
「そろそろカルネへ向かうべきです。旅人も、宿場で休んだ方が安全です」
御者が頷いた。
ロバは、さっきより落ち着いていた。
石垣側を避けるように、道の外側へ回れば、ゆっくりと歩き出す。
「ロバ、やっぱり賢いね」
マルカが言った。
御者は今度は怒らなかった。
*
白石峠を下る頃、雲の隙間から薄い日が差した。
雨に濡れた石はまだ滑る。
だが、峠の上にあった重い空気は、少しだけ薄くなっていた。
レンは歩きながら、野帳に一行を書いた。
危険を見た者ほど、危険に近づく。
だから、声に出して止める人がいる。
長い。
だが、日誌には残しておきたかった。
リゼが横から覗き込んだ。
「今の一行は、今日の要点ですか」
「はい」
マルカが後ろから顔を出した。
「短くするなら、『待ちって言え』かな」
「それは少し乱暴です」
リゼが言った。
「でも、効くよ」
「効きますが」
レンは少しだけ笑った。
下り道の先に、カルネ宿場の屋根が見えた。
峠を越える旅人たちが泊まる、小さな宿場だ。
軒先の送魔灯は、昼の薄い光の中で静かに消えていた。
御者の荷馬車は、ロバの歩みに合わせてゆっくり先へ進んでいる。
荷台の横の旅人も、まだ顔色は悪いが、先ほどよりは呼吸が整っていた。
「今日は、あそこで休ませた方がいいですね」
リゼが言った。
「はい。峠の灯小屋へ戻すより安全です」
「カルネの宿に、さっきの控えを渡します」
「お願いします」
マルカは峠の方を振り返った。
「村、鉱山、峠。どこも違うのに、結局、見落とされるところは似てるね」
「はい」
レンは頷いた。
小さな井戸の接地。
排水ポンプの霧。
雨に濡れた石垣と、錆びたかすがい。
場所は違う。
だが、どれも、規定内や疲労や古い設備という言葉の下に押し込められかけていた。
危険を見つけるだけでは、事故は止まらない。
症状を消さない人がいる。
現場の言葉へ直す人がいる。
声に出して止める人がいる。
そのことを胸に置いたまま、三人はカルネ宿場へ向かって歩き出した。
宿場で一晩休めば、道は領都グラントールへ続く。
レンはまだ知らなかった。
小さな現場で拾ったその三つが、紙と許可と責任の形を求められるようになることを。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




