第5話 領都グラントール
領都グラントールは、遠くからでも分かった。
最初に見えたのは城ではなく、塔だった。
白い冠石門塔が、街の外縁に沿って立っている。だが、王都の塔列のように整ってはいない。石柱の高さも、横梁の向きも、冠石碍子の数も少しずつ違う。新しい冠石碍子列がある一方で、古い灰色の碍子を継ぎ足した塔もある。
街の南側には、水門が見えた。
水路が三本、石造りの門をくぐって街の内側へ入っていく。その周囲だけ、地面の色が暗い。水と人と荷馬車が絶えず通る場所なのだろう。
東には工房街の煙。
北には市場の布屋根。
西には低い揚水小屋と、細い水路。
グラントールは、王都ほど大きくはない。
だが、小さくもなかった。
ノルク村の井戸でも、ベルノの排水ポンプでも、白石峠の小変魔所でもない。
街全体が、違う時代に作られた小さな現場を、無理に縫い合わせているように見えた。
「うわ」
マルカが、街道の坂の上で足を止めた。
「水車小屋が何十個もあるみたい」
「水車小屋ではありません」
リゼが言った。
「分かってる。けど、そう見える。あっちで煙、こっちで水、向こうで灯。全部別々に勝手に回ってる感じ」
「その感じは、たぶん合っています」
レンは答えた。
街へ下る道の脇には、古い案内板が立っていた。
北市場灯火線。
旧水門戻し。
工房街南補助魔流。
西外縁揚水線。
南外縁送魔塔更新工事。
外周送魔環仮設予定地。
文字は書き足され、削られ、上から別の板が打ち付けられている。
同じような線を、別の部署が別の名で呼んでいる。
レンは、その時点で少し嫌な予感を覚えた。
現場の異常は、まず名前から散らばる。
同じものに違う名前がつき、違うものに同じ名前がつく。すると、後で誰かが記録を読んでも、どの線がどの線だったのか分からなくなる。
「レン」
マルカが横から言う。
「また何か書きたそうな顔してる」
「書きます」
レンは野帳を開いた。
グラントール南外縁。案内板、線名不統一。旧水門戻し、北市場灯火線、工房街南補助魔流、西外縁揚水線、南外縁送魔塔更新工事、外周送魔環仮設予定地。要照合。
リゼが横から覗き込む。
「名前が違うのは、危険ですか」
「すぐ事故になるとは限りません。でも、止める時に遅れます」
「どの線を止めるか分からないからですか」
「はい。あるいは、止めたつもりの線と、実際に動いている線が違ったりして」
リゼは少し考え、自分の記録板にも短く書いた。
線名不統一。
症状記録と照合時、現場名も残す。
マルカがそれを見た。
「二人とも、街に入る前から紙が増えてる」
「紙が増える前に、名前をそろえたいです」
リゼは真面目に答えた。
「それが紙を増やすやつだよ」
マルカは笑ったが、すぐ街の方を見た。
「でも、たぶん必要なんだろうね」
*
グラントールの門前は、騒がしかった。
商人の荷馬車、工房の徒弟、野菜を積んだ小車、水桶を担いだ女たち、鍛冶場へ向かう炭俵。門の横には、低圧送魔灯が二つ点いている。昼間なのに点いているのは、門番の詰所が暗いからだろう。
片方の灯は青白い。
もう片方は、やや黄ばんでいた。
レンは足を止めかけた。
「見るだけだよ」
マルカが先に言った。
「はい」
リゼは、少しだけ目を伏せてから、灯の下の床を見た。
「灯具下、表面汚れ。測りません。見るだけです」
マルカが笑う。
「リゼも言うようになった」
「必要な確認です」
門番は三人のやり取りを不審そうに見た。
「旅人か」
「送魔技師です」
レンは答えた。
「王都からか」
その言葉に、レンはわずかに呼吸を止めた。
マルカが横から明るく言う。
「今は旅の送魔技師。ノルクとベルノと白石峠の記録を持ってる」
「記録?」
「送魔局へ届けたいんです」
リゼが、油引き布に包んだ紙束を示した。
門番は、面倒そうな顔をした。
「送魔局なら、中央通りをまっすぐ行って、水門庁の手前を右だ。だが、飛び込みの技師をすぐ通すかは知らんぞ」
「通してもらうために行きます」
レンは言った。
門番は肩をすくめ、通行札へ印を押した。
「なら、送魔局で揉めてくれ。門では揉めるな」
「揉める予定はありません」
「そう言うやつほど揉める」
マルカが小さく笑った。
「分かってるね」
「揉めません」
リゼは真顔で言った。
門番は三人を見比べ、何か言いたそうにしたが、結局手を振った。
街の中は、さらに分かりにくかった。
北市場の屋根の下では、灯火用の低圧線が布屋根の縁を這っていた。雨を避けるためだろうが、水桶の列と近い。市場の者は慣れているらしく、誰も気にしていない。
工房街では、煙と煤で碍子が黒ずんでいた。
そこだけなら、汚いが自然に見える。だが、工房の裏手では、白い新しい導魔線が古い蒼銅線へ継ぎ足されていた。継ぎ目の札には、工房組合の印だけがあり、送魔局の封札はない。
西へ向かうと、水路の近くに揚水小屋がある。
湿っている。
床板は古く、番人が水位板のすぐ横に腰かけている。
南へ目を向ければ、水門庭園と呼ばれる大きな庭園が見えた。その向こうに細い接地導魔線のようなものが見えるが、古い案内板に書かれていた線のどれかなのだろう。
どこへつながっているのかは、遠目には分からない。
「多いな……」
レンは思わず言った。
「何が?」
「見る場所が」
「それは街だからね」
マルカは当然のように答えた。
当然。
その言葉が、少し怖かった。
村なら井戸を見ればよかった。
鉱山なら排水ポンプを見ればよかった。
峠なら灯小屋と石垣を見ればよかった。
グラントールでは、すべてが同時に動いている。
灯、揚水、工房、治療院、水門、市場。
どれか一つを止めれば、別の場所が困る。
どれも古く、どれも生活に食い込んでいる。
送魔をなくしたいわけではない。
瘴気事故をなくしたい。
その考えは、ここでも変わらない。
ただ、急に難しくなった。
リゼが、記録板を抱え直した。
「症状の記録も、町全体では拾いきれません」
「はい」
「診療所が複数あります。市場にも薬師がいます。工房街にも労務小屋があります。もし軽い瘴酔が散っていたら、同じ紙には集まりません」
「設備側も同じです」
レンは言った。
「水門、工房、市場、そして送魔局。線の名前が違うということは、たぶん全部が別の紙を持っている」
マルカが、少し嫌そうに顔をしかめた。
「紙の山だ」
「紙の山なら、まだよいです」
レンは言った。
「問題は、山が別々に置かれていることです」
*
グラントール送魔局は、水門庁の隣にあった。
正式には、エルデン領送魔局グラントール本局という。領内全体の送魔行政を扱うエルデン領送魔局の本局だが、街の者も局員も、普段はまとめてグラントール送魔局と呼んでいる。
王都送魔局ほど大きくはない。
だが、書類の量は少なく見えなかった。
受付の背後には、系統図が三枚掛けられている。
それぞれ、同じ街を描いているはずなのに、線の名前が違う。一本目は市場北口を中心に描き、二本目は水門を中心に描き、三本目は工房街だけを大きく扱っている。
机の上には、封札の束、台帳、苦情控え、工事許可願、資材出庫票が積まれていた。
レンたちが名乗ると、受付の女は一度奥へ行き、ほどなく若い技官を連れて戻ってきた。
若い技官は、両腕で文書箱を抱えていた。
箱の上には、さらに薄い台帳が三冊載っている。
早足で近づいたため、一番上の台帳が、少しずれた。
「あ」
マルカが声を出す前に、若い技官は足を止め、頬で台帳を押さえ直した。
危なっかしい動作だったが、落とさなかった。
「失礼しました」
彼は息を整え、箱を机へ下ろした。
「エルデン領送魔局、技官補のカルム・ヴェイスです。局長代理が、まず記録を見たいと」
「局長代理……」
レンが繰り返す。
「ガルト・リーヴェルです」
カルムはそう言って、三人を奥の小会議室へ案内した。
小会議室には、すでに一人の男がいた。
四十代半ばほど。
厚い肩と、短く整えた髪。机の上には、開いた台帳が一冊と、その横に封蝋の割られていない束が四つ並んでいた。
「ガルト・リーヴェルだ」
ガルトは名乗り、静かに記録を読み始めた。
読み終わった後、三人を順に見た。
「レン・アルバート」
「はい」
「王都送魔局を追われた技師補。ノルク村、ベルノ、白石峠で応急処置に関わった」
レンは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「リゼ・カトル」
「はい」
「ベルノの診療所付きで、測瘴と症状記録を担っている」
「はい」
「マルカ・ノルク」
「はい」
「職人か」
「水車と木工と、縄なら少し」
ガルトはマルカからレンへ視線を戻す。
「何しに来た……は愚問だな。送魔技師が飛び込みで来る時は、仕事が欲しいか、仕事を止めたいかのどちらかだ」
「仕事を止めに来たわけではありません」
「では、欲しいのか」
レンは少し迷った。
仕事が欲しい。
それも嘘ではない。
王都を追われた以上、どこかで技師として働かなければならない。旅を続けるにも、資材も宿も必要だ。
だが、それだけではない。
「事故を止めるために、働く場所が必要です」
ガルトは、しばらく黙っていた。
「大きく出たな」
「大きく言いすぎたかもしれません」
「いや」
ガルトは台帳を閉じた。
「この街では、そのくらい言う者でなければ、たぶん紙の下に埋まる」
ガルトはカルムへ向いた。
「カルム」
「はい」
「説明員としてつけ。外縁図、水門台帳、工房街負荷控え、市場灯火苦情帳を持て」
「承知しました」
「それと、現場へ出る時も同行しろ。紙だけ見せるな。現物も見せろ」
カルムは、一瞬だけ緊張したように背筋を伸ばした。
「はい」
ガルトは三人へ向き直る。
「採用するとは言っていない。まず見るだけだ。こちらも外部者をいきなり送魔局の内側へ入れるわけにはいかん」
「分かっています」
その答えを聞いた後、一息置いてからガルトは聞いた。
「最初に聞く。王都送魔局が提案している零偏補償は、零偏環で漏れまで拾えるという触れ込みだが、この街に使えるか」
レンはすぐに答えなかった。
グラントールへ入る前に見た案内板。
市場の水桶。
工房街の煤。
西外縁の水位板。
旧水門戻し。
線名の不統一。
それらが頭の中に並んだ。
「式だけでは、使えません」
ガルトの目が、わずかに細くなる。
「王都で騒がれている式だろう」
「式としては有効です。甲乙丙の乱れを、どこへ逃げる偏りか、どの向きの濁りかへ分けられます」
「なら使えるのではないか」
「その前に、どの線を測っているのかをそろえなければなりません。湿り、旧線、症状、負荷、現場名。そこが散ったままでは、式に入れる値の意味が変わります」
ガルトは短く息を吐いた。
「王都から来た若い技師が、式ではなく紙の整理を先にしろと言うとはな」
「紙だけではありません」
レンは言った。
「紙と現物です」
ガルトは、カルムを見た。
「聞いたか」
「はい」
「お前向きの仕事だ」
カルムは少し困った顔をした。
「私だけでは、現物が」
「だから説明員としてつける」
ガルトは机の上の封書を一つ開いた。
「求人を見て来たなら知っているだろうが、まずは、グラントール南外縁だ。外周送魔環の基本設計はある。だが、確認しなければならない場所が多すぎる。水門課、工房組合、市場組合、職人組合、送魔局。全部が別の紙を出している」
カルムが文書箱から紙束を出した。
南水門旧戻し確認。
工房街南補助魔流更新。
市場北口灯火苦情。
西外縁揚水線点検。
外環仮設塔候補地。
資材不足一覧。
封瘴井再点検願。
机の上に広げただけで、もう端が重なった。
マルカが覗き込む。
「長いね」
「必要な紙です」
カルムが反射的に言った。
「うん。必要そう。でも、このままだと、現場の人は読まない」
「読むべきものです」
「読むべきでも、読めない時は読めないよ。荷を吊ってる時とか、雨が降ってる時とか」
カルムは口を閉じた。
リゼが、紙束の一つを見た。
「市場北口の苦情に、頭重感と目の奥の重さがあります。水桶列の位置も書かれていますが、設備側の紙とは別です」
「水桶列?」
カルムが別の紙を探す。
「市場組合の配置控えは、こちらです。ですが、送魔局の台帳には水桶列の記載はありません」
「症状の出る場所と、水桶の位置と、灯火線が別々です」
リゼは淡々と言った。
「そのままでは、照合しにくいです」
「西外縁も同じです」
レンは、別の紙を取った。
「揚水線の点検には水位板前の湿りがある。けれど、いつ、どの条件で濡れているのかがありません。ベルノではポンプの再起動の時刻で、同じ値の意味が変わりました」
マルカが、南外縁の工事図を指す。
「塔を建てる場所も、荷馬車道と水路が近いね。基礎がいけても、点検口が泥を受けるかも」
カルムが、慌てて別の図を出した。
「荷馬車道は、職人組合の別紙です。基礎位置図には、まだ重ねていません」
「重ねていないのか」
ガルトが低く言った。
カルムは肩を縮めた。
「すみません。図面の縮尺が違います。まだ……」
「謝るより、重ねろ」
「はい」
ガルトは、机の上の紙束を見た。
「お前たちには、最初に見る場所を選んでもらう」
全員が彼を見る。
「読めない紙では、現場は動かん。だが、今ここで全部を一枚にまとめろとは言わん。紙を整えるだけで日が暮れる」
ガルトは言った。
それから、レンへ向き直る。
「明日の朝、最初にどこを見るかを一つ選べ。理由も言え。どの紙を使い、どの現物を見なければならんのかも示せ」
「はい」
「お前たちの、外周送魔環の暫定調査における働きを見て、ここに入れるか決める」
条件付き。
それは、信頼ではない。
だが、排除でもなかった。
レンは頷いた。
「分かりました」
*
小会議室の窓の外では、グラントールの灯が少しずつ夕方の色に沈んでいた。
市場北口の灯。
工房街の炉の影。
水門の黒い水面。
西外縁の揚水小屋。
どれも、ただ一つの式に入れるには、あまりに現実的だった。
レンは椅子に座り、カルムの出した紙束を前にした。
リゼは症状の記録を、設備名と混ぜないように別紙へ並べる。
マルカは地図の端に、荷馬車道、水桶列、作業者の立つ位置を太い線で描き込む。
カルムは、それらがどの台帳に関わるのかを確かめるため、頁を開いている。
ここから、グラントールの仕事が始まる。
ただし、最初から全部は見られない。
まずは、どこから動くかを選ぶ。
小さな現場で拾った、伝える、残す、止めるの三つの手を、この街のどこに伸ばすのか。
その問いが、領都グラントールでの最初の仕事だった。
【一言メモ】
レンは元々「領都グラントール南外縁で、古い送魔塔の更新と外周送魔環の整備に伴う、旧設備保守補助の求人」を見てました。それが今回見せた記録と問答を通じて、外周送魔環の整備の方に関われる可能性が出てきました。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




