第6話 南水門の地下確認
翌朝、グラントール送魔局の小会議室には、昨日の紙束がまだ残っていた。
一晩で片付く量ではない。
カルム・ヴェイスが夜のうちに、外縁図、水門台帳、工房街の負荷控え、市場灯火の苦情帳を、束ごとに分け直していた。それだけでも、どの紙がどの部署から来たものかは分かる。
だが、紙の山は山のままだった。
水門課の古台帳。
外周送魔環の基本設計図。
市場北口の灯火苦情控え。
工房街南の補助魔流更新願。
西外縁揚水線の点検願。
南水門旧戻し確認の封書。
どれも、必要な紙だった。
けれど、昨日ガルトが求めたのは、これを全部まとめることではない。
最初にどこを見るか。
その理由を言えるか。
ガルト・リーヴェルは、長机の上に広げた外縁図を見下ろしていた。
「何から動く」
短い問いだった。
カルムが、すぐに紙束へ目を落とす。
リゼは記録板を抱え直す。
マルカは椅子の背に片手を置き、レンの顔を見た。
レンは、南側の水路へ指を置いた。
「南水門です」
ガルトの目が細くなる。
「理由は」
「工房街、市場北口、西外縁は、地上で見られます。煤、灯具、水桶列、水位板、荷馬車道。見ようと思えば、まず見えます」
レンは、図面の南端を指した。
「ですが、南水門だけは地下です。旧導路、沈砂槽、封瘴井、旧水門戻し。開けてみなければ分からないものが多い。外周送魔環を組んだ後でここが違うと分かれば、接地導魔線まわりの処理を大きくやり直すことになります」
「後で間違うと高くつく、ということか」
「はい」
レンは頷いた。
「南水門は街の水と送魔の境目にあります。ここを誤ると、外周側の接地処理を全部疑うことになってしまいます」
ガルトはしばらく黙っていた。
それから、カルムを見た。
「カルム」
「はい」
「南水門の現場控え、旧台帳、外縁図を持て。説明員として付け」
「承知しました」
カルムは文書箱へ手を伸ばした。
箱の上にまた台帳を積みかけ、途中で自分で止める。
「今日は、箱を二つに分けます」
「その方が落ちないね」
マルカが言うと、カルムは少しだけ耳を赤くした。
台帳を一冊ずつ箱に入れ直した。
ガルトは、レンたちへ向き直った。
「まだ採用したわけではない。南水門での働き次第だ」
「分かっています」
「勝手に開けるな。勝手に止めるな。だが、危ないと思ったら言え」
「はい」
その一言だけで、十分だった。
レンは野帳を閉じた。
*
南水門は、近くで見ると、遠目よりもずっと重厚だった。
三本の水路が石造りの門をくぐり、街の内側へ水を入れている。門の上には古い石の歩廊があり、そこから水門係が水位板と鎖を見下ろしていた。水音は大きい。地上の音だけ聞いていれば、ここはただの水利施設に見える。
だが、歩廊の脇には送魔線が走っていた。
灯火用の低圧線。
水門弁の補助動力線。
そして、本来なら封瘴井へ導かれるはずの細い接地導魔線。
水路と接地導路が、同じ石造りの下へ入っている。
「地下に入るのは、ここからです」
カルムが、油引き紙を広げながら言った。
「局内台帳では、南水門下部点検口。水門課の古台帳では、池下石槽口。現場では、下の口、と呼ばれています」
「三つも名前があるんだ」
マルカが顔をしかめる。
「はい。統一されていません」
「それ、怖いやつだね」
カルムは、少しだけ返答に詰まった。
「怖い、という表現が適切かは」
「現場では怖いでいいよ。どれを開ける話か分からなくなるから」
マルカは、石畳にある鉄蓋を足で示した。
「この蓋?」
「はい」
リゼが蓋の縁へ近づいた。
左目の簡易ミアズマ検知モノクルを下ろし、縁の湿りを見ている。
「蓋の表面は低。縁の泥は、低から中弱未満。空気中は低です」
「開けられそうですか」
レンが問う。
リゼはすぐには答えなかった。
蓋の周囲、風向き、排水の流れ、近くに立つ作業者の位置を順に見る。
「短時間なら。ただし、開けた瞬間の空気の流れに注意して、顔を近づけないでください」
「蓋は重いよ」
マルカがしゃがみ込み、蓋の取っ手を見た。
「片側が沈んでる。二人で真上に持つとこじるかも。片側を少し浮かせて、木片を噛ませて空気を逃がしてから開けた方が良さそう」
「木片なら、水門小屋にありました」
カルムが言った。
「持ってきます」
マルカは、戻ってきたカルムから木片を受け取った。
蓋の縁へ差し込み、てこのように扱う。力任せではない。石の沈みと蓋の歪みを見ながら、少しずつ上げる。
蓋の片側が、鈍い音を立てて浮いた。
湿った空気が、低く吐き出された。
リゼが一歩下がる。
「空気中、低から中弱未満。顔を近づけないでください。風は水路側へ流れています」
「中は」
レンは、覗き込みすぎないよう離れた位置を保ち、蓋の奥を覗いた。
暗い。
石段が下へ続いている。
壁は濡れ、ところどころ白い鉱粉のようなものが浮いている。底の方から、水が細く流れる音がした。
「灯を入れますか」
カルムが訊く。
「火はだめです」
リゼが即答する。
「粉と湿りがある場所で、火の灯りは避けたいです。蓄魔灯なら」
「水門課の点検灯があります」
また水門小屋に取りに行ったカルムが戻り、点検灯を下げる。
青白い光が、石段の下を照らした。
レンは、息を止めそうになり、意識して吐いた。
見える。
地下の壁に、二本の細い導路がある。
右側の一つは新しい。白冠陶製の短い縁材で囲われ、送魔局の封札が付いている。
左側のもう一つは古い。石の壁に半分埋まり、札は濡れて文字が読めない。
「古い導路が残っています」
レンが言った。
カルムが台帳を開く。
「旧導路は、封鎖済みのはずです。こちらには、三年前に閉鎖、南水門下接地導路は新封瘴井へ統合、と」
「現物は残っています」
リゼが言う。
「反応はどの程度ですか」
「距離があります。今は断定できません。ただ、濡れ方が違います。新しい導路より、古い導路の縁の方が黒い」
レンたちは口元を口布で覆いながら、下に降りる覚悟を固めた。
「降りましょう」
「私が先に見ます」
リゼが言う。
「いや、足場を見るのはあたし」
マルカがすぐに返した。
「濡れた石段で、測る人が滑ったら困る。先に下りる幅と、足を置く場所を見る」
リゼは一瞬だけ黙った。
それから頷いた。
「お願いします。私は二段上で測ります」
マルカは短く返事をし、石段へ下りた。
石段を三段下りたところで、マルカは足を止めた。
「四段目、沈んでる。右じゃなく左側に寄って通った方が良さそう」
左側は古い導路が通っている方だ。レンは言った。
「リゼさん、そこから四段目の左側寄りの箇所を測れますか?」
「届きます」
リゼが、測定プローブを伸ばす。
「四段目、低。古い導路縁、低から中弱未満。空気中、低」
「通るだけなら、危険ではなさそうですね」
カルムが台帳へ書こうとして、少し迷った。
「いまの記録は、どの名前で書けばよいのでしょうか。局内台帳では南水門下部点検口。水門課では池下石槽口。現場では下の口」
レンは答えようとして、止まった。
この混乱は、いま答えを一つ選べば済む問題ではない。
カルムがここで迷ったこと自体を、後で使う必要がある。
「今は、三つとも書いてください」
レンは言った。
「正式な名前を決めるのは、後でいい。今は、同じ場所を指していると分かるように残す方が先です」
カルムは頷いた。
「南水門下部点検口、別名、池下石槽口、現場名、下の口。古い導路縁、低から中弱未満」
マルカが下から言う。
「長いけど、今は仕方ないね」
さらに下へ進むと、石段の底に狭い空間があった。
沈砂槽。
名前だけは台帳にあった。
だが、現物は想像よりもずっと古い。水路から入り込む砂と泥を受けるための石槽で、底には灰色の泥が薄く溜まっている。新しい封瘴井側へ導く接地導路は見える。だが、その横、壁の奥へ消える細い口があった。
レンは、そこを見た。
「カルムさん。台帳に、この口はありますか」
カルムは紙をめくる。
「ありません。いえ、似たものはあります。旧水門接地導路。閉鎖済み。庭園側へ向かう旧導路、と注記があります」
レンは、古い口を見た。
塞がっているように見える。
だが、水音がある。
ごく細い。
細い灯の下、断言はできないが、底の泥の端が変色しているようにも感じる。
「閉鎖済みなら、水音はしません」
リゼが言った。
「測れますか」
「入口だけなら」
リゼがプローブを伸ばす。
「旧水門接地導路入口、低から中弱未満。新封瘴井側より、少し高いです。ただし、断定できるほどではありません」
レンは頷いた。
「それでも、ここを未確認のまま進めるのは危険です」
*
「庭園側か」
地上へ戻ると、ガルトが様子を見に来ていた。
報告を聞いたガルトが言った。
声の温度が少し変わった。
「水門庭園の管理区画だな」
「送魔局では開けられませんか」
レンが訊く。
「開けられる蓋と、開けてよい蓋は違う」
ガルトは短く言った。
「水門庭園は旧ミューレン家の寄進地だ。今は領主庁の下位部署である水門庭園管理室が管理している。だが、旧家由来の原台帳と庭園側の導路は、送魔局だけでは触れない」
マルカが、低く口笛を吹いた。
「面倒そう」
「面倒だ」
ガルトは認めた。
「だが、お前たちが気付いた通り、ここを見ずに外周送魔環をつなぐ方がもっと面倒だ」
言い方は冷たいが、今日の仕事内容は及第点だったのだろう。
ガルトはそのまま、次の指示を言う。
「送魔局側で開けられる分は見た。次は、原台帳と庭園側の確認がいる」
「どうやって確認するんですか」
カルムが訊いた。
「領主庁へ正式に届出を送る。だが、紙だけで通るとは限らん。旧ミューレン家側の管理責任者が出る夜会が近い。そこで話を通した方が早い」
「夜会ですか」
リゼの声が、わずかに硬くなった。
マルカは、嫌そうな表情で顔を上げた。
「夜会って、あの、踊ったりするやつ?」
「踊ることもある」
ガルトは平然と答えた。
「紙を見に行くために、踊るの……?」
「そういう時もある」
マルカは、理解したくない顔をした。
レンは、旧水門接地導路の暗い口を思い出していた。
今日はそこで止まった。
失敗ではない。
開けてはいけない場所を無理に開けなかったから、次の手順が見える。
けれど、胸の奥には、別の重さがあった。
また、紙と権限だ。
瘴気事故は、石の中だけに潜むわけではない。
開けてよいかどうかの紙の隙間にも潜む。
*
夕方の水音が少しだけ低くなっていた。
南水門の石段に腰を下ろし、カルムは台帳の写しを整理している。マルカは靴裏の泥を落とし、リゼは使ったプローブを湿式で拭いていた。
ガルトは水門課の職員と話している。
声は低い。だが、要点だけがこちらにも聞こえた。
旧水門接地導路。
庭園側確認。
原台帳。
夜会。
レンは、水路の水面を見ていた。
水は流れている。
ただ、下に何が残っているかは、上からでは分からない。
「レンさん」
リゼの声がした。
彼女は、拭き終えたプローブを布袋へ戻し、記録板を胸に抱えていた。
「はい」
「少し、いいですか」
レンは頷いた。
二人は、水門の石欄干のそばへ移った。
マルカの声と、カルムが紙をめくる音が、少し離れる。
リゼは、しばらく水面を見ていた。
「レンさんは、瘴気事故を怖がっているというより、憎んでいるように見えます」
直球だった。
レンは、すぐには答えられなかった。
怖がっている。
憎んでいる。
どちらも、間違いではない。
「両親を」
言葉が、思ったより乾いて出た。
「瘴気事故で亡くしました」
リゼの指が、記録板の端で止まった。
「……そう、でしたか」
「子どもの頃です。詳しいことを、全部覚えているわけではありません。灯が沈むように暗くなって、床が濡れていて、母が咳をしていました。父は点検札を持っていました。でも、あとから聞かされた記録では、最初は軽い不調扱いでした」
水の音が続く。
「だから、最初は送魔そのものが嫌でした。送魔がなければ事故は起きない、と」
「今は、そう思っていないのですね」
「はい」
レンは、南水門を見た。
「灯、井戸、治療院、工房、水門。もう送魔は、暮らしの中に入りすぎています。止めれば、別の誰かが困る。だから、送魔をなくすのではなく、瘴気事故をなくしたいと思いました」
リゼは黙って聞いていた。
「測瘴士になろうと考えたこともあります」
リゼが、わずかにこちらを見る。
「測瘴士に」
「はい。事故を起こす前に見つけたいと思いました。けれど、機材も資格も、伝手もありませんでした。視瘴晶も、校正板も、測定プローブも、どれも僕には高すぎた」
レンは、少しだけ笑おうとして、失敗した。
「だから、式へ向かいました。見えない偏りを、数で掴めないかと。甲乙丙の乱れを分けて、接地導魔線側に出る零偏成分を減らせないかと」
「零偏補償……でしたっけ」
「はい。線全体の偏りを見る理論です」
リゼが、その語を静かに繰り返した。
レンは頷く。
「でも、式だけでは足りませんでした。ベルノの排水霧も、白石峠の泥も、今日の地下の湿りも、式の中にはありません。作業者がどこに立ったか。誰が胸が重いと言ったか。そういうものも、式には入らない」
「だから、私の記録が必要だった?」
リゼの声は、平らだった。
レンは、胸の奥が冷えるのを感じた。
その通りだ。
だが、その言い方では足りない。
「必要でした」
レンは、逃げずに言った。
「リゼさんの記録があれば、式が見ていないものを拾えると思いました」
リゼは、記録板を胸元へ抱え直した。返事は、少しだけ遅れた。
「そうですか」
声はいつも通りだった。
ただ、記録板を抱える指が、半指分だけ強くなった。
レンは、言葉を探した。
違う。
いや、違わない。
最初にリゼの記録を見た時、必要だと思った。
自分の理論に足りないものを埋めてくれると思った。
それは事実だ。
だが、今、目の前にいる人を、記録だけとして見ているわけではない。
そう言いたかった。
しかし、今ここで言えば、必要だから優しくしているように聞こえる気がした。
「リゼさん」
「大丈夫です」
リゼは顔を上げた。
「今は、記録を続けます」
その言葉は穏やかだった。
だが、少しだけ距離があった。
レンは、頷くしかなかった。
「はい」
リゼは、記録板へ視線を落とした。
「南水門。旧水門接地導路入口。低から中弱未満。庭園側確認待ち。原台帳、要閲覧」
彼女は、いつも通りに書いた。
いつも通りに見えた。
けれど、レンには、さっきまでより紙の音が少し硬く聞こえた。
*
送魔局へ戻る頃には、空は薄い紫に変わっていた。
カルムは、南水門の三つの名前を並べた控えを抱えている。
マルカは、地下で見た石段の沈み具合を小さな図にしていた。
リゼは、記録板を油引き布で包み直した。
ガルトは、会議室で待つと言い残して先に戻った。
レンは、南水門の方を一度だけ振り返った。
地下の古い口。
水音。
閉鎖済みと書かれた台帳。
そして、リゼの少し曇った横顔。
事故を防ぎたい。
その目的は、揺らいでいない。
けれど、そのために誰かの記録を必要とするなら、その人自身をどう扱うのかも、避けて通れないのだと、レンは初めてはっきり思った。
必要とする記録を見るために、その記録の持ち主と会わなければならないことも、それと似ている。
夜会。
その言葉は、レンにとって、地下の湿りよりも扱いにくいものに思えた。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




