第7話 夜会と原台帳 前編
夜会へ行くことと、南水門の調査をすることが、一晩経ってもレンの中でまだ結びついていなかった。
グラントール送魔局の小会議室には、昨日の水門地下確認で使った紙がまだ残っている。
南水門下部点検口。
池下石槽口。
下の口。
三つの名で呼ばれていた同じ場所。
その底にあった旧水門戻しの入口。
閉鎖済みと書かれた局内台帳。
だが、実際には水音が残っていた古い導路。
レンは、机の上の写しを見ていた。
ガルト・リーヴェルは、封蝋のついた薄い紹介札を指で押さえた。
「水門庭園の夜会は、今日の夕方だ」
「今日、ですか」
カルム・ヴェイスが少し驚いた声を出した。
「昨日の時点で、候補には入っていた。正式な閲覧願を出せば、返事は十日後だ。だが、今日なら管理人がいる」
ガルトは、何でもないことのように言った。
「旧ミューレン家の水門庭園。いまは領主庁の管理下にあり、庭園側の原台帳は水門庭園管理室が保管している。送魔局の台帳だけでは足りん」
レンは、昨日見た地下の暗い口を思い出した。
「原台帳に、旧水門戻しの分岐が残っているかもしれない、ということですね」
「そうだ」
「夜会へ行くのは、紙を開けてもらうためですか」
「そういう夜会もある」
マルカが、部屋の隅で両手を上げた。
「ちょっと待って。夜会って、踊ったり、きらきらした服を着たりするやつだよね」
「踊ることもある」
「工具は?」
「持ち込むな」
「えー」
「えーではない」
ガルトは即答した。
「水門庭園の夜会に、縄束と金槌を持った職人を入れれば、話が始まる前に終わる」
マルカは不満そうに口を曲げた。
「縄がないと落ち着かないんだけど」
「落ち着け」
「それで落ち着けたら、縄いらないんだよ」
カルムが、少しだけ困った顔で口を挟んだ。
「礼装は、送魔局の予備と、職人組合から借りたものがあります。完全な貴族服ではありませんが、技術者の随行としてなら通ります」
「私も着替えるの?」
「はい」
「動きにくいやつ?」
「たぶん」
マルカは深くため息をついた。
「工事より怖い」
リゼ・カトルは、机の端で自分の鞄を開けていた。
いつもの簡易ミアズマ検知モノクルは、机の上に置かれている。校正環、遮光枠、濃度目盛りのついた、明らかな測定器具だ。
彼女はそれを布で包み、代わりに、細い銀縁のモノクルを取り出した。
形だけなら、普通の装飾品に近い。
ただし、レンズには淡い虹色に濁った視瘴晶がはめ込まれている。
「それは」
レンが訊くと、リゼは短く答えた。
「旧式視瘴晶モノクルです。正式測定には使いません。強い残瘴が近くにあれば、にじみが見えることがある程度です」
「やっぱり、いつも使っているものは……」
「持ち込みません。没収されたくないので」
リゼの声はいつも通りだった。
だが、昨日の南水門の石欄干で話してから、レンには、彼女の言葉が少しだけ遠く聞こえる時があった。
彼女の記録が必要だった。
それは事実だ。
けれど、必要だから近づいた、という事実が、昨日から二人の間に薄い線のように残っている。
レンは、何か言おうとしてやめた。
言葉を足せば、取り繕いに聞こえるかもしれない。
今は、夜会で原台帳を開くことが先だ。
リゼは、銀縁の旧式モノクルを左目へ合わせ、位置を確かめた。
「見え方はかなり落ちます。見えたとしても、記録には『気配』と書きます。測定値にはしません」
「はい。測定値としては扱いません」
レンは頷いた。
リゼの指が、一瞬だけモノクルの縁で止まった。
「……お願いします」
その返事は、小さかった。
*
水門庭園の夜会は、南水門の西側にある旧ミューレン家の別邸で開かれていた。
別邸、といっても、豪奢な城館ではない。
低い石造りの館と、長い回廊、そして水路を引き込んだ庭園がある。庭園の池には小さな石橋が三つ掛かり、橋の下を、細い水が静かに流れていた。
夜会の灯は、王都ほど白くはない。
青白い蓄魔灯と、古い庭園灯が混ざっている。水面に映る光は不揃いで、風が吹くたび、細く割れた。
レンは、無意識に灯の揺れを見ていた。
「足元より先に、灯を見るんですね」
隣でリゼが言った。
「すみません」
「謝ることではありません。ただ、今日は人も見てください」
「人も、ですか」
「夜会ですので」
リゼはそう言って、視線を少しだけ前へ戻した。
彼女の服は、白灰色を基調にした簡素な夜会服だった。普段の防汚コートではない。肩と袖口は動きやすいよう控えめに整えられているが、それでも測瘴班室や坑道前で見た姿とは違う。
左目の銀縁モノクルは、確かに装飾品に見えた。
ただ、レンには分かる。
それは彼女が、見えないものを見逃さないために選んだ道具だ。
マルカは、借り物の上着の袖を何度も引いていた。
「だめだ。これ、釘を打つ服じゃない」
「夜会で釘は打たないと思います」
カルムが真面目に答える。
「もし必要になったら?」
「……必要に、なるのでしょうか」
「ならないでほしいけど、床板が浮いてる場所って、だいたい人が引っかかるんだよ」
カルムは反射的に足元を見た。
マルカは、それを見て少し笑った。
「そういうとこは素直なんだ」
「転倒は、書類より先に困ります」
「紙より人が先。いいね」
カルムは返答に詰まった。
彼は、手に薄い文書箱を持っている。中には、ガルトが用意した紹介札、南水門の局内台帳写し、そして昨日の地下確認の控えが入っていた。
ガルトは少し離れた場所で、水門庭園管理室の年配職員と話している。
挨拶は短い。必要な相手だけを選び、余計な言葉を使わない。
レンたちの役割は、ガルトが道を開いた後、原台帳を持つ人物へ話を通すことだった。
「旧ミューレン家側の管理責任者は、エルヴィナ・ミューレン様です」
カルムが低い声で言った。
「当主ではないのですか」
「旧家の直系ですが、いまは水門庭園管理室と領主庁の間に立ち、庭園と古い台帳を管理しています」
「台帳を守る人」
マルカが呟いた。
「それ、強そう」
「はい。強い方だと思います」
カルムの声が少し硬くなった。
その時、庭園側の回廊から、年配の女性が歩いてきた。
銀に近い髪を後ろでまとめ、深緑の上着に古い水門紋の小さな銀飾りを付けている。華美ではない。だが、回廊にいる誰よりも、庭の水音に馴染んで見えた。
カルムが小さく息を吸った。
「あの方です」
エルヴィナ・ミューレンは、ガルトと二言三言交わすと、こちらへ視線を向けた。
「あなた方が、南水門の下を見た技師たちですね」
声は低く、よく通った。
レンは一礼した。
「レン・アルバートです。こちらはリゼ・カトルさん、マルカ・ノルクさん、カルム・ヴェイス技官です」
「王都の方?」
「元は、です。今は旅の送魔技師として、エルデン領送魔局の暫定調査に関わっています」
「元は、ですか」
エルヴィナは、それ以上追及しなかった。
「南水門の下で、何を見ました」
レンは、余計な前置きをやめた。
「局内台帳では閉鎖済みの旧水門戻しに、水音が残っていました。地下側では、送魔局の権限だけでは庭園側の確認ができません。原台帳を見せていただきたいのです」
「原台帳は、古い紙です」
「はい」
「古い紙は、都合良く読めます。読む人間が、欲しい答えだけを拾うからです」
エルヴィナの視線は、レンではなく、カルムの文書箱へ向いた。
「送魔局の写しにも、都合の良い写しがあるようですね」
カルムの肩がわずかに動いた。
「その可能性があるので、原台帳と現物を照合したいのです」
レンは言った。
「閉鎖済みと書かれていても、実際に水音がある。僕たちは、台帳を否定したいのではありません。台帳と現物が同じことを言っているか確かめたい」
エルヴィナは黙っていた。
リゼが、少しだけ前に出た。
「正式な測定はしていません。地下側で見たのは、低から中弱未満の残瘴反応です。旧水門戻し入口は、新封瘴井側よりわずかに高い程度でした。断定はしていません」
「断定していないことを、なぜ言うのです」
「いま言わずに進めると、次にどこを確かめるべきか分からなくなるからです」
エルヴィナの目が、少しだけリゼへ向いた。
「面倒な方ですね」
「よく言われます」
リゼは、真顔だった。
マルカが、横で小さく咳払いした。
エルヴィナは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「面倒な者は嫌いではありません。水門を長く持たせるには、面倒な者が必要です」
彼女は回廊の奥を示した。
「ついてきなさい。ただし、原台帳に触れるのは、私と管理書記だけです。あなた方は見る。必要な箇所のみ写すのは良しとしましょう」
エルヴィナが視線を向けると、回廊の柱のそばに控えていた女性が一礼した。
庭園管理書記のクラリス・ヴォルン。灰色の上着に、鍵束と薄い写し板を持っている。台帳を扱う実務の人間だと分かった。
「ありがとうございます」
「礼は、読んでからになさい」
ガルトに似た言い方だ、とレンは少し思った。
*
回廊を渡る途中、夜会の客がいくつかの輪を作っていた。
水門庭園は、送魔局の会議室とは違う。ここでは、紙を開くために、まず人の輪を通らなければならない。
庭園灯の下で、リゼの銀縁モノクルが小さく光った。
「珍しい片眼鏡ですね」
若い男の声がした。
水門庭園管理室の関係者だろうか。薄い青の上着に、庭園灯の紋を小さく付けている。酒は入っていないようだが、物珍しさが先に立つ顔だった。
「測り屋の道具ですか」
リゼの肩が、わずかに固くなった。
「今日は測定器具ではありません」
「なら、装飾ですか。少し見せてもらっても」
男が、モノクルへ手を伸ばしかけた。
レンは、一歩前へ出た。
「触れないでください」
声は、思ったより硬くなった。
男の手が止まる。
「失礼。装飾かと」
「装飾に見えても、本人の視界に関わるものです。人の目元へ手を伸ばすのは、失礼です」
場が少し静かになった。
言い過ぎたかもしれない。
だが、引く気にはなれなかった。
リゼの記録が必要だから守るのではない。
彼女の道具だから守る。
彼女が、見えないものを見逃さないために持っているものだからだ。
リゼは、少しだけレンを見た。
昨日から残っていた硬さが、完全に消えたわけではない。
けれど、その視線は、少しだけ違った色を帯びていた。
男は気まずそうに笑い、手を下げた。
「悪かった。夜会の場で、少し浮いて見えたので」
「浮いてるのは、こっちの上着もです」
マルカが横から言った。
「でも、見せ物じゃないよ」
その一言で、妙に空気が軽くなった。
男は苦笑し、軽く頭を下げて離れていった。
カルムが、文書箱を抱え直す。
「今の件は、記録に残しますか」
「しなくていいです」
リゼが即答した。
「そうですか」
「ただし」
リゼは、モノクルの縁を直した。
「道具の扱いとしては、覚えておきます」
レンは、何と言えばよいか迷った。
「……すみません。少し強く言いました」
「いいえ」
リゼは、短く答えた。
「助かりました」
それだけだった。
だが、その言葉は、レンの胸に残った。
助けた、というより、ようやく一つ、間違えなかった気がした。
その時、エルヴィナが振り向いた。
「社交の場では、強い言葉は刃になります」
「はい」
「ですが、刃を抜くべき時もあります。次は、半歩遅く抜きなさい」
レンは、返答に困った。
「……努力します」
「それで良いです」
エルヴィナは回廊の奥へ進んだ。
【一言メモ】
水門庭園管理室は、庭園管理の資金調達活動の一環で、また前身が貴族家であることもあり、定期的に夜会を開催しています。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




