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第7話 夜会と原台帳 後編

 原台帳は、庭園の奥にある小さな書庫に置かれていた。


 夜会の音は、厚い扉を一枚隔てるだけで、急に遠くなる。


 書庫には、油引き紙の匂いと、乾いた封蝋の匂いがあった。壁一面の棚には、水門庭園の造成記録、寄進記録、石橋の修繕控え、水路の深さを測った古い帳面が並んでいる。


 送魔局の台帳とは違う。


 こちらの紙には、水の名が多かった。


 上水。

 庭園池。

 沈砂槽。

 旧戻し。

 非常暖灯。

 祭礼灯。


 同じ設備でも、送魔局とは呼び方が違う。


 エルヴィナは、クラリスに棚の鍵を開けさせた。


「南水門創設時の原台帳。写しを作った者は、もう誰も残っていません」


 カルムが文書箱から、送魔局の写しを取り出す。


「局内台帳では、旧水門戻しは三年前に閉鎖済みです」


「三年前」


 エルヴィナは、古い台帳の革表紙を撫でた。


「三年前の工事は、庭園側から見れば半分です」


 クラリスが台帳を開く。


 紙は厚く、ところどころ波打っている。

 墨は古いが、読めた。


 カルムが息を詰める音が聞こえた。


「旧水門戻し……庭園石槽へ一時接続」


 レンは、紙面を覗き込んだ。


 エルヴィナが、指で行を追う。


「ここです」


 そこには、送魔局の写しにはなかった言葉があった。


 雨天時、沈砂槽満水の際、旧水門戻しを庭園石槽へ逃がす。祭礼灯および非常暖灯の低負荷に限り、庭園側封瘴井(※1話前編)を併用。


 カルムの顔色が変わった。


「庭園側封瘴井」


「局内台帳にはありません」


 エルヴィナは言った。


「庭園の設備だからです。送魔局は、南水門側の閉鎖だけを写したのでしょう。庭園側の細い接地導路は、庭園管理の欄に残っています」


 レンは、昨日の地下で聞いた細い水音を思い出した。


「閉鎖済みではなく、片側を閉じただけ」


「おそらく」


 リゼが低く言った。


「雨天時だけ動くなら、普段の測定では低く出ます。昨日の値が低から中弱未満だったのも、矛盾しません」


 レンは頷いた。


「雨の日、沈砂槽の水位が上がった時、庭園石槽側の封瘴井と接地導路に反応が出る」


「祭礼灯や非常暖灯がつながっていれば、負荷が小さくても、接地導路の扱いが変わります」


 リゼは、そこで一度言葉を切った。


「ただし、これは私の推測です」


「分かっています」


 レンはすぐに言った。


 リゼは、小さく頷いた。

 その頷きは、昨日より柔らかかった。


 マルカは、台帳ではなく書庫の床を見ていた。


「この書庫、少し傾いてる」


 カルムが顔を上げる。


「床が、ですか」


「うん。奥の棚の足元だけ湿りが強い。外の庭園池へ向かって下がってる。重い台帳を置いてるせいもあるかもだけど、それだけじゃない気がする」


 エルヴィナが、目を細めた。


「そこに気づくのですね」


「木が鳴ってるから」


 マルカは床板を軽く叩いた。


「ここ、下に空間あるでしょ」


「旧書庫下の通風溝です。庭園池へ抜けています」


「通風溝」


 レンは、台帳の別の行を見た。


 庭園石槽。

 通風溝。

 非常暖灯。


 水路、通風溝、接地導路が、同じ庭園側で交差している。


 ベルノの排水霧と似ている。

 白石峠の石垣とも似ている。


 それぞれは小さい。

 だが、重なる。


 カルムが、クラリスの用意した薄紙を受け取った。


「写してよろしいでしょうか」


 エルヴィナは頷いた。


「該当箇所だけです。原本はここから出しません」


「承知しました」


 カルムは、送魔局の写しと原台帳を並べて、慎重に書き始めた。


 手が少し震えていた。


 マルカが、横から小声で言う。


「落とさないでね」


「落としません」


「字、固くなってる」


「固い字でも読めます」


「それはそう」


 マルカはからかうというより、緊張を和らげるように言っていた。


 カルムは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 レンは、そのやり取りを見ていた。


 カルムは、今日、原台帳と写しの違いをその目で見た。

 それは、後で必ず効く。


「カルムさん」


「はい」


「写しには、送魔局台帳にない言葉を、消さずに残してください。庭園石槽、非常暖灯、祭礼灯。今は意味が全部分からなくても、後で必要になります」


「分かりました。消しません」


 カルムは、少しだけ強く答えた。



     *



 書庫を出ると、夜会の音が戻ってきた。


 弦楽器の音。

 水面を渡る笑い声。

 杯が触れ合う小さな音。


 エルヴィナは、書記へ台帳を戻すよう指示し、レンたちへ向き直った。


「明日の午前、庭園石槽側の点検口を開けます。管理書記を立ち会わせます」


「ありがとうございます」


「礼は、まだ早い」


 彼女は、またそう言った。


「明日見て、何もなければ、それが一番よい。何かあれば、私の庭園にも責任があります」


 ガルトが近づいてきた。


「原台帳は開けたか」


「開けました」


 レンが答える。


「庭園石槽側に、旧水門戻しの細い接地導路が残っている可能性があります。雨天時、沈砂槽満水の際に開く記述がありました」


 ガルトは短く頷いた。


「やはり、地下だけでは終わらんか」


「はい」


「明日、庭園側を見るんだな。カルム、写しは」


「あります」


 カルムは文書箱を軽く抱え直した。


「落とすな」


「落としません」


 その返事は、少しだけ強かった。


 マルカが笑いそうになったが、夜会場なのでこらえた。


 その時、庭園の中央で、ゆるやかな曲が始まった。


 招かれた客たちが、少しずつ輪を作る。


 マルカが目を丸くした。


「本当に踊るんだ」


「夜会ですので」


 カルムが言う。


「カルムは踊れるの?」


「基本の一つは」


「え、踊れるんだ」


「送魔局の式典で必要です」


「意外だね」


 カルムは少しだけむっとしたように見えた。


「意外でしょうか」


「うん。台帳と一緒に倒れそうな人かと思ってた」


 マルカは笑った。


 レンは、そのやり取りを聞きながら、リゼを見た。


 彼女は輪の外に立っている。

 旧式モノクルの銀縁が、庭園灯を受けて細く光っていた。


 さっきの男の視線が、また遠くからこちらへ向きかけている。


 レンは、少し考えてから言った。


「リゼさん」


「はい」


「この曲の間だけ、庭園側へ出ませんか」


 リゼは、少しだけ警戒したように見た。


「測定ですか」


「いいえ。測定ではありません。人の輪から外れるためです」


 リゼは、瞬きした。


「踊る、ということでしょうか」


「歩くだけでも構いません。僕はあまり得意ではありません」


「私も得意ではありません」


「では、下手な二人で、端を歩きましょう」


 リゼは少しだけ黙った。


 それから、ほんの短く頷いた。


「端だけなら」


 レンは手を差し出した。


 リゼは、少し迷ってから、その手を取った。


 手袋越しだった。

 それでも、レンは慎重に支えた。


 強く引かない。

 急かさない。

 踊らせるのではなく、人の輪の外へ。


 曲に合わせ、二人は庭園側の端をゆっくり歩いた。


 リゼの足取りは硬い。

 レンの足取りも、おそらく同じくらい硬い。


「レンさん」


「はい」


「さっきのことですが」


「モノクルの」


「はい」


 リゼは、少しだけ視線を落とした。


「私は、道具を触られそうになったのが嫌だったのだと思っていました」


「はい」


「でも、それだけではなかったようです」


 リゼは、少しだけ目を伏せた。


「私の記録や道具ではなく、私自身に触れられそうになったのが嫌だったのだと思います」


 レンは、返答を慎重に探した。


「それは、嫌で当然だと思います」


「はい」


「僕は、それを守るべきだと思いました」


 リゼは、しばらく黙っていた。


 庭園の水音が、足元で細く鳴る。


「記録だけではない、と言われた気がしました」


 レンの胸が、少しだけ痛んだ。


 昨日、自分はそこをうまく言えなかった。


「言葉にするのが遅くて、すみません」


「まだ、遅いとは言いません」


 リゼは言った。


「ただ、記録します」


「何をですか」


「いえ。これは、記録板には書きません」


 リゼは、前を見た。

 笑ったのかもしれない。

 ほんのわずかで、すぐに消えた。


「覚えておきます」


 レンは頷いた。


 それは、今日初めて得た、小さな回復だった。



     *



 夜会が終わる頃、庭園の灯は少しだけ低くなっていた。


 水面に映る光の揺れは、最初よりも目についた。

 だが、レンはそれをすぐに異常とは呼ばなかった。


 原台帳に残っていた庭園石槽の記述。

 マルカが気づいた書庫下の通風溝。

 カルムが写した、送魔局台帳にはない言葉。


 それらはまだ、測定値ではない。

 しかし、明日見るべき場所を決めるには十分だった。


 グラントール送魔局へ戻る馬車の中で、カルムは膝の上に置いた薄い写し束を、何度も確かめていた。


「重い?」


 マルカが訊く。


 カルムは写し束の端をつまみ、薄い紙をふるふると振った。


「紙は軽いです」


「じゃあ何が重いの」


「責任が重かったです」


 マルカは一拍置いて、それから笑った。


「カルム、たまに変なこと言うね」


「変でしょうか」


「ううん。ちょっといいと思っただけ」


 カルムは、返答に困ったように目を伏せた。


 レンは、窓の外を見た。


 南水門の方角は暗い。

 その下に、旧水門戻しの細い接地導路がある。

 そして、庭園側の石槽と通風溝がある。


 地下で止まった仕事は、夜会で原台帳を開き、明日の現場へつながった。


 紙は、ただの紙ではない。

 だが、紙だけでもない。


 リゼは、向かいで旧式モノクルを外し、布に包んでいた。


「リゼさん」


「はい」


「今日見えたものは、明日、測定し直しましょう」


「はい」


「今日の記録には、気配として残します。測定値とは分けます」


 リゼは、ほんの少しだけ頷いた。


「それでいいです」


 その言葉は、昨日より近かった。


 レンは、少しだけ息を吐いた。


 明日、庭園側を開ける。


 旧水門戻しが本当に残っているのか。

 雨の日に、南水門の接地導路がどこへつながるのか。

 局内台帳が閉じたはずの線が、なぜ庭園の紙には残っているのか。


 確かめることは増えた。


 しかし、今度は、どこを見るべきか分かっている。


 原台帳は開いた。


 次は、現物をもう一度見る番だった。


【一言メモ】

水門庭園管理室は、領主庁の下位部署です。庭園名が「水門庭園」なので名前に「水門」が入っているだけで、水門庁/水門課(グラントールの水利を司る役所/実務部署)とは全くの無関係です。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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