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第8話 測瘴症状票

 翌朝の水門庭園は、夜会の顔をほとんど失っていた。


 昨夜は灯と音楽と人の声で満ちていた回廊も、朝になると、水音と石を拭く布の音だけが残っている。庭園池に掛かる石橋の上では、使用人が落ち葉を集めていた。


 レンは、池の端に立っていた。


 服装はいつもの旅装に戻している。靴底の濡れを気にしながらも、視線は水面ではなく、池の縁、石橋の下、回廊の床下へ向いていた。


 リゼも、普段の防汚コートを着ていた。

 左目には簡易ミアズマ検知モノクル(※3話前編)。昨夜の旧式視瘴晶モノクル(※1話前編)ではない。校正環を一度だけ回し、遮光枠の角度を直してから、彼女は池の縁へ近づいた。


 庭園管理書記のクラリス・ヴォルンが、鍵束を確かめながら立っていた。


「開けるのは、ここです」


 クラリスが指したのは、石橋の脇にある低い点検蓋だった。


 蓋は庭石に半分隠されている。夜会の客が見れば、ただの飾り石に見えるだろう。だが、よく見ると縁に細い封泥の跡が残っていた。水門課の印ではない。旧ミューレン家の庭園印だった。


 カルム・ヴェイスが、抱えてきた薄い写し束を開いた。


「原台帳では、庭園石槽点検口。送魔局側には、対応する現行名がありません。南水門下部点検口、池下石槽口、下の口とは別扱いです」


 マルカは蓋のまわりを一周した。


「これ、飾り石の影に入ってる。水が溜まるね。開ける時、後ろに立たない方がいい」


「なぜ」


 クラリスが訊いた。


「蓋の縁が下がってる。動かすと、水と泥がこっちへ出るかも。あと、石橋の下へ逃げ道がある」


 マルカは石橋の下を指した。


 小さな通風溝があった。

 昨夜、書庫の床下で見たものと同じ向きだ。


 リゼが膝をつき、蓋の縁へプローブを近づける。


「蓋上面、低。縁の泥、低から中弱未満。空気中、低。今すぐ人体へ出る値ではありません」


「なら、開けても良いということですか」


 管理書記が言う。


「短時間なら。顔を近づけないでください。泥が乾いている箇所は、先に湿らせます」


 リゼは封塵噴霧器を取り出し、蓋の縁へ細く霧を落とした。


 泥の表面が、重くまとまる。

 それを見てから、マルカが蓋の取っ手に縄を通した。


「真上に持つんじゃなくて、少しだけ浮かせる。空気を出してから開けるよ」


「お願いします」


 クラリスは短く言った。


 蓋が、鈍い音を立てて浮いた。


 石槽の中から、湿った空気が出る。


 リゼが一歩下がる。


「空気中、低から中弱未満。すぐ下がります。待ってください」


 全員が止まった。


 風はほとんどない。

 ただ、庭園池へ向かう小さな流れが、蓋の隙間から出た空気を石橋の下へ運んでいた。


 レンは、点検灯を石槽の縁へ近づけた。


 中は浅い。

 水路というより、受け皿に近い。庭園池へ戻る細い溝と、南水門側から来るはずの閉鎖済み導路が、石槽の端で交差している。


 その導路の口に、古い白冠陶(高絶縁磁器)製の縁材が残っていた。

 縁材は欠け、湿った泥が薄く噛んでいる。


「ここです」


 レンは言った。


「旧水門戻しの細い接地導路が、完全には死んでいません。水が流れているほどではありませんが、湿りが残っています」


 カルムが、写し束を握り直した。


「原台帳の記述と一致します。雨天時、沈砂槽満水の際、旧水門戻しを庭園石槽へ一時接続」


「いまは雨天ではありません」


 リゼが言った。


「はい。ですから、これは通常時の値です。雨天時はもっと上がる可能性があります」


「可能性」


 クラリスが繰り返す。


「断定はできません」


 リゼはすぐに言った。


「ですが、雨の後に庭園灯の下で目が重くなる、眠くなる、胸が詰まる、そういう訴えが出ていれば、ここを照合する意味があります」


 クラリスの眉が、少しだけ動いた。


「夜会の後は、誰でも疲れます」


「はい」


 リゼは否定しなかった。


「疲労もあります。ですが、雨の夜、庭園灯、石橋下、通風溝、旧水門戻し。その条件が重なるなら、疲労だけで片づけない方がよいです」


 マルカが小声で言った。


「夜会疲れまで紙になるんだね」


「すべてではありません」


 リゼは答えた。


「ただ、消す前に書き残します」


 レンは、その言葉を聞いていた。


 消す前に置く。


 南水門の石欄干のそばで、自分はリゼに話した。

 自分が、なぜ瘴気事故を憎んでいるのか。なぜ、測瘴の記録を必要としていたのか。


 あの時、リゼの表情はわずかに曇った。


 今も、その曇りは完全には消えていない。

 だが、彼女は記録を続けている。

 怒りでも、慰めでもなく、条件を消さないために。


 なら、レンがするべきことは一つだった。


「リゼさんの記録は、庭園側の控えと一緒に見た方がいいです」


 レンは言った。


「測定値だけを先に台帳へ入れると、症状の方が後で消えます。症状だけを苦情として扱うと、設備と切れます。別々に残して、同じ行で照合できる形が必要です」


 リゼが、わずかにこちらを見た。


 クラリスは、レンとリゼを見比べた。


「それは、あなた方の流儀ですか」


「まだ、流儀と呼べるほど整っていません」


 レンは答えた。


「ですが、ベルノでそれが役に立ちました。白石峠でも、ここでも、同じことが起きています」


「同じこと?」


「珍しくない不調と、珍しくない湿りと、珍しくない古い設備が、同じ場所で重なることです」


 庭園石槽の奥で、水が小さく鳴った。


 クラリスは、しばらく黙っていた。


 リゼが言った。


「必要なのは、症状、時刻、場所、作業、天候、灯の使用です。名前は伏せられます」


「……分かりました。個人名を伏せ、役割名に置き換えた控えなら」


 クラリスは頷いた。


 リゼは、記録板を開いた。


「個人名は不要です。庭園番一、庭園番二、管理書記、夜会給仕、のように役割で足ります。症状は、頭重感、眠気、胸苦しさ、しびれ。時刻は、灯点灯前、点灯中、消灯後。場所は、石橋下、回廊端、書庫前、庭園石槽近く」


「測定値は、どの欄へ入れますか」


 カルムが訊く。


「別欄です」


 リゼは即答した。


「症状の欄へ入れないでください。測定値は測定値です。症状は症状です。混ぜると、後でどちらも読めなくなります」


 カルムは少しだけたじろいだ。


「分かりました。別欄にします」


 マルカが、石橋の上から覗く。


「それ、長い紙になる?」


「なります」


 リゼは答えた。


「じゃあ、後で読む人は大変だ」


 リゼは少しだけ迷った。


「……必要なら、短くできます。ただし、短くしすぎると消えます」


 マルカは笑った。


「そこは、あたしの出番かな」


 リゼは、少し考えた。


「後でお願いします」


「後でね」


 マルカは軽く頷いた。


 庭園石槽の調査は、それ以上奥へ進めないことにした。


「今日はここまでにしましょう。雨の日の値がない。庭園番の控えもまだ見ていない。庭園石槽の奥を、今日開ける理由はないです」


 レンは言った。


 開けたい気持ちはあった。

 だが、開ければよいわけではない。


 見るべき場所が決まった。

 次に必要な紙も決まった。


 それで、今日の調査としては十分だった。



     *



 午後、グラントール送魔局の小会議室には、個人名を伏せて転記された庭園番の控えが加わった。


 ベルノの記録。

 白石峠の記録。

 南水門の地下確認。

 水門庭園の原台帳写し。

 庭園番の体調控え。


 紙は増えた。


 ただし、昨日までの紙の増え方とは違った。


 机の上では、リゼが白い紙を一枚広げている。

 まだ何も書かれていない。余白の多い、厚手の紙だった。


「まず、左から順にします」


 リゼは鉛筆を取った。


 カルムが、白紙に並ぶ予定の欄名を目で追い、目を丸くした。


「時刻、場所、役割、症状、設備、湿り、測定値、作業者位置、処置、再確認……かなり多いですよ」


「必要です」


 リゼは言った。


「ですが、全部を毎回埋めるわけではありません。空欄があることも記録です」


「空欄も、ですか」


「はい。測っていないなら測っていない。聞いていないなら聞いていない。後で誰かが、値がなかったのか、聞かなかったのかを間違えないためです」


 カルムは、ゆっくり頷いた。


「空欄の理由も、必要なら書く」


「はい」


 マルカは、紙を横から見ていた。


「字が多いね」


「これは、現場で吊るすものではありません」


 リゼが答える。


「それならいいか」


 マルカはすぐに引き下がった。


 レンは、そのやり取りを聞きながら、白い紙を見ていた。


 そこには、ベルノの四十七件が入る。

 白石峠の旅人が入る。

 庭園番の頭重感が入る。

 他の現場での苦情も、いつか入る。


 そして、設備名も、湿りも、測定値も、同じ行に入る。


 それは、レンが式で拾えなかったものを、消さずに置くための紙だった。


「名前を付ける必要があります」


 カルムが言った。


 リゼの手が止まる。


「名前、ですか」


「台帳に挟む時、表題がないと探せません。庭園番控えの写し、ベルノ記録、白石峠記録、では毎回ばらばらになります」


 彼は少しだけ考えた。


「症状照合票……では、測定値が入らない。測瘴記録票では、症状が消えます」


 リゼは、何も言わなかった。


 レンは、彼女の表情を見た。


 この名前は、簡単に決めてはいけない。

 症状だけにすると、疲労扱いへ戻る。

 測定だけにすると、人が消える。


「測瘴症状票」


 レンは言った。


 リゼが、こちらを見る。


「測瘴と、症状を、両方残す票です。ただし、混ぜない。測定値は測定値として、症状は症状として、同じ行に置く」


 カルムは、その言葉を小さく繰り返した。


「測瘴症状票」


 ガルトが、腕を組んだまま言った。


「長いが、何をする紙かは分かる」


 マルカが言う。


「でも、まあ、紙の名前ならいいんじゃない? 現場で叫ぶ名前じゃないし」


 リゼは、白い紙を見ていた。


 その目が、少し揺れた。


「よいと思います」


 彼女は言った。


「ただし、苦情票ではありません」


「そこは表に書け」


 ガルトが言った。


 カルムが筆を構える。


「表に、ですか」


「一番上だ。読んだ者が間違えないように」


 リゼは少し考え、ゆっくり言った。


「測瘴症状票。症状だけで断定しない。測定値だけで消さない」


 小会議室が静かになった。


 カルムは、その一行を書いた。


 測瘴症状票。

 症状だけで断定しない。測定値だけで消さない。


 レンは、その文字を見た。


 胸の奥で、何かがピッタリと嵌まるような感覚があった。


 それは、式ではなかった。


 けれど、事故を止めるために、式と同じくらい必要なものだった。


「リゼさん」


 レンは言った。


「はい」


「この欄の順番は、リゼさんが決めてください」


 リゼが、少しだけ目を見開いた。


「私が、ですか」


「はい。僕が決めると、設備側に寄ります。カルムさんが決めると、台帳側に寄ります。マルカさんが決めると、たぶん読める方に寄ります」


「それは悪いこと?」


 マルカが訊く。


「悪くありません。ただ、この紙は、最初に症状を消さないための紙です」


 レンは、リゼを見た。


「だから、リゼさんが決めるべきです」


 リゼは、視線を白い紙へ戻した。


 責任を渡された時の、静かな緊張。


「では」


 リゼは鉛筆を握り直した。


「左端は、時刻ではなく、場所にします」


「時刻ではなく?」


 カルムが訊く。


「はい。症状を訴える人は、時刻を正確に覚えていないことがあります。場所は、比較的残ります。庭園なら石橋下、ベルノなら排水管路横、白石峠なら灯小屋前。場所を先に置き、その後に時刻を置きます」


 カルムはすぐに書き直した。


「場所、時刻、役割、症状……」


「次に、症状です」


 リゼが言った。


「設備より先ですか」


「はい。症状票なので。ただし、設備欄はすぐ隣ではありません。湿りと作業者位置を挟みます」


「なぜ」


「症状と設備を直結させると、誤認します。間に、環境と位置を置きます。症状、湿り、作業者位置、設備、測定値」


 レンは、声を出さずに頷いた。


 リゼの紙だ。


 彼女が何を消されたくないのか、その順番が出ている。


 ガルトも、しばらく黙って見ていた。


「良いだろう」


 短く言う。


「試験運用だ。水門庭園、南水門、ベルノからの写しを、この形で一度入れろ」


 カルムが、少し慌てる。


「今日中に、ですか」


「今日中に全部ではない。まず一枚。庭園番の控えと、今朝の測定値だけでいい」


「はい」


「ただし、今決めた欄順を変えるな。変えるなら理由を書け」


 リゼが顔を上げた。


 ガルトは表情を変えなかった。


「紙は一度局に入ると、勝手に形を変える。先に釘を打っておく」


「ありがとうございます」


 リゼの声は小さかった。


 だが、しっかり届いた。


 レンは、その横顔を見ていた。


 自分が彼女の記録を必要としたことに、打算が混じっていた。

 それは消えない。


 だが、いまこの紙は、レンの理論を都合よく補うためだけに作られているわけではない。


 リゼが消されないための紙でもある。


 そのことを、レンは忘れないでおこうと心の中で誓った。



     *



 夕方近く、マルカは小会議室の隅で板を削っていた。


 正式なものではない。

 水門庭園の点検口の横へ、明日だけ置くための小さな板だ。


 板には、最初、リゼが長い文章を書こうとしていた。


 雨の日は、石橋下、書庫下通風溝、庭園石槽点検口付近に長時間留まらないこと。

 頭重感、眠気、胸苦しさ、しびれが出た場合は、水門庭園管理室または送魔局へ申告すること。

 症状を疲労として処理する前に、点灯時刻と位置を確認すること。


 マルカは、それを見て黙った。


「長いですか」


 リゼが訊く。


「長いね」


 マルカは正直に言った。


「でも、削りすぎると怒るでしょ」


「怒りません。必要な情報が消えれば戻します」


「それを怒るって言うんじゃないかな」


「違います」


 マルカは、板に木炭で書いた。


 雨の日、石橋下に長く立たない。

 胸が重い、眠い、しびれる時は言う。

 疲れと決める前に、場所と灯を確かめる。


 リゼはしばらく読んだ。


「『灯』だけでは、庭園灯か祭礼灯か分かりません」


「そこは、見る人が庭園の人なら分かるかなって」


「書庫の人には分からないかもしれません」


「じゃあ、庭園灯」


 マルカは書き直した。


 疲れと決める前に、場所と庭園灯を確かめる。


 リゼは頷いた。


「いいと思います」


「やった」


 マルカは板を持ち上げて、満足そうに笑った。


 カルムは、測瘴症状票の試作を清書していた。

 リゼが決めた欄順を崩さないよう、何度も目で追っている。


「カルム、これ、写しに残す?」


 マルカが板を見せる。


 カルムは少し考えた。


「残します。ただし、まだ正式な形式ではありません。水門庭園用の臨時板として」


「臨時板……なんか固いね」


「局の紙なので」


 マルカは笑った。


「じゃあ、局の紙はカルムに任せる。板はあたしが読めるようにする」


 カルムは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「助かります」


 マルカは、軽く手を振った。


「どういたしまして」


 そのやり取りは短かった。

 けれど、レンは見ていた。


 カルムが、自分の長い紙を、マルカの短い板と並べることを、嫌がらなかった。


 局の紙と現場の板。

 役割分担の片鱗が少しずつ見え始めている。



     *



 夜になる前、庭園番の控えから最初の一枚が写された。


 場所。石橋下。

 時刻。雨天夜、庭園灯点灯後。

 役割。庭園番二。

 症状。眠気、目の奥の重さ。

 湿り。石橋下、強。

 作業者位置。石橋南側、通風溝近く。

 設備。庭園灯、旧水門戻し疑い。

 測定値。翌朝、庭園石槽縁、低から中弱未満。

 処置。点検口開放、短時間確認。雨天時再確認。

 再確認。雨の日、灯点灯後。


 リゼは、最後の行を書き終えると、鉛筆を置いた。


「これで、まだ断定していません」


「はい」


 レンは答えた。


「でも、次に見る場所が決まりました」


「いいと思います」


 その声は、朝より少し柔らかかった。


 リゼの記録を、便利な資料ではなく、人の不調を消さないための形として、リゼ自身が守りたい順番のまま、局の紙へ入れられた。


 そのことにレンは、胸の奥で小さく息を吐いた。


 ガルトが、試作票を見た。


「明日は、これを持って市場北口へ行く」


「市場ですか」


 カルムが顔を上げる。


「南水門だけではない。市場北口の苦情にも、頭重感と水桶列がある。測瘴症状票が使えるなら、そこで試してこい」


「市場は人が多いです」


 リゼが言った。


「だから試せ」


 ガルトは答えた。


「庭園の紙だけで終われば、庭園の紙だ。市場で使えれば、街の紙になる」


 マルカが板を肩に担いだ。


「じゃあ、明日は人が読むかも見るね」


 ガルトが言う。


「見るだけではなく、読ませる。読まれない板なら、置く意味がない」


「分かってるって」


 マルカは笑った。


 レンは、試作された測瘴症状票を見た。


 症状だけで断定しない。

 測定値だけで消さない。


 その一行は、グラントールの紙の山の中で、まだ細く、弱い。


 けれど、確かに置かれた。


 村で得た「伝達」。

 鉱山で得た「記録」。

 峠で得た「停止」。


 その三つのうち、「記録」がいま、領都の紙の上に形を持った。


 レンは野帳を開いた。


 測瘴症状票。

 症状だけで断定しない。測定値だけで消さない。

 場所、湿り、作業者位置、設備、値を同じ行に置く。


 最後に、一行だけ足した。


 人の不調を、式の外へ捨てないための紙。


 リゼが横から、その一行を見た。


 何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ、頷いた。


 それで十分だった。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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