第9話 市場北口と読める板 前編
翌朝向かった市場北口は、庭園とはまったく違う場所だった。
水音はある。
だが、それは石槽の奥で細く鳴る水ではない。桶へ水を汲む音、魚を洗う音、濡れた布を絞る音、荷馬車の車輪が水たまりを踏む音だった。
人の声も多い。
野菜を売る声、値切る声、荷をどかせと怒る声、子どもを呼ぶ声。布屋根の下では湯気が上がり、干し魚の匂いと焼き菓子の匂いと、濡れた木箱の匂いが混じっていた。
リゼは、北口へ入る前に足を止めた。
「人が多いです」
「昨日も言っていましたね」
レンが答えると、リゼは頷いた。
「庭園なら、誰がどこにいたかを追えますが、市場では、動きます」
「はい」
「動く人を、紙の行に入れるのは難しいです」
その言葉は、弱音ではなかった。
難しいものを難しいと置いたうえで、どう見るかを考える声だった。
マルカは、肩に細い板材を担いでいた。昨日の水門庭園で削った板より、少し広い。市場で人に読ませるなら、遠くから見えて、濡れても字が流れにくいものが必要だ、と彼女が朝のうちに選んだ板だった。
「人が動くなら、板も動かせるようにした方がいいね」
「板を動かすのですか」
カルム・ヴェイスが訊いた。
彼は今日、文書箱ではなく、薄い台帳箱を二つ持っている。昨日より荷は少ない。だが、箱の角に付けた小さな紐を何度も確かめていた。
「市場は、朝と昼で人の流れが違うでしょ。固定で打ち込むより、立て札にして場所を変えられる方がいいかも」
「立て札……」
カルムはすぐに記録しようとして、手を止めた。
ガルト・リーヴェルは、二人のやり取りを聞きながら市場北口を見ていた。
今日、彼は現場に来ている。送魔局の局長代理が市場の水桶列に立つと、それだけで周囲の商人たちが何事かと目を向けた。
「記録に書く名前なんて、後でいい」
ガルトは言った。
「まず、読ませろ。読めなければ、名前を付けても無駄な紙が増えるだけだ」
「はい」
カルムは短く返事をした。
レンは、北口の門柱を見上げた。
市場北口の送魔灯は、低い屋根の下に三つ並んでいる。
昼間なので本来は弱点灯でよいはずだが、布屋根の下は暗い。青白い低圧灯が、濡れた布の影を床へ落としていた。
水汲み場の、壁沿いの灯具の下に、水桶の列がある。
水桶列と呼ばれているらしい。
市場の共同用水を、水桶番が管理する桶の列だ。
市場での用水が汲まれた清水桶が五つ、雨だれの下、壁沿いに並んでいて、ここから必要分を持ち出すようだ。
壁際は乾いていない。
雨だれの隙間から漏れ伝う滴が壁を伝っている跡が見えるが、晴れの日でも、桶を動かすときに跳ねた水が灯具下の床と金具をいつも湿らせているようだった。
壁には、細い黒い筋が走っている。
レンは、少しだけ眉を寄せた。
「水桶の列が、灯具下に寄っていますね」
「汲んだ水を壁際に寄せるときに、灯具の下を濡らしちゃってるね」
マルカが答える。
「はい。桶が使われる位置が、灯具下の湿りを固定しています」
「それは、ありそうです」
リゼは、まだモノクルを下ろしていなかった。
まず、目で見ている。
「症状の控えを確認します」
カルムが、市場苦情帳の写しを開いた。
「市場北口。三日前、頭重感一件。昨日、目の奥の重さ一件。いずれも、朝市の水桶列付近。市場組合の控えでは、疲労または寝不足扱い。送魔局灯火台帳では、異常なし」
「市場組合の配置控えは」
「こちらです」
カルムが、別の紙を出す。
レンは二つの紙を並べた。
苦情帳。
配置控え。
そして、リゼが昨日作った測瘴症状票の空欄。
場所、時刻、役割、症状、湿り、作業者位置、設備、測定値、処置、再確認。
リゼは、その紙を広げる前に、人の流れから半歩外れた。
記録板を胸の高さで持ち直し、入口の敷居、灯具、水桶列を順に見てから、静かに息を整える。
紙を広げる前に、症状の芽を見逃すまいとしているように、レンには見えた。
*
市場組合の帳場役は、ドランという男だった。
丸い腹を革前掛けで押さえている。ガルトを見ると、露骨に背筋を伸ばしたが、レンたちを見る目には警戒があった。
「また灯の話か」
「また、ということは、前にもあったのですか」
リゼが訊くと、ドランは少し渋い顔をした。
「市場で頭が重いの、目が痛いの、腰が痛いの。そんなものは毎日のこと。朝市は早いし、雨が降れば余計にだるくなる。灯まで疑われたら、商いにならん」
「灯を疑っているわけではありません」
レンは言った。
「測ります。違えば、違ったと残します」
「残す?」
「はい。異常ではなかったことも、残します」
ドランは、少し不審そうにした。
「異常でないなら、消してくれた方が助かるんだが」
リゼの手が、記録板の端でわずかに止まった。
レンは、その動きを見た。
ここで急いで説明すると、また設備側の言葉になる。
だが、黙ると、リゼの紙がただの苦情処理に矮小化される。
「消すと、次に同じことが起きた時、比べられません」
レンは言った。
「ただし、症状だけで設備異常とは書きません。測定値だけで症状を消しもしません。両方を、別の欄に置きます」
リゼが、静かに続けた。
「測瘴症状票といいます。苦情票ではありません」
ドランは、名前の長さに少し顔をしかめた。
「たいそうな紙だな」
「たいそうにしないと、消えてしまうので」
リゼの返答は短かった。
ドランは口を閉じた。
ガルトが低く言う。
「市場組合は協力しろ。今日止めるとは言っていない。見るだけだ」
ガルトの声には、それ以上の説明を許さない重さがあった。
ドランは、渋々頷いた。
「分かった。水桶列なら、朝の忙しい時間はもう過ぎてる。何か動かすなら今のうちにしてくれ」
「まず、動かさずに見ます」
リゼが言った。
「その後、動かして、もう一度見ます」
「二度見るのか」
「条件が変わるからです」
ドランは、また顔をしかめた。
「面倒だな」
「事故よりは短いです」
レンが言った。
ドランは、不承不承という顔をしたが、反論はしなかった。
*
リゼは、まず水桶列の位置を測った。
測る、といっても、いきなり値を読むのではない。
床の湿り、桶の底、灯具の下、布屋根の縁、待ち列の位置、風の流れを順に見ている。
レンは、灯具の下を見た。
青白い灯は安定している。
ただ、灯具の金具の下側に、水滴が残っていた。滴は直接灯の中へ入っていない。だが、封瘴釉を塗った陶製の小さな受け皿の縁が濡れ、そこから壁へ薄い黒い筋が走っている。
「灯具は、濡れていますが、故障ではないと思います」
レンは言った。
「清水桶が灯具下へ寄り、濡れ布も灯具の下に掛かっています。灯具そのものより、灯具下の受け金具と壁が湿ったままです。そこに人が立つ時間が長い」
「作業者の位置……」
リゼが言う。
「水桶番は灯具下に立ちますか」
ドランが水桶番を呼んだ。
年配の女だった。腕が太く、腰に布を巻いている。彼女は、リゼのモノクルを見て、少し身構えた。
「私は倒れてないよ」
「倒れたかどうかではありません」
リゼは言った。
「どこに立っているかを確認します」
「だいたい、あそこ」
水桶番は、灯具下の柱を指した。
「桶が空くと、あそこで汲んでおいて、来た人渡す。雨の日は、もっと壁側に寄る。濡れちゃ嫌だからね」
レンは、位置を見た。
灯具下。
水桶列。
布屋根の縁。
壁際の黒い筋。
どれも、小さい。
単独なら、異常とは言いにくい。
「リゼさん」
「はい」
「このまま測った値が低ければ、どう扱いますか」
「症状単独では断定しません。湿りと位置があるので、確認継続です」
「保留ではなく?」
リゼは少し考えた。
「いまは、まだ保留ではありません。負荷を上げる予定がないからです。ただし、水桶列を動かした後に値が変われば、条件として残します」
レンは頷いた。
リゼは、今の言葉をレンへではなく、紙へ向けて言っている。
彼女自身が、測瘴症状票の使い方を確かめている。
それが分かった。
「測定します」
リゼは簡易ミアズマ検知モノクルを下ろした。
遮光枠の下で、左目が細くなる。
「空気中、低。灯具下、低。水桶列下、低から中弱未満。壁筋、低から中弱未満。危険値ではありません」
ドランが、ほっとしたように息を吐く。
「なら、問題なしだな」
「問題なし、とは書きません」
リゼは即答した。
ドランの顔がこわばる。
「危険値ではない、と書きます。水桶列下と壁筋に、低から中弱未満の反応あり。症状は少数。水桶列を動かして再確認」
「結局、疑ってるんじゃないか」
「可能性を消してませんが」
リゼは言った。
「断定もしていません」
その声は落ち着いていた。
市場のざわめきの中で、リゼの声だけが、細くまっすぐに通った。
レンは、少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
今のリゼは、レンのために記録しているのではない。
自分の原則で立っている。
レンがするべきことは、その原則を崩さないことだった。
*
水桶列を動かすだけで、市場は少し騒ぎになった。
「桶は壁際じゃないと邪魔だ」
「灯の下が一番暗くなくて見やすいんだ」
「水を取りに来る人に回り道させるのか」
それぞれ、もっともな言い分だった。
マルカは板を肩から下ろし、床に置いた。
「じゃあ、通れる場所に線を引こう」
「線?」
水桶番が訊く。
「水桶の腹がここまで。人が通るのはこっち。濡れ布は灯の下へ出さない」
マルカは、炭で床へ仮の線を引いた。
水桶の新しい列を、灯具から半歩外へずらす。完全に移すのではない。
通路を潰さず、壁の黒い筋から外し、布屋根の滴が直接落ちない位置を探す。
リゼが、布屋根の端を見た。
「灯具の下に垂れている濡れ布を外してください」
「これかい」
水桶番が、柱に掛けていた古い布を持ち上げる。
濡れている。
灯具の下に掛けると乾きやすいのだろう。
「別のところに掛けてください」
「乾きにくいよ」
「残瘴する方が困ります」
「そうなのかい?それなら、まあ」
水桶番は、布を移した。
ドランが、腕を組む。
「これで商いに支障が出たら戻すよ」
「戻す前に言ってください」
リゼが言った。
「勝手に戻すと、再確認ができません」
「また記録か」
「はい」
水桶番が、リゼを見た。
「嬢ちゃん、疲れないか」
「疲れます」
リゼは即答した。
「でも、疲労だけで片づけないために記録します」
水桶番は、少しだけ笑った。
「変な嬢ちゃんだ」
「よく言われます」
「言われるんだ」
マルカが横で笑った。
レンは、少しだけ驚いた。
リゼが自分でそう返すようになっている。
以前なら、必要な区分です、と真面目に訂正していたかもしれない。
今もその真面目さは変わらない。
ただ、市場の中では、少しだけ受け止め方を変えている。
リゼも、この街に合わせ始めている。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




