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第9話 市場北口と読める板 後編

 水桶列を半歩動かし、濡れ布を外した後、リゼはもう一度測った。


「空気中、低。灯具下、低。水桶列下、低。壁筋、低から中弱未満。水桶列下は下がりました」


 カルムの筆が動く。


「処置。水桶列半歩仮置き。濡れ布、灯具下から外す。再測定、水桶列下、低」


「症状は」


 レンが訊く。

 この短時間で症状の差が現れるとは思っていないが、測瘴症状票の使い方を一通り確認するための質問だ。


「今日この場での症状はありません。ただし、過去の症状記録は残します」


 意図を汲んで、リゼは真面目に答えた。


「今日下がったから、昨日の頭重感が消えるわけではありません」


「分かりました」


 マルカが板へ炭を当てた。


「じゃあ、立て札には何て書く?」


 最初の板に書くことを、リゼが紙に書いてマルカに見せた。


 水桶列を灯具下へ戻さないこと。

 濡れ布を灯具の下へ掛けないこと。

 頭が重い、目の奥が痛い場合は、水桶番または市場帳場へ申し出ること。

 勝手に配置を戻す前に送魔局へ連絡すること。


 マルカは、しばらく読んだ。


「うーん、長いね」


「削るなら、何を残しますか」


 リゼが訊く。


 昨日より少し早い。

 最初から、マルカに渡すつもりの問いだった。


 マルカは板に書いた。


 水桶は灯の下へ戻さない。

 濡れ布を灯へ掛けない。

 頭が重い時は水桶番へ言う。


 彼女は少し考え、最後に一行足した。


 戻す時は帳場へ言う。


「どう?」


 リゼは読んだ。


「『灯』は市場灯と分かりますか」


「ここに置くなら分かる。だけど、灯具と書いた方がいい?」


「はい」


 マルカは書き直した。


 水桶は灯具の下へ戻さない。

 濡れ布を灯具へ掛けない。

 頭が重い時は水桶番へ言う。

 戻す時は帳場へ言う。


 リゼは頷いた。


「いいと思います」


「読める?」


 マルカが水桶番へ見せる。


 水桶番は、目を細めて読んだ。


「読めるよ。けど、『帳場』っていうより、ドランのところ、って書いた方が分かるね」


 ドランが咳払いした。


「名前を書くな」


「じゃあ、帳場でいい」


 水桶番は笑った。


 カルムが、その板を見ていた。


「これは、局の台帳にどう残せばよいのでしょうか」


「どういう意味?」


 マルカが訊く。


「測瘴症状票には、今の処置を書けます。市場苦情帳にも、配置を変えたと書けます。送魔局灯火台帳にも、水桶列を動かしたと追記できます。ですが、この板は……」


 彼は言葉を探した。


「板だけだと、後で誰が作ったか、どの票に対応しているか分からなくなります」


 ガルトが、少しだけ目を細めた。


「どうする」


 ガルトが問う。


 カルムは、少しだけ喉を鳴らした。


「番号を付けます」


 マルカが、ぱっと顔を上げた。


「板に?」


「板にも、です」


 カルムは言った。


「局の台帳だけに番号があっても、現場の板が別物になってしまいます。測瘴症状票の右上に仮番号を振り、市場苦情帳と灯火台帳にも同じ番号を写す。板の裏にも、同じ番号を書く。そうすれば、板を外した時にも、どの記録と対応していたか戻せます」


 言い終えた後、カルムは自分で驚いたような顔をした。


 マルカは、にやりと笑った。


「それ、いいじゃん」


 カルムの耳が、わずかに赤くなった。


「良い、でしょうか」


「いいよ。板が迷子にならない」


「板が迷子」


「現場だと、よく迷子になるよ。誰かが外して、別の場所に立てたり、雨よけに使ったり」


「雨よけに……」


「板だからね」


 カルムは、真剣に少し青ざめた。


「では、表だけでなく裏にも番号を」


「裏に書いても雨で消えるよ」


 マルカが言う。


「今日は炭で仮。あとで焼き印か、刻印にしよう」


 カルムはすぐに書き足した。


「仮現場札。後日、刻印」


 その言葉を見て、マルカが首をかしげた。


「現場札?」


 カルムは、少しだけ固まった。


「今、そう書きました」


「いいんじゃない?」


 マルカは軽く言った。


「現場で読む札。現場札。分かりやすいね」


 カルムは、ガルトを見た。


 ガルトは、しばらく黙っていた。

 それから言った。


「仮称だ」


「はい」


「だが、悪くない」


 カルムの肩の力が、少しだけ抜けた。


 レンは、その瞬間を見ていた。


 カルムの紙が、初めて現場の板へつながった。

 マルカの短い言葉が、局の台帳への帰り道を得た。


 これはまだ小さい、市場北口の一枚の板にすぎない。


 だが、グラントールで必要だったのは、たぶんこの接続だった。


 測る紙。

 読ませる札。

 戻れる番号。


 その三つが、初めて同じ場所に置かれた。



     *



 午後になると、市場北口の仮配置は、少しだけ市場に馴染んだ。


 水桶列は半歩ずれた。

 通路は、思ったほど詰まらなかった。

 濡れ布は灯具から外され、桶の裏の低い竿に掛けられた。


 仮の現場札は、水桶列の横に立てられた。


 水桶は灯具の下へ戻さない。

 濡れ布を灯具へ掛けない。

 頭が重い時は水桶番へ言う。

 戻す時は帳場へ言う。


 右下に、小さな仮番号があった。


 市場北口・測瘴一。


 カルムの字だった。


「番号、ちょっと固いね」


 マルカが言う。


「仮なので」


「仮でも固いよ。板には長くても普通の言葉で。裏に短い番号を書いたら良いんじゃない」


「じゃあ、板表は『市場北口・測瘴一』、裏と台帳は『市北測一』とか?」


「いいじゃん」


 カルムは、真剣に頷いた。


「採用します」


 マルカは、少し得意そうに笑った。


「カルム、今日は話が早い」


「昨日よりは、現場の板が見えています」


 リゼは、測瘴症状票へ最後の欄を書き込んでいた。


 再確認。雨天時、朝市前。水桶列仮置き後。


「雨の日にもう一度、か」


 ドランが言った。


「はい」


 リゼは答えた。


「今日下がったのは、晴れた日の朝市後です。雨の朝に同じとは限りません」


「また面倒なことを」


「はい」


 ドランは、諦めたように笑った。


「はい、と言われると怒りにくいな」


「怒らないでください」


「怒ってはいない。少し困っているだけだ」


「困っていることも、必要なら記録します」


「それはしなくていい」


 市場の空気が、少しだけ変わっていた。


 朝は、送魔局がまた余計な紙を持ってきた、という目だった。

 午後には、水桶を少しずらしたら確かに測瘴値が下がるらしい、という目になっている。


 大きな勝利ではない。

 誰も拍手しない。

 市場は、すぐにいつもの声へ戻る。


 だが、一枚の測瘴症状票と、一枚の現場札が、同じ番号でつながった。


 それは、今までになかったことだ。



     *



 送魔局へ戻る道で、リゼは測瘴症状票の写しを抱えていた。


 朝よりも少しだけ、紙の端を持つ手が安定しているように見えた。


 レンは、声をかけるか迷った。


 南水門での会話から、リゼとの距離はまだ完全に戻っていない。

 不用意に踏み込めば、また自分の言葉が取り繕いになる。


 だが、何も言わなければ、今日の意味も曖昧になる気がした。


「リゼさん」


「はい」


「今日、測瘴症状票を市場で使えてよかったと思います」


「はい」


「ただ」


 レンは、一度言葉を切った。


「便利だったから、ではありません」


 リゼの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。


「リゼさんが、症状だけで断定しない、測定値だけで消さないと言ったから、今日の市場では止めすぎず、消しすぎずに済みました」


 リゼは、前を見たまま黙っていた。


「僕なら、灯具と水桶列を見て、すぐ設備側に寄せていたと思います。マルカさんなら、すぐ読める板へ寄せる。カルムさんなら、台帳へ寄せる」


「それは、悪いことではありません」


「はい。悪くありません。でも、最初に症状を消さない紙として置いたから、全部がつながりました」


 リゼは、少しだけ視線を落とした。


「私だけの紙ではありません」


「はい」


 レンは答えた。


「でも、欄の順番は、リゼさんの判断です」


 リゼは、そこで小さく息を吸った。


「……そこを変えないでいてくれるなら、よいです」


 声は、まだ完全に柔らかくはなかった。


 だが、硬くもなかった。


 レンは頷いた。


「忘れません」


 リゼは、ほんのわずかに口元を緩めた。



     *



 夕方の小会議室には、朝にはなかったものが三つ増えていた。


 一枚目。

 市場北口の測瘴症状票。


 二枚目。

 市場北口の現場札写し。


 三枚目。

 カルムが作った、仮番号の対応表。


 市場北口・測瘴一。

 略号、市北測一。

 対応紙。測瘴症状票、市場苦情帳、灯火台帳、水桶列配置控え、現場札。

 再確認。雨天時、朝市前。


 ガルトは、それを見た。


「ようやく、現場から局の記録まで追える形になったな」


「追える形、ですか」


 カルムが訊く。


「現場で札が外れても局の記録へ追える。局の台帳から現場の札も追える。そういう形だ」


 カルムは、対応表を見た。


 その顔つきが、朝と少し違っていた。


「局の番号は、局のためだけではないのですよね」


 マルカが横から言う。


「カルム、今日のはよかったよ」


 カルムは、ぱっと顔を上げた。


「どこがですか」


「板が迷子になるって分かったところ」


「それは、マルカさんが言ったことです」


「でも、番号にしたのはカルムでしょ」


 カルムは、少しだけ言葉に詰まった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 マルカは軽く返した。


 何気ないやり取りだった。

 しかし、カルムはしばらく対応表へ視線を落としていた。


 レンは、それを見て、今日のもう一つの成果だと思った。


 市場北口の湿りは、小さい。

 頭重感も、たった数件だ。

 測定値も、危険値ではない。


 けれど、そこで生まれた番号は、これからもっと大きな工事でも必要になる。


 ガルトが、机の上の外周送魔環図を広げた。


「次は職人組合だ」


 マルカが顔を上げる。


「もしかして、材料?」


蒼銅()線、留め具、白冠陶(高絶縁磁器)片、封瘴布(絶縁布)。市場北口の板一枚なら、手持ちで済む。外周送魔環はそうはいかん」


 ガルトはレンを見る。


「王都送魔局が出している零偏補償案は、零偏環(ZCT)で漏れまで拾えるという触れ込みだが、こういう部材差も勝手にそろっている前提で書かれているのか」


「少なくとも、式はそこを見ません。零偏環も、漏魔してから気付くためのもので、どこに使われているどの線が危なそうかまでは教えてくれません」


 レンは答えた。


「なら、見えるようにする必要があるな」


 ガルトは言った。


 レンは頷いた。


「はい」


 小さな現場で拾った「記録」は、測瘴症状票になった。

 市場で生まれた「伝達」は、現場札という名を得た。

 そして、その二つを局へ戻す番号が、カルムの手元に生まれた。


 まだ、街は動いていない。

 外周送魔環は、図面の上にあるだけだ。


 だが、グラントールの紙の山に、ようやく一本の細い糸が通った。


 レンは野帳を開いた。


 市場北口。

 水桶列、灯具下から半歩移動。

 濡れ布、灯具下から撤去。

 測瘴症状票、市場北口・測瘴一。

 現場札、同番号。

 局の紙と現場の板を、同じ番号で結ぶ。


 最後に、一行を足した。


 読める板は、戻れる番号を持って初めて、街の記録になる。


 マルカが、後ろから覗き込んで言った。


「短くするなら、『板にも帰り道』かな」


 カルムが、思わず顔を上げた。


「それは、少し良いです」


「でしょ」


 マルカは得意げに笑った。


 ガルトが低く言う。


「明日は職人組合だ」


「はい」


 四人の返事が重なった。


 グラントールの夕灯が、窓の外で少しずつ点り始めていた。

 市場北口の灯も、その一つだ。


 その灯の下には、今日から一枚の板が立っている。


 まだ仮だ。

 濡れれば字も薄れる。

 誰かが動かすかもしれない。

 雨の日に本当に効くかも分からない。


 それでも、そこには番号がある。

 戻れる場所がある。


 レンは、窓の外の灯を見た。


 式は、まだ遠い。

 けれど、式の外へ捨てていたものが、少しずつ紙と板の上に戻り始めている。


 それは、事故を止めるための、次の形だった。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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