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第10話 職人組合と材料控え 前編

「次は職人組合だ」


 ガルト・リーヴェルがそう言った翌朝、グラントール送魔局の小会議室には、市場北口の現場札が一枚置かれていた。


 右下には、小さく仮番号が入っている。


 市場北口・測瘴一。


 その番号は、測瘴症状票、市場苦情帳、灯火台帳、水桶列配置控え、現場札をつないでいる。


 昨日までなら、ただの板だった。

 今日は、戻れる場所を持った板になっている。


 カルムは、その板を何度も見ていた。


「何か気になりますか」


 レン・アルバートが訊くと、カルムはすぐに顔を上げた。


「気になるというより、怖くなりました」


「怖い?」


「はい。番号を付けた途端、外した時にも、戻した時にも、誰かが見ます。昨日は、板が迷子にならないと思いました。でも、逆でもあります。板を動かした者も、記録へ戻ります」


 マルカ・ノルクが、椅子の背に肘を置いた。


「いいことじゃないの?」


「いいことです。ただ、軽く書けなくなります」


「それもいいこと」


 マルカは笑った。


 カルムは、少しだけ背筋を伸ばした。


「そう、かもしれません」


 リゼ・カトルは、測瘴症状票の写しを束ねていた。

 昨日の市場北口分、庭園石槽分、ベルノの写し、白石峠の控え。それぞれは別の紙だが、欄の順番は揃えてある。


 症状だけで断定しない。

 測定値だけで消さない。


 その一行は、上端に残っている。


 ガルトは、外周送魔環の図面を机に広げた。


 そこには、街の外縁を囲む冠石門塔(送電塔)の列が描かれている。だが実際の塔は、高さも碍子列もそろわず、新しい冠石碍子(高圧用碍子)と古い灰色の碍子が継ぎ足されたままだ。


「市場北口の板一枚なら、手持ちの板と炭で済む。だが外周送魔環はそうはいかん」


 彼は南外縁を指でなぞった。


「古い塔を一本ずつ建て替えるだけなら、職人組合だけで話は済んだ。外縁を環にするから、どの塔を残し、どの線を殺し、どこを仮につなぐかまで決める必要がある」


 更に、とガルトは続ける。


「南水門、市場北口、工房街南、西外縁。こいつらを暫定的につなぐには、線材、留め具、碍子、封瘴材(絶縁材)、作業札、作業者がいる。送魔局の紙だけでは動かん。職人組合の紙も必要だ」


「材料を見に行くのですね」


 レンが言うと、ガルトは頷いた。


「見に行く。だが、買えるわけではない」


「許可が要るからですか」


「金も、通行も、倉庫も、職人の手も、全部だ。まずは、何を求めるか決める。求めるものが曖昧なまま領主へ上げても、紙が戻ってくるだけだ」


 マルカが図面を覗き込んだ。


「職人組合って、線を作る人たち?」


「線引き、金具、陶片、台座、足場、荷役。全部ではないが、窓口はそこだ」


「じゃあ、口うるさそう」


「口うるさい」


 ガルトは即答した。


「だから、お前が要る」


 マルカは目を丸くした。


「あたし?」


「局の言葉で材料規格を読ませても、職人は動かん。職人の言葉だけで出させると、局が読めん。どちらにも読めるという塩梅が必要となる」


「責任重いね」


「軽い仕事なら呼ばん」


 マルカは少し考えた後、口元を上げた。


「いいよ。職人の言葉なら、紙より板の方が早い」


 カルムが、その言葉をすぐに書こうとして止まった。


 マルカは、ちらりと見て言う。


「今のも番号つける?」


「まだ付けません」


「成長した」


「からかわないでください」


 会議室が少し、笑いに包まれた。



     *



 職人組合の建物は、工房街の入口にあった。


 王都の組合会館のように磨かれてはいない。

 太い梁、煙で黒ずんだ天井、壁に掛かった線引き板、古い滑車、試し曲げ用の鉄芯、割れた冠石碍子の見本。床には、細い蒼銅()の削りくずが踏み固められている。


 建物の奥では、何かを引く低い音がしていた。

 ぎり、ぎり、と一定に近いが、最後だけ重くなる。


「線引き場です」


 カルムが説明した。


「グラントールでは、細い蒼銅線の一部をここで引き直します。大口の線材は、領都外の大工房から入ります」


「全部ここで作るわけではないんだ」


 マルカが言う。


「はい。外周送魔環に必要な量を、組合だけで新規に作るのは難しいです」


 その声を聞きつけたのか、奥から大柄な男が出てきた。


 五十代前後。腕が太く、肩が厚い。右耳の上に白い傷があり、作業上着の袖には細かな銅色の粉が付いていた。腰には短い曲げ尺と、古い封札切りが下がっている。


「送魔局が朝からぞろぞろと。何を今度は標準にする気だ」


 ガルトが短く答えた。


「ベリオ・ガンツ。職人組合長だ」


「名乗る前に紹介するな」


 ベリオは鼻を鳴らし、レンたちを順に見た。


「こっちが王都を追われた若い技師か」


「レン・アルバートです」


「こっちは測る娘」


「リゼ・カトルです」


「で、そっちが縄の娘か」


「マルカ・ノルク。縄だけじゃないよ。木も水車も見る」


「よし。紙だけの連中ではなさそうだ」


 カルムが小さく咳をした。


「私もいますよ」


「お前は知ってる。箱を落としそうな技官補だ」


「落としていません」


「落としそうだった」


 マルカが、口元を押さえた。


 カルムは誤魔化すように咳払いした。


 ガルトが机を指した。


「外周送魔環の暫定設計に使う材料を見たい。蒼銅線、留め具、白冠陶(高絶縁磁器)片、封瘴布(絶縁布)。組合の在庫と、使える言葉を確認する」


「使える言葉?」


「お前たちの『中線』が、送魔局の『中線』と同じとは限らん」


 ベリオの顔が少し険しくなった。


「職人の言葉を疑うのか」


「疑う。局の言葉も疑う」


 ベリオは、腕を組んだ。


「王都式の長い規格を押し付けるなら帰れ。うちの職人は、甲一だの乙二だの、紙だけ見て線は引かん」


「押し付けに来たわけではありません」


 レンは言った。


「ですが、同じ名前の線が、同じ場所に使えるとは限りません。どこへ使ってよいかを、現場と台帳の両方で残したいのです」


 ベリオがレンを見た。


「若いの。線を見ずに言うな」


「見せてください」


「いい返事だ」


 ベリオは、奥へ顎をしゃくった。


「線置場へ来い」



     *



 線置場は、職人組合の裏手にあった。


 屋根はあるが、完全な倉庫ではない。雨は直接入らないものの、風は通り、足元の石敷きは一部濡れていた。水路が近いせいもあるだろう。


 蒼銅線の束が、太さごとに吊られている。

 太いものは木枠に巻かれ、細いものは輪にして油紙で縛ってある。だが、札の書き方は揃っていない。


 中線。

 戻し向き。

 灯り用。

 水場避け。

 古いが使える。

 親方確認済。

 工房街向け。


 レンは、一つずつ見た。


 同じ「中線」でも、色が違う。

 艶も違う。

 曲げた跡の戻り方も、おそらく違う。


「これを、全部同じ中線として扱うのですか」


 レンが訊くと、ベリオは嫌そうに眉を上げた。


「扱わん。札を見ろ」


「札は見ています。でも、局内台帳に写すと同じになります」


 カルムが、持ってきた材料控えを開いた。


「送魔局の材料控えでは、蒼銅中線、蒼銅細線、煌銅(真鍮)留め具、白冠陶片、封瘴布、という分類だけです。組合札の『戻し向き』『水場避け』『古いが使える』は、写っていません」


「写せばいい」


 ベリオが言う。


「どの欄にですか」


「お前たちの台帳なんか知らん」


 ベリオはすぐに返した。


 マルカが、吊られた線束へ近づいた。


「触っていい?」


「引っ張るなよ」


「曲げるだけ」


「それが引っ張るより怖い時もある」


 マルカは笑い、輪になった蒼銅線の端を少しだけ持ち上げた。


「これは硬い。戻りが強い。広場の灯りならいけるけど、細かく曲げると嫌な感じ」


 次の束を持つ。


「こっちは柔らかい。けど、表面が少しざらつく」


 リゼが近づき、モノクルを下ろした。


「水場近くに置いていましたか」


 ベリオは少しだけ目を細めた。


「一月前まで、南倉庫だ。雨漏りがあった」


「表面に低い残瘴(磁化)反応があります。危険値ではありません。ただ、湿った場所の導魔線には使いたくありません」


「危険値でないなら良いだろ」


「はい」


 リゼは答えた。


「危険値ではありません。だから捨てろとは言いません。ですが、使う場所を分ける必要があります」


 マルカが三つ目の束を見た。


「これは綺麗。曲げても嫌な筋が出ない」


 レンも近づいた。


「均し直したものですか」


 ベリオの眉が少し動いた。


「分かるのか」


「色と戻りで、たぶん」


「大工房から来た均相(※2話前編)済みだ。数は少ない。お前らが欲しいと言っても、全部は出せん」


「全部は要りません」


 レンは言った。


「主線に使うもの、低圧灯に使えるもの、湿潤部を避けるもの、使用保留にするもの。それを分けたいだけです」


「だけ、で済むか」


 ベリオは鼻を鳴らした。


「分ければ、誰かが損をする。『古いが使える』を『灯り用まで』に落とせば、その束は安く扱われる。『水場避け』と書けば、南水門には出せない。組合の在庫は紙の上で軽くなる」


 レンは答えに詰まった。


 正論だった。


 安全側に分類することは、誰かの在庫価値を下げる。

 王都では、そういう負担を数字の下へ隠していたのかもしれない。


 ガルトが低く言った。


「だから、勝手には決めない。組合と送魔局の両方の札に残す」


「残せば損が消えるわけじゃない」


「消えん。だが、事故も消えん」


 ベリオとガルトの視線がぶつかった。


 マルカが、間に入るように言った。


「じゃあ、値段を下げる札じゃなくて、行き先の札にしたら?」


「行き先?」


 ベリオが訊く。


「この線は、ここまでなら使えるって札。灯り用。乾いた壁用。主線用。水のそば不可。そうすれば、使える場所が残る。駄目って言うより、行けるところを書いたら良いよね」


 ベリオは黙った。


 マルカは、線束を指で示す。


「この硬いやつは、灯り用ならまだ使える。表面ざらつくやつは、乾いた場所ならいけるかも。綺麗なのは主線用。水場の接地導魔線には、別のを選ぶ、って感じで」


 リゼが続けた。


「測定値だけで廃棄とは書きません。使用条件を残します」


 レンは頷いた。


「材料は材料の控えにしましょう。主線用、灯り支線用、水場不可、保留。どこへ使えるか、どこへ使わないかを、材料番号と施工番号で追えるようにします」


 カルムが、ゆっくり顔を上げた。


「材料控えにも、現場札にも、同じ番号の系統を持たせるんですね」


「はい」


「市場北口では、測瘴症状票と現場札をつなぎました。ここでは、材料控えと施工図と現場札をつなぐ」


 カルムの声が、少しだけ速くなる。


「さらに、後で症状が出た場合、測瘴症状票から施工番号へ戻れる。材料番号へも戻れる」


 マルカが笑った。


「カルム、目が台帳になってる」


「悪い意味ですか」


「いい意味。たぶん」


「たぶんって……」


 カルムは、少しだけ不満そうにしながらも、すぐに紙を開いた。


 ベリオが、その様子を見ていた。


「番号だらけにして、職人が読むと思うか」


「現場で読ませる番号と、台帳につなげる番号を分けます」


 カルムが答える。


 昨日のカルムなら、すぐには出なかった言葉だ。


「札の表は、主線用、乾いた壁用、水場不可、のような言葉にします。裏または端に、局内の短い番号を入れる。職人は表を見る。局とは番号でつながる」


 マルカが、にこりとした。


「それ、昨日よりいい」


 カルムは、筆先を止めて小さく頷いた。

 筆を持つ手に、少しだけ力が入っていた。


 ガルトは、ベリオへ向いた。


「どうだ」


 ベリオは、しばらく線束を見ていた。


「使える場所を書く札なら、組合も飲みやすい。だが、誰が判定する」


「今日、この場で全部は決めません」


 レンは言った。


「まず、外周送魔環の暫定調査に必要な分だけです。南水門周辺、市場北口、工房街南、西外縁。湿潤、煤、荷馬車道、水桶列、水位板。使う場所ごとに、最小限を選ぶ」


「最小限、か」


 ベリオは腕を組む。


「大きく出た割には、小さい話をする」


「街全体を一度に直す材料はありません」


「あるわけがない」


「だから、最初に間違えると高く付きます」


 ベリオは、レンを見た。


「後で手戻りが出る場所ほど、先にいい線を入れろということか」


「はい。使う場所を間違えた線は、外した後も周りを疑うことになります」


「材料は、最初から使い道で分けろって話だな」


 ベリオは線束を三つ指した。


「主線へ入れるなら、この均し済み。数は少ない。水場近くの仮接地導路なら、組合の古い癖線は使わせん。乾いた壁の灯り支線なら、そこの硬いやつで足りる。水を吸った束は、乾いた倉庫で測り直すまで保留だ」


 リゼが頷いた。


「保留は、廃棄ではありません」


「分かってる。職人にそう言って回るのが面倒なんだ」


「それは、私の仕事ではありません」


 リゼの返事に、ベリオは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、低く笑った。


「いい。測る娘は、職人の機嫌を取らんな」


「事故は、機嫌では止まりません」


「まったくだ」


 ガルトが短く言った。



     *



 組合の長机の上に、材料が並べられた。


 蒼銅線の束が三種。

 煌銅留め具が二種。

 白冠陶片が箱二つ。

 封瘴布の端切れと、まだ封を切っていない新しい布巻きが一本。


 マルカは、蒼銅線の端を試し曲げ用の丸芯へ当てた。


「曲げ半径は?」


 ベリオが訊く。


「現場で無理に曲げそうなところ」


「それが一番嫌な答えだ」


「でも、やるでしょ。濡れた足場で、あと半尺足りない時」


 ベリオは否定しなかった。


 マルカは硬い束を曲げた。


 ぎし、と嫌な音がする。

 表面に細い筋が出た。


「灯り支線まで」


 マルカが言った。


「主線には入れたくない。水場も嫌」


 カルムが書く。


 材料札、仮。蒼銅硬中線一。表札案、灯り支線用。水場不可。主線不可。


「長いよ」


 マルカがすぐ言う。


「表札は、灯り用。水場不可、で足りますか」


 カルムが訊く。


「うん、それぐらいかな。主線に入れるな、は裏か台帳」


「表札は『灯り用、水場不可』。裏には『主線不可』と書きます」


 カルムは書き直した。


 次に、表面がざらつく束。


 リゼが測る。


「表面、低から中弱未満。床に接していた側へ反応が寄っています」


 レンは、線束の置かれていた床と、近くの作業台に残る小型魔工具の配線跡を見た。


「濡れた床に接していた箇所が、近くの魔工具の配線まわりで誘導瘴場(磁場)を拾ってしまったのでしょう」


「はい。わずかな瘴化です。主線には入れませんが、灯り支線や乾いた壁の補助線なら使えます」


 ベリオが眉を寄せる。


「ほんとに、止めるわけじゃないんだな」


「はい。使える場所を分けます」


 カルムが書く。


 蒼銅湿倉二。表札案、灯り用。主線不可。


 マルカが覗く。


「表には、灯り用、でいいと思う。主線不可は裏と台帳」


「はい、そうします」


 最後に、均し済みの蒼銅線。


 マルカが曲げる。


 戻りは素直だった。

 表面の筋もない。


 レンは、その線を見て、外周送魔環の南外縁を思い浮かべた。


「主線候補です。ただし、全部には足りません」


「どこへ優先する」


 ガルトが訊いた。


 レンは図面を広げた。


「南水門から市場北口までの方でしょうか。ここは水と人が多い。市場北口から工房街南までは、煤がありますが乾いている区間が多い。そこで古い線を使うなら、場所を絞れます。西外縁の揚水線は水位板前の湿りがあるので、主線候補を残したいです」


 ベリオが目を細めた。


「均し済みは、南水門と西外縁へ優先。市場から工房街は古い線も使う、で良いんだな」


「古い線を使うなら、灯り支線か、乾いた壁に限定します。外周には入れたくありません」


「そうかい」


「ここで曖昧にすると、後で全部疑うことになります」


 レンは図面の外周を指でなぞった。


「零偏補償を街全体に使うなら、線の条件を揃える必要があります。式も零偏環(ZCT)も、図面上の一本が、どの工房で引かれた線かまでは見ません。水場で保管されていたかも、曲げで筋が出たかも、封瘴布が古いかも見ません」


 ベリオは黙って聞いていた。


「だから、式に入れる前に、線の使い場所を残します」


「式は美しいが、線置場は汚い、という話か」


 ベリオが言った。


「言葉を選ばずに言うと、はい」


「気に入らんが、分かる」


 ガルトが口を挟む。


「分かれば、あとは動けるな」


「勝手に仕切るなよ」


 ベリオは苦い顔をした。


 それでも、彼は均し済みの線束を一つ、机の中央へ動かした。


「主線候補。南水門側と西外縁へ優先。これ以上は、領主許可と金が要る」


 ガルトは頷いた。


「そこは後で通す」


「後で通す、で通るなら苦労しない」


「だから、通す紙を作る」


 ベリオはため息をついた。


「結局、紙か」


「紙だけではないです」


 レンは言った。


「紙と現物です」


 ベリオは、少しだけ口元を動かした。


「ガルトと同じことを言うな」



     *



 留め具の話になると、場はさらに荒れた。


 煌銅留め具は湿気に強いが、導魔性がある。

 水場や接地導魔線まわりで使うなら、白冠陶片や封瘴布で直接触れさせない処置がいる。


 普通鉄のかすがいは安い。

 乾いた場所なら応急の押さえとして使える。

 だが、湿れば錆び、泥を抱え、白石峠と同じことが起きる。


 ベリオは、二種類の留め具を机に置いた。


「組合は、普通鉄を大量に持っている。煌銅は少ない。全部を煌銅にしろと言うなよ」


「全部とは言いません」


 レンは言った。


「湿潤区画、封瘴井(※1話前編)近く、接地導魔線を浮かせる箇所は煌銅。ただし、白冠陶片を挟む。乾いた壁で、低圧灯を押さえるだけなら普通鉄でもよい」


「『湿潤区画』って何だ」


 職人の一人が言った。


 若い男だ。線引き場から来たらしく、手に蒼銅の粉がついている。


「水が近い場所です」


 カルムが答える。


「水が近いってどのくらいだ」


 別の職人が言う。


「水路の横か? 雨が当たる壁か? 桶のそばか? 全部水は近いぞ」


 カルムが言葉に詰まる。


 マルカが手を挙げた。


「濡れた跡が一晩残る場所」


 職人たちがそちらを見た。


「雨が降った後、翌朝も濡れてる。泥を噛む。苔が黒い。布を掛けると乾かない。そういう場所は湿り場所。そこは普通鉄を避ける」


「おう。なるほどな」


 若い職人が頷いた。


「『湿潤区画』よりは分かる」


 カルムは、少しだけ落ち込んだ顔をした。


 マルカがすぐに言った。


「でも、局の紙には湿潤区画って書いた方がいいんでしょ」


「はい」


「じゃあ、職人が読む表の言葉と、局が追跡する裏の番号があるといいね」


 彼はすぐに書いた。


 表札: 翌朝も濡れる場所。普通鉄不可。

 台帳: 湿潤区画、普通鉄留め具使用不可。煌銅留め具+白冠陶片。


 ベリオが、マルカを見た。


「ノルクの娘。お前、うちの組合に来る気はないか」


「今は旅の途中なので、ごめんなさい」


「惜しいな」


 カルムの筆が、ほんのわずかに止まった。


 マルカは気づかなかったのか、気づいても流したのか、軽く笑って続けた。


「あと、職人さんが間違えるのは、悪気じゃなくて、忙しい時だと思う。だから札は、忙しい時の目で読めないとだめ」


「忙しい時の目?」


 カルムが繰り返す。


「荷を持ってる。雨が降ってる。親方が怒鳴ってる。足場が揺れてる。そういう時でも読める長さ」


 リゼが静かに頷いた。


「症状を訴える時も同じです。苦しい時に長い紙は読めません」


 ベリオは唸った。


「局の連中より、紙を短くする理屈を持ってるじゃないか」


「短くしすぎると消えるものもあります」


 リゼが言った。


「そこは、測る娘の理屈か」


「はい」


「面倒だな」


「必要です」


 ベリオは鼻を鳴らした。


 職人たちが、少し笑った。


 空気が変わった。


 最初は、送魔局がまた紙を押し付けに来たという目だった。

 今は、これまでの紙と同じように使えるなら、少し聞いてもよいという目に変わっている。


 ガルトは、それを見ていた。


「ベリオ。外周送魔環の暫定工事で、組合から二班出せるか」


「材料の札が決まれば、一班半だな」


「半とは」


「若いのを付ける。足場と荷役は見られるが、送魔線は親方付きだ」


「まずはそれで組む」


「送魔線を触れる手は足りんぞ」


「足りない手は、領主許可で追加を動かす」


 ガルトはそう言い、机の上の材料控えを指した。


「この分類で、資材買付と通行許可を上げる。主線候補、湿潤区画用留め具、白冠陶片、封瘴布、新しい封札用板材。職人二班。荷馬車道の一時占用。水門庭園側の再確認。全部まとめて出す」


「それだけ出せば、領主庁で止まるぞ」


 ベリオが言った。


「止まらないように、理由を付ける」


「理由?」


 ガルトはカルムを見る。


「カルム。全部を、領主が読める一枚へまとめろ」


 カルムの顔が強張った。


「一枚、ですか」


「全部の詳細を一枚に入れろとは言っていない。何を許可すれば何が動き、何を許可しなければ何が止まるのかを、一枚で分かるようにしろ」


「はい」


 カルムは深く頷いた。


 昨日の市場北口で、彼は板と台帳を番号でつないだ。

 今日は、その番号が材料と設計に広がっている。


 まだ完成ではない。

 だが、紙の使い方が変わり始めている。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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