第4話 峠の送魔線 前編
ベルノ鉱山町を出た朝、山道はまだ濡れていた。
雨は夜明け前に上がっている。
けれど、岩肌は水を吐き続け、道の両側の苔は重く垂れ、荷馬車の轍には灰色の水が細く残っていた。
谷を離れるにつれて、道は狭くなる。
砕鉱場の槌音は背後へ遠ざかり、代わりに、山の斜面を流れる水の音と、時々どこかで鳴る小さな送魔灯の低い唸りが耳に入った。
レンは、道端の白い石を見ていた。
白石峠。
ベルノとカルネ宿場をつなぐ峠道だ。そこを越えれば、領都グラントールへ向かう街道に出る。
マルカは縄束を肩に担ぎ直し、空を見た。
「降り直すかな」
「西の雲が重いです」
リゼが答えた。
左目には、簡易ミアズマ検知モノクルが掛かっている。ベルノを出る前に、彼女はモノクルの校正環を二度確認した。記録板は胸の前に抱え、濡れないよう油引き布でくるんでいる。
マルカはそれを横目で見た。
「歩きながらでも測る気?」
「歩きながらは測りません。見るだけです」
「それ、測る一歩手前じゃない?」
「違います」
短い返事だった。
レンは、二人のやり取りを聞きながら、道標の頭に付いた小さな送魔灯を見た。
昼間なので、灯は消えている。
ただ、ガラスの内側が曇っていた。
外側ではない。
内側だ。
雨で外が濡れるのは当然だ。だが、内側が曇るには、灯具の封止が甘いか、内部に水気が入り、抜けていない理由がある。
その道標の近く、石垣の白い苔が一筋だけ黒ずんでいた。
風下に広がっているわけではない。石の継ぎ目に沿って、細い帯のように走っている。
「また見てる」
マルカが言った。
「はい」
「何か変?」
「変です。ただ、山道では普通なのかもしれません」
「それ、だいたい変って意味だよね」
レンは答えに困った。
その時、峠の上を小さな鳥の群れが横切った。
鳥たちは道の真上を越えず、ある地点だけを避けるように、少し膨らんで飛んだ。
レンは足を止めた。
「鳥が、道の上を避けています」
「鳥まで見るの?」
「鳥は、危ない場所を避けることがあります」
「人より賢い時あるよね」
マルカはそう言い、すぐに前方へ視線を移した。
峠の曲がり角の向こうで、御者の怒鳴り声がした。
「おい、ぶつかってないのに、なんで止まってる!」
荷馬車が一台、道の真ん中で止まっていた。
灰色のロバが荷を引いている。御者は手綱を引き、困惑した顔でロバの首筋を軽く叩いていた。だが、ロバは前脚を折るようにして道に蹲り、どうしても進もうとしない。耳を伏せ、道の左端、石垣の黒ずんだ苔のあたりを見ている。
荷台の横では、旅人らしい男が石に腰かけていた。胸元を押さえていた。顔色が悪く、額に汗が浮いている。体調不良でふらつき荷馬車とぶつかりそうになった、ということだろう。
リゼが先に動いた。
「横に寝ないでください。座ったまま、首元を緩めてください。水は少量で」
声は大きくない。
だが、ベルノのポンプ室で一度彼女の指示を聞いたマルカは、すぐに御者の方へ回った。
「荷馬車、少し下げるよ。ロバの方がたぶん分かってる」
「うちのロバを何だと思ってる」
「褒めてるって」
レンは旅人の靴底を見た。
白い泥がついている。
白石峠の石が砕けた泥だろう。
けれど、泥の縁だけが、わずかに紫黒く濁っていた。
「どこで休みましたか」
リゼが旅人に訊く。
「峠の、灯小屋で……昨夜、雨を避けて休んだ。明け方から胸が重くなって、そこから歩いたら、足が浮く感じがして」
「灯小屋?」
御者が顎で峠の上を示した。
「あそこだよ。夜道の灯と、非常用の暖め場を動かす小屋だ。小変魔所も兼ねてる。古いけど、一応まだ働いてるらしい」
レンは顔を上げた。
石垣の上に、低い小屋があった。
白い石と灰色の木で作られ、半分岩に埋まったような建物だ。屋根の上には冠石碍子が三つ並び、細い送魔線が峠道の灯へ伸びている。
白石峠小変魔所。
小さな設備だ。
けれど、山道の旅人にとっては、夜の灯であり、雨の日に一息つける暖め場でもある。
送魔を止めれば、安全かもしれない。
だが、止めた夜に誰かが峠で道を見失えば、それも事故になる。
レンは、そのことを一度、胸の内で確かめた。
自分は送魔をなくしたいわけではない。
瘴気事故をなくしたいのだ。
「リゼさん。旅人さんの症状と位置を記録してください。道標灯、石垣、昨夜休んだ場所も」
「分かりました」
リゼはすでに記録板を開いていた。
場所。
時刻。
症状。
雨後。
灯小屋で一夜休息。
石垣側。
まだ、正式な票ではない。
ただの彼女の記録だ。
だが、レンには分かる。
その記録は、ただの体調不良のメモではない。
症状と場所と条件を、同じ紙の上へ置こうとしている。
*
白石峠小変魔所の管理人は、オランという男だった。
騒ぎを聞きつけ、カルネ宿場側へ下る巡回道から、しぶしぶ上がってきたらしい。白髪混じりで痩せており、左肩だけが少し上がっている。長年、雨の日も雪の日もこの峠の灯を見てきたのだろう。顔には不機嫌そうな皺が深く刻まれていた。
「また瘴気だなんだと騒いでいるのか」
オランは、荷馬車の騒ぎと、記録板を抱えたリゼを見るなり言った。
「また、ですか」
レンが訊くと、オランは鼻を鳴らした。
「旅人がふらつくたびに、町の連中が騒ぐ。だが計器は正常だ。灯は点く。暖め場も動く。小変魔所に問題はない」
「普段は、ここにいるのですか」
「いるものか。宿場寄りの番小屋から、雨の後や灯の苦情が出た時に見に来るだけだ。こんな所に詰めていたら、体が持たん」
オランに案内され、三人は石垣の上の小屋へ向かった。
小屋の中は狭かった。
石壁に囲まれた部屋の中央に、小型の変魔器が据えられている。巻線は古いが、破断はない。壁には小さな三相計器がある。
甲相。
乙相。
丙相。
どれも規定内だった。
規定内。
王都でも、何度も聞いた言葉だ。
レンは、その言葉を嫌っているわけではない。
規定は必要だ。
計器も必要だ。
だが、規定内という言葉だけで、現場の違和感を片づけてはいけない。
「灯具の内側が曇っています」
レンは言った。
「峠だ。湿る」
「はい。ですが、外側ではなく内側です。それと、石垣の苔が、風下ではなく石の継ぎ目に沿って黒ずんでいます」
「苔の話をしに来たのか」
「苔だけではありません」
リゼが、戸口の外へ視線を向けた。
「石垣の表面に微弱な反応があります。空気中は低いです。ですが、濡れた表面だけが少し違います」
オランは顔をしかめた。
「その片眼鏡で何が分かる」
「断定はしません」
リゼは即答した。
「ただ、見る場所は決まります」
マルカが小屋の外を覗き込んでいた。
「小屋の裏、見ていい?」
「勝手に触るなよ」
「触らない。見るだけ」
その言い方は信用されなかったらしい。
オランは渋々、三人を小屋の裏へ案内した。
小屋の裏側は、峠道より低い位置まで下りる石垣になっている。
濡れた白石が積まれ、ところどころに黒い苔が筋を作っている。その石垣に沿って、本来なら封瘴井へ導かれるはずの接地導魔線が伸びていた。
途中で、古い鉄のかすがいに巻き付けられている。
鉄は、魔瘴気を通しにくい。
乾いた環境なら、応急の押さえとして悪くないこともある。
だが、ここは雨上がりの峠だ。
鉄の表面は錆び、細かな凹みに水と泥を抱えている。その水が、石垣の白石粉と混ざり、黒い苔の筋へ落ちていた。
リゼがモノクルを下ろす。
「巻き付け部、微弱反応。鉄そのものというより、錆と泥に残っています」
「接地導魔線を、ここへ巻いたのはいつですか」
レンが訊くと、オランは気まずそうに口を曲げた。
「去年の秋だ。雨の夜、灯がちらついた。町の金物屋に頼んで締め直した」
「送魔番に頼んで、同行してもらうことは」
「町まで下りて頼み、予定を合わせて連れて来るんだ。こんな山小屋まで一つ一つ回っていたら、送魔番が何人いても足りん」
反論としては現実的だった。
それが、余計に厄介だった。
山の設備は、人が足りない。
正しい手順だけを言っても、守れる人がいない。
マルカが石垣の下を見た。
「封瘴井、半分埋まってるね」
石垣の根本付近に、小さな封瘴井があった。
蓋の縁には落ち葉と泥が詰まり、雨水が流れ込んだ跡がある。井の脇に立っていたはずの小さな札は、根元から折れていた。
「蓋を開けたのは、いつですか」
リゼが訊く。
「春の点検の時だ」
「今年の春ですか」
「……去年だ」
マルカが、やや大げさに空を見た。
「去年の春」
「山では、それくらい普通だ」
オランの声は硬かった。
責められていると感じたのだろう。
レンは少しだけ間を置いた。
「普通なのだと思います」
オランが眉をひそめる。
「ですが、普通のことが重なると、危ないことがあります。雨、錆びた鉄、封瘴井の井口まわりの詰まり、灯小屋で夜を明かした旅人。それぞれは珍しくない。でも、重なると、症状が出ます」
リゼが記録板へ書き込む。
雨。
錆びた鉄かすがい。
封瘴井井口まわりの泥詰まり。
灯小屋で一夜休息。
胸重感。
オランは、何も言わなかった。
レンは石垣と接地導魔線の位置を見た。
「この接地導魔線を、石垣から離す必要があります。ただ、封瘴井側へ接地導魔線を導くだけでは、井口側が詰まっているので瘴気が漏れます」
「じゃあ、どうするの?」
マルカが訊く。
「まず、封瘴井の蓋縁を掃除します。乾かさないように、泥を封じて取る。次に、接地導魔線を鉄のかすがいから外し、石垣に触れない位置へ浮かせます」
「留め具は?」
「ここは湿っています。煌銅留め具を使い、白冠陶片か封瘴布を挟みます」
「この前と同じだね」
マルカがすぐ言った。
レンは頷いた。
「はい。それでいけると思います」
オランが軽く振り向く。
「小屋の棚に、割れた白いやつならある。昔の碍子だ。捨てるつもりだった」
「よかった、捨てられてなくて!」
マルカは言って、すぐに小屋へ走った。
リゼはその背中を見送り、レンへ小さく言った。
「作業前に、区域を分けます。石垣側は準汚染。封瘴井蓋縁の泥は封じて回収。旅人と荷馬車は道の下側へ」
「お願いします」
「はい」
リゼは、一度だけ深く息を吸った。
そして、白い測線紐を取り出した。
【一言メモ】
封瘴井井口まわりに泥が詰まると、その泥が封瘴井の内外を繋ぐ瘴気漏れ経路になります。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)
白冠陶:高絶縁磁器材料。この白冠陶で作られて封瘴釉で仕上げた碍子が冠石碍子。




