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第15話 北第三配分塔 前編

 北第三配分塔は、王都の端にあった。


 端、といっても、灯が少ないわけではない。

 王都北環の塔列は、外れに行っても整っている。石造りの双柱は高く、横梁はまっすぐで、冠石碍子(高圧用碍子)列は雨上がりの朝霧の中で鈍く白い。甲相(R相)乙相(S相)丙相(T相)の高圧導魔線は、王都の規格通りの間隔を保ち、次の塔へ消えていく。


 遠くから見れば、何も問題はない。


 むしろ、グラントールの外周送魔環より、よほど立派だった。塔の高さも、碍子列の数も、封札の位置も、どれも揃っている。

 王都は、揃える力を持っている。その力で、夜の灯も、井戸塔も、治療院の保温槽も、下町のパン焼き炉も支えている。


 レン・アルバートは、塔の下で足を止めた。


 雨は、夜明け前に上がっている。

 石畳はほとんど乾いていた。だが、塔の基礎まわり、封瘴井(※1話前編)の蓋縁、配分所の床下へ入る換気口の内側には、湿りが残っている。乾いたように見える灰色の泥が、指で押せば水を含みそうな厚みで、石の継ぎ目に噛んでいた。


 冠石碍子列は、鳴いていない。

 零偏環(ZCT)の針も、まだ赤線には遠いはずだった。


 それでも、レンには、この場所の沈黙が少し重く見えた。


 王都を追われた日の発表室を思い出す。

 規定値内。

 危険値ではない。

 感情を持ち込みすぎている。


 その言葉が、細部を捨象する「揃える力」が、雨上がりの石の匂いに混じって戻ってくる。


「顔、硬いよ」


 マルカ・ノルクが横から言った。


 今日も職人組合の作業着ではなく、借り物の上着だった。今日は腰に工具帯を吊っている。金槌や短い縄、白い札板を入れた袋だけは持ってきていた。


「今もですか」


「うん。今も」


「北第三なので」


 マルカは、塔の基礎と封瘴井の位置を見た。


「なるほど。嫌な湿り方だね。水たまりじゃないのに、目地が濡れてる」


「はい」


「こういうのが、気付かないうちに足場にも工具にもつくんだよね」


 リゼ・カトルは、その少し後ろで鞄を下ろしていた。

 普段の簡易ミアズマ検知モノクル(※3話前編)を左目に掛けている。遮光枠、校正環、濃度目盛りのついた、測定器具としてのモノクルだった。


 彼女は、まず封瘴井へは近づかなかった。

 立ち位置を決め、風向きを見て、現場の人の流れを見る。作業者がどこで待ち、王都送魔局の操作員がどこに立ち、規格局の書記がどの机を使うのか。測る前に、測る場を整えようとしている。


「白縄は、ここからでよいと思います」


 リゼは短く言った。


 マルカが頷き、白い測線紐を受け取る。


「王都の現場で勝手に張っていいの?」


「既に話は通してある」


 ガルト・リーヴェルが答えた。


「規格局立会いの仮測線だ。恒久札ではない。貼る札も、仮札として扱う」


「仮なら、短いやつでいいね」


 マルカは、白縄を低く張った。


 清浄側。

 準汚染側。

 封拭き待ち。

 使用後工具。


 王都の作業員が、それを見て少し顔をしかめた。


「そこまで分けるのか。まだ何も起こってないぞ」


 リゼが答えた。


「負荷を入れる前に分けます。入れてから混ざると、どこで混ざったか分かりません」


「それがエルデン式ってやつね」


 作業員の声には、少しだけ皮肉があった。


 リゼは、怒らなかった。


「測定条件です」


 その一言で済ませた。


 カルム・ヴェイスは、少し離れた仮机で文書箱を開いている。今日は、規格局の指定で、王都側の記録形式とエルデン側の記録形式を並べることになっていた。


 箱は三つ。

 北第三参考実地確認用の測瘴症状票。

 停止申告欄。

 材料・工具・封札対応控え。


 そして、王都側の系統記録へ戻すための対応表。


 カルムは、測瘴症状票の一枚目の上端に、丁寧な字で書いた。


 北第三配分塔・参考実地確認。

 症状だけで断定しない。測定値だけで消さない。


 その下に、王都側の欄名との対応が小さく添えられている。


 場所。

 時刻。

 役割。

 症状。

 湿り。

 作業者位置。

 設備。

 測定値。

 処置。

 再確認。


 レンは、その紙を見た。


 王都の紙に、リゼの欄順が入っている。

 それだけで、少し感慨深い。


 ラウレン審査官が、塔の下へ来た。

 灰色の外套の裾を濡らさないよう、石畳の乾いた場所を選んで歩いている。隣には規格局の書記が二人。その後ろに、カイウス・ヴェルナーとユリス・ハルトが続く。


 カイウスは、現場用の外套を着ていた。

 白と紺の技官服ではない。だが、徽章はある。王都の塔の下でも、彼は整って見えた。


 ユリスは、手帳を持っている。

 北第三の現場を初めて見るわけではないだろう。だが、今日の彼の目は、以前よりもよく動いていた。塔。封瘴井。床下換気口。仮測線。リゼのモノクル。カルムの紙。


 セラ・ミルスも来ていた。

 中央監視官の制服の上に、雨天用の外套を羽織っている。手元には北第三の要観察記録束がある。


 バルツ・オーガンは、その後ろで腕を組んでいた。

 今日は錫の杯を持っていない。代わりに、古い工具袋を肩に掛けている。規格局の立会いに、工具袋が必要かどうかは分からない。だが、彼にとってはそれが落ち着くのだろう。


 ラウレンが全員を見渡した。


「本日の参考実地確認を開始します」


 書記が筆を構える。


「確認項目は四つ。第一に、零偏環の赤線到達有無ではなく、収まり遅れを含む応答。第二に、作業者症状の記録。第三に、封瘴井初期脱瘴(※1話前編)の有無が測定条件へ与える影響。第四に、遮断型補償器に至る前段階の停止判断です」


 カイウスは、静かに頷いた。


「承知しました」


 その返事には、余裕があった。


 レンは、カイウスの顔を見た。

 この場でも、彼は崩れていない。現行補償器が遮断型であることも、段組型が机上研究であることも、彼は理解している。

 その上で、今日も彼は、零偏環が赤線を越えなければ送魔継続は妥当だと示すつもりなのだろう。


 その方が、王都には都合がよい。

 灯を落とさずに済む。

 予定を止めずに済む。

 零偏補償が正常に働いている、という整った説明ができる。


 だが、今日はその説明の下で、誰が頭を重いと言うのかを見る。


 レンは、北第三の塔を見上げた。


 冠石碍子列は静かだった。


 だが、静かだから、安全とは限らない。



     *



 最初の確認は、通常運用に近い低負荷だった。


 北第三配分塔は、王宮線のような華やかな線ではない。

 下町の揚水線、治療院線、北環の一部補助線が、ここを経由して分かれている。朝の負荷は、揚水塔が少しずつ立ち上がる時間帯に重くなる。治療院線は止められない。パン焼き炉も、完全には待ってくれない。


 だから、今日の確認も、全遮断ではなく、段階的な保持確認から入る。


 ただし、いつでも遮断できるよう、遮魔器の操作員は配置されている。

 遮断型補償器の動作確認札も、仮制御台の横に置かれていた。


 レンは、零偏環の針を見た。


 低い。

 赤線には遠い。


 甲相、乙相、丙相の値も、規定内だった。


「零偏環、低。赤線到達なし」


 王都側の操作員が読み上げる。


 セラが、王都式の記録へ書く。

 カルムが、エルデン式の対応欄へ書く。


 同じ値が、二つの紙に入る。


 ラウレンが訊いた。


「収まりはどうですか」


 操作員が、少しだけ間を置いた。


「許容内です」


「許容内ではなく、収まりを読んでください」


 ラウレンの声は淡々としていた。


 操作員は、もう一度針を見るように目をそらして、答えた。


「……二拍目で、わずかに遅れがありました。前回記録と同程度です」


 カルムが記録する。


 零偏環、低。

 赤線到達なし。

 二拍目収まり遅れ、前回同程度。


 カイウスが言った。


「赤線には達していません。補償器の遮断条件にも達していない」


「その通りです」


 ラウレンは答えた。


「本日は、遮断条件に達していない状態で、何を拾うかを見る確認です」


 カイウスは、軽く頷いた。


「承知しています」


 リゼは、塔の基礎側へ近づいた。

 白縄の内側には入らない。測定プローブだけを伸ばす。


「封瘴井蓋縁、低から中弱未満。井口泥、低から中弱未満。床下換気口の内側、距離あり。空気中、低」


 カルムが書く。


 リゼは続けた。


「作業者症状、現時点で申告なし」


 それを聞いた王都の作業員が、小さく肩をすくめた。


「そりゃ、まだ何も起きてないからな」


 マルカが、すぐに言う。


「何も起きてないことも、後で要るんだよ」


「また紙か」


「紙がないと、何も起きてなかった、が消えちゃうでしょ」


 作業員は何か言葉を探した風だったが、結局言い返さなかった。


 バルツが、低く笑った。


「王都の若いのが、地方の娘に紙の話で言い負けるとはな」


「バルツさん」


 セラが振り向く。


「黙ってる」


「今、発言しました」


「次から黙る」


 バルツはそう言いながら、塔の下の床下口を見た。


 彼の目は、冗談とは別に鋭かった。


「唸りは出てる」


 レンも耳を澄ませた。


 低い。

 水音に混じり、変魔器の唸りとも違う、かすかな濁りがある。


 王都の現場なら、古い設備の音として流される程度だろう。

 危険値ではない。

 警報もない。


 だが、グラントールなら、誰かが「要観察」と書く音だった。


「リゼさん」


「はい」


「床下換気口まわりも、後で見たいです」


「今は、外側だけ測ります」


 リゼは膝をつき、換気口の下端へプローブを向けた。


「外側、低。水滴あり。乾いた粉は見えません。内側は、後で換気を確認してからです」


「換気を確認してから」


 カルムが書いた。


 カイウスは、それを見ていた。


「現時点では、いずれも危険値ではない」


「はい」


 リゼが答える。


「危険値ではありません」


「では、次段階へ進める」


 カイウスが言う。


 リゼは、すぐには答えなかった。


 彼女は作業者の並びを見ていた。

 塔の下の操作員。床下口の横に立つ作業員。工具台の前の若い補助員。記録机の近くで待つ規格局の書記。


「次段階へ進む前に、作業者位置を記録します」


「それは必要ですか」


 王都側の技官が言った。


「はい」


 リゼは短く答えた。


「症状が出た時、どこに立っていたか分からなくなるためです」


 カイウスは口を挟まなかった。


 ラウレンが頷く。


「記録してください」


 カルムが、素早く線を引いた。


 役割。

 位置。

 立ち時間。


 作業者位置が記録されている間、マルカは小さな札板に書いた。


 具合が悪い時は、黙って下がらない。

 その場で手を上げる。


 王都の作業員が、また顔をしかめた。


「それを貼るのか」


「仮札です」


 カルムが答える。


「規格局立会いの範囲に限ります。恒久札ではありません」


 マルカが続ける。


「でも、読むのは今。みんな読んでね」


 作業員は、札を読んだ。


 短い。

 読める。


「まあ、分かるな」


「分かったなら良し」


 マルカは、札を白縄の外、作業員の目に入る位置へ立てた。


 レンは、それを見ていた。


 零偏環の針は、低い。

 王都の値は、整っている。


 だが、低い針の横に、いま小さな札が立った。


 具合が悪い時は、黙って下がらない。


 その札は、式ではない。

 しかし、症状を申告する前に、言い出しやすい場を整えるものである。

 見るべきものを埋もれさせない。

 これも歴とした、エルデン式零偏補償の肝の一つだった。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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