第14話 王国送魔規格比較審査 後編
休憩を挟んだ後、審査は資料照合へ移った。
ラウレンは、王都側の標準案を一枚ずつ確認し、次にエルデン側の対応する紙を求めた。
零偏環応答。
段階負荷表。
遮断型補償器の動作条件。
運用前整備表。
停止申告欄。
紙が増える。
ただし、今度は増えること自体が問題ではなかった。
どの紙が、どこへ行きどこへ戻るのか、運用内容が見られている。
「王都案では、初期脱瘴はどこにありますか」
ラウレンが訊いた。
カイウスは、すぐに資料を開いた。
「運用前整備表です。旧式変魔器、湿潤区画、封瘴井周辺に残瘴がある場合、現場判断で実施します」
「標準表本体ではないと」
「はい。初期脱瘴は測定前整備の一部です。本体の運用へ入れるものではありません」
レンは、その答えに反射的に口を開きかけた。
だが、ラウレンが先に問う。
「測定前整備とするなら、実施しなかった場合、測定値の有効性はどう扱いますか」
カイウスは、一拍置いた。
「必要に応じて、備考欄へ」
「必要に応じて」
ラウレンは、同じ言葉を繰り返した。
レンは、言うべき場所だと思った。
「初期脱瘴は、送魔を安定させるおまじないではありません」
全員の視線が、こちらへ来る。
「測るためです」
レンは続けた。
「封瘴井の蓋縁、井口の泥、補修片の下、旧式浅井戸型の筒まわりに最初から瘴気が残っていれば、いま送魔したことで新しく漏れた僅かな誘導瘴気が埋もれます。危険値ではないことと、測れる状態であることは別です」
カイウスは、静かに言った。
「それは、君の草稿にもあった考えだな」
レンは、わずかに息を止めた。
カイウスが先に言った。
まるで、自分も当然知っているというように。
「はい」
レンは答えた。
「僕の草稿にもありました」
場が少し静かになる。
言ってしまった。
だが、今は式の所有権を争う場ではない。ここで怒れば、また私情だなんだと難癖を付けられる。
レンは、続けた。
「ただ、王都案では、その実施しなかった場合の扱いが弱い。初期脱瘴が測定条件なら、未実施の場合測定値にも未実施だった旨を書く必要があります。零偏環が低値でも、背景反応が残っているなら、その低値の意味は変わります」
ユリスが、手元の紙を見た。
ラウレンは、ユリスへ視線を向ける。
「ユリス技官。あなたは、技術監査院側の草稿照会控えを確認したと聞いています」
ユリスの肩が、わずかに動いた。
カイウスは、横を見なかった。
ユリスは、立ち上がった。
「技術監査院、ユリス・ハルトです」
声は硬い。
だが、出ていた。
「私は、レン・アルバート提出草稿の照会控えを確認しました。正式採用資料ではありません。したがって、断定は避けます」
彼らしい言い方だった。
「確認した差分を述べます。草稿には、初期脱瘴省略不可、封瘴井初期脱瘴、背景反応を落とすこと、停止申告必要、危険値未満でも条件重なり時は負荷保留、といった記述がありました」
レンは、手を握りしめた。
その記述が、今度は誰かに見てもらえていた。
「王都標準案では、初期脱瘴は運用前整備表へ分離されています。停止申告に相当する独立欄は、私が確認した範囲ではありません」
ユリスは、カイウスを見なかった。
「確認した差分は以上です。それ以外の諸々のことは、私は確認できていません」
差分はある。
確認できていない。
その言い方は、静かな声なのに、会議室に強く響いた。
カイウスは、ゆっくり口を開いた。
「初期草稿の注意書きは、あくまで検討段階のものです。標準化の過程では、細部を分離しなければ資料が使い物になりません。停止申告についても、現場責任者の判断として扱えば足ります」
「では、現場責任者が止めた時、どこへ残しますか」
ラウレンが、再び問う。
同じ問いだった。
カイウスは、今度はすぐに答えなかった。
「運用前整備表へ追加することは可能です」
「追加することは可能、ですか」
ラウレンは、また同じ言葉を繰り返した。
「エルデン側は、必要になる前に欄を置いている。王都側は、必要なら追加するとしている。ここは差分として記録します」
書記が、筆を走らせた。
差分。
その言葉は、断罪ではない。
だが、消されない形で爪痕を残した。
レンは、ユリスを見た。
ユリスは、椅子に座り直し、手帳を閉じている。顔色はよくない。だが、目は逃げていなかった。
カイウスの横で、彼は確認未だったことを確認済みに変えた。
それがどれほど重いことか、レンには分かった。
*
午後の審査では、北第三配分塔の記録が机に置かれた。
セラ・ミルスが提出したものだった。
「王都送魔局中央監視官、セラ・ミルスです」
セラは、静かに立った。
「北第三配分塔の記録を説明します」
彼女は薄い束を開いた。
「雨天後、床下湿りあり。初期脱瘴短縮運用中。夜半、低唸りあり。接地導魔線側の零偏反応、規定値内。ただし前回比、微増。中央監視室では、要観察として控えました」
ラウレンが問う。
「危険値は」
「出ていません」
「零偏環は」
「規定内です」
「症状記録は」
「中央監視室側にはありません。現場から軽微な頭重感の口頭報告があった可能性はありますが、通常の系統記録には載っていません」
リゼの指が、机の上でわずかに動いた。
通常の系統記録には載っていない。
ベルノで、リゼが何度も見てきた形だ。
セラは続ける。
「エルデン記録と比較した場合、北第三には、停止申告欄、測瘴症状票、現場札、材料控えを同じ体系で管理する仕組みがありません。したがって、現在の記録だけでは、低唸り、床下湿り、初期脱瘴短縮、零偏反応微増、作業者不調の有無を一枚で照合できません」
カイウスが、わずかに眉を動かした。
「セラ監視官。北第三は、王宮線ではありません。王都標準案の第一段階導入対象でもない」
「はい」
「なら、この比較審査で扱うには条件がずれているのでは」
「北第三にも初期脱瘴の短縮要請が来ているので、関係者です。参考資料として出しました」
セラは、淡々と答えた。
バルツが、後ろで腕を組んだまま発言を被せる。
「北第三は古い。床下が湿る。初期脱瘴を削れば、音が変わっても、それが今回の送魔で新しく出たものか、前から残っていたものか、どの数値にも見えてこない。値だけなら規定内でもな」
セラが、少しだけ振り向く。
「発言するなら、所属と氏名を」
「王都送魔局、現場技師、バルツ・オーガン」
バルツは少し面倒そうに名乗った。
「言いたいことは一つだ。危険値になってから止めるなら、現場はいらねえ。危険値じゃない時に、何を見て止めるかが現場の仕事だ」
審査室が静まり返った。
短い。
だが、現場の言葉だった。
マルカが、小さく頷いている。
ラウレンは、北第三の記録を手元へ引き寄せた。
「北第三は、王都側の設備です。エルデン側の運用をそのまま適用できるとは限りません」
誰も反論しなかった。
「しかし、比較には適しています。危険値未満、規定値内、初期脱瘴短縮、床下湿り、低唸り。エルデン側が重視する低度条件が、王都側に存在している」
ラウレンは、両方の資料を閉じた。
「本日の机上審査だけで、王都案またはエルデン案を採否決定することはしません」
レンは、息を止めた。
「次回、北第三配分塔において参考実地確認を行います」
カイウスの表情が、初めてわずかに硬くなった。
「北第三で、ですか」
「はい」
ラウレンは言った。
「対象は、零偏環の赤線到達有無ではありません。初期脱瘴の有無が測定条件へ与える影響、作業者症状の記録、遮断型補償器に至る前段階の停止判断、材料・設備の照合です」
レンは、机の下で手を握った。
北第三。
王都標準案の美しい紙からこぼれた条件が、まだ残っている場所。
「出席者を指定します」
ラウレンが続けた。
「規格局審査官。王都技術監査院。王都送魔局中央監視室および現場技師。エルデン領送魔局グラントール本局関係者。測瘴士リゼ・カトル。技術所見者レン・アルバート」
名前が呼ばれる。
技師補ではない。
王都送魔局員でもない。
技術所見者。
曖昧な肩書きだった。
だが、今はそれでよかった。
ラウレンは、最後に言った。
「比較審査は、継続とします」
*
審査室を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。
王都側の技官たちが、低い声で話しながら去っていく。
カイウスは、何人かの審査官と短く言葉を交わしていた。レンの方へは来ない。
ユリスが、廊下の柱のそばで立ち止まっていた。
レンは、少し迷った。
声をかけるべきか。
礼を言うべきか。
もし言うとして、何に対して礼を言うのか。
先に、ユリスがこちらを見た。
「レン・アルバート」
「はい」
「草稿の件は、まだ未確認です」
最初の言葉がそれだった。
レンは少しだけ息を吐いた。
「はい」
「私は、あなたの式が盗まれたと断定していません」
「分かっています」
「ですが、差分はありました」
「はい」
ユリスは、少しだけ視線を落とした。
「私は、カイウス技官を尊敬していました」
言葉は過去形だが、いまも、完全には消えていないはずだ。
「今も、技術者としての能力は尊敬しています。標準化の力も、資料を整える力も、私にはまだ及びません」
「はい」
「だからこそ、確認します」
ユリスは顔を上げた。
「未確認を、確認済みのように扱うことはできません」
レンは、その言葉を聞いて、ようやく少しだけ胸の奥がほどけた。
ユリスは、カイウスを裏切ったのではない。
レンの味方になったのでもない。
確認している。
ただ、それだけだった。
そして、それが今は十分だった。
「ありがとうございます」
レンが言うと、ユリスは少しだけ困った顔をした。
「礼を言われる筋合いはありません」
「それでも」
「確認しただけです」
「はい」
「北第三でも、確認します」
ユリスは、それだけ言って、監査院側の廊下へ歩いていった。
レンは、その背中を見送った。
マルカが横に来る。
「堅い人だね」
「はい」
「でも、嫌な堅さじゃないね」
「そう思います」
リゼも、少し離れたところでユリスの背中を見ていた。
「未確認、という言葉を消さなかった人ですね」
「はい」
「なら、次は現場でも、ありのままを見てくれます」
短い言葉だった。
カルムが、文書箱を抱えて戻ってきた。
「北第三実地確認のため、資料の再整理が必要です。測瘴症状票は王都側の形式に合わせるべきでしょうか」
リゼは即答した。
「欄順は変えません」
カルムは頷く。
「分かりました。王都側の欄を対応表で付けます」
「それなら構いません」
マルカが言う。
「現場札は?」
「王都側の現場で、勝手に札を貼るのは難しいです」
カルムが答えた。
「ただし、仮札案として持ち込みます。貼るかどうかは、北第三の現場責任者と規格局判断です」
「じゃあ、貼れなくても読める短さで作る」
「はい」
ガルトが、廊下の端で全員を見た。
「戻るぞ。審査は終わっていない」
「はい」
レンは、もう一度、窓の外を見た。
王都の塔列は、変わらず整っている。
今日も灯は点くだろう。治療院線も、下町の揚水も、王宮区の灯も、規定通りに動く。
その整った灯の下で、北第三は要観察のまま残っている。
王都で一度消えた条件が、地方の不揃いな記録を通って戻ってきた。
今度は、一人の野帳ではない。
リゼの測瘴症状票がある。
マルカの現場札がある。
カルムの番号がある。
ガルトの責任がある。
セラの要観察がある。
バルツの現場の音がある。
ユリスの未確認がある。
そして、レンの式もある。
式だけでは足りない。
だが、式が要らないわけではない。
レンは、その両方を同じ場所へ置くために進んできた。
北第三配分塔。
次は、紙ではなく現場で見る。
王都の灯は整っていた。
その整った光が、窓越しに白い紙束を照らしている。
レンは、文書箱を持つカルムの横を歩き、規格局の廊下を出た。
止めるためではない。
続けるためだけでもない。
瘴気被害を出さずに、送魔を人の暮らしへ届けるために。
そのための比較審査は、まだ始まったばかりだった。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




