第15話 北第三配分塔 中編
作業者の申告が出たのは、次段階へ進んでから半刻も経たない頃だった。
大きな変化ではなかった。
零偏環は赤線に近づいていない。針は低い位置で揺れ、二拍目に少し遅れる。リゼの空気中測定も低い。封瘴井蓋縁は、初期脱瘴前の背景反応として低から中弱未満で、開始時とほとんど変わらない。
その値だけなら、何も起きていない。
その時、マルカが塔の方ではなく、配分所の南側にある封札整理場へ顔を向けた。
「あそこ。手が上がってる……」
送魔塔から数十歩は離れていた。
試験中の塔の下ではない。配分所の南側、封札や工具の控えを扱う、北第三の封札整理場だった。
そこにいた若い作業者が、片手を半分だけ上げている。
はじめは、遠慮がちだった。額を押さえ、仮札を見て、自分の作業台を見て、また札を見た。試験に直接入っているわけではない自分が、手を上げてよいのか迷っているようだった。
隣にいた同僚が、仮札を指で示した。
それから、作業者の肘を軽く押し上げるようにして、うなずく。
作業者は、恐る恐る、手を下ろさずに残した。
「そのまま!」
マルカが短く言った。
「手を上げた人、下ろさないで!」
ラウレンが、すぐに操作員へ視線を向けた。
「現段階は保持。次段階へは進まない」
カルムが停止申告欄へ筆を置く。
申告番号。
停一。
レンは、零偏環の針を見た。
赤線には遠い。
封瘴井の測定値にも、明確な上昇はない。
だが、止まった。
現段階保持。
次段階保留。
グラントールで見た文字が、王都の北第三に置かれる。
リゼが記録板を持って、封札整理場へ向かった。
レン、カルム、マルカも続く。ガルトは少し後ろで、王都側の現場責任者とラウレンの位置を見ていた。
作業者は、手を下ろしてよいのか分からない顔をしていた。
「もう下ろして大丈夫です」
リゼが言った。
「症状を聞きます。断定はしません」
作業者は、少し困ったように頭を押さえた。
「僕は、試験の担当ではありません。北第三の封札台帳と現物の番号を合わせていただけです」
「関係があるかどうかは、こちらで決めません」
リゼの声は静かだった。
「症状を言ってください」
「少し、頭が重い。目の奥が鈍い感じがして。さっきから、ここに立っていると強くなる気がします」
王都側の技官が、すぐに言った。
「封札点検の作業の疲労じゃないのか」
「疲労かもしれません」
リゼは否定しなかった。
「そのために、場所と時刻と作業者位置を残します」
カルムが、測瘴症状票を開く。
場所。北第三配分塔南側、封札整理場、封札整理台横。
時刻。第二段階保持中。
役割。北第三の作業者。
症状。頭重感、目の奥の重さ。
湿り。作業場床、台脚元に水膜あり。
作業者位置。試験測線外、送魔塔から数十歩、封札整理台から一歩半。
カルムは、そこで顔を上げた。
「使用工具は」
作業者が、戸惑ったように作業台を見た。
「工具は……古い封札の封泥を削る小型魔工具を使いました。いまは台に置いています」
レンの視線が、封札整理台へ移った。
作業台は、塔の基礎から離れた壁際にある。
王都の現場らしく、道具は整えられている。柄の長い封泥削り、細い曲げ尺、封札切り、小型の魔工具。台の上には油引き布が敷かれている。
ただし、その下の床は濡れていた。
壁際の水が、作業台の脚に回っている。
油引き布の端は乾いているが、台の脚元には薄い水膜がある。
リゼが、作業台へ視線を向けた。
「作業台と工具を測ります。触らないでください」
王都作業員の一人が、無意識に工具を片づけようと伸ばしていた手を止めた。
カイウスが、少しだけ眉を動かした。
「試験に関係ない作業者の症状を、試験の停止理由に含めるのですか」
「北第三の同じ送魔下で起きています」
レンは答えた。
「零偏環にも、封瘴井の測定値にも出ていません。だから、作業者申告を見ます」
ラウレンが言った。
「確認を許可します。現段階は保持。次段階へは進まない」
現場の動きは、すぐに分かれた。
リゼが測る場所を決め、マルカが作業員の立ち位置を短い言葉に直し、カルムが停止申告欄の該当箇所へ筆を置いた。
レンは、その流れを見ていた。
見えるものを、ひとりで抱え込む必要はない。
測る者がいて、動かす者がいて、残す者がいる。
リゼがモノクルを下ろした。
「作業台上面、低。油引き布表面、低。台脚の内側、低から中弱未満。床の水膜、低から中弱未満」
彼女は、細いプローブを小型魔工具へ近づけた。
「魔工具の柄元、低。導魔線の被膜部、少し反応があります」
「被膜部?」
レンは、リゼが示した先を見た。
小型魔工具は、封泥を削るための回転刃を持つものだった。古い封泥を削り、封札を貼り直す時に使うのだろう。柄の根元から、細い導魔線が出ている。
その被膜が、一箇所だけ、めくれていた。
完全に裸線ではない。
裂け目は小さい。
乾いた床なら、見逃される程度だった。
だが、作業台の脚元には水膜がある。
作業者は、その近くに立っていた。
魔工具線は、濡れた床の上を一度通っている。
「その工具を、いつ使いましたか」
作業者が答える。
「大声の号令が聞こえた辺りです。たしか、第二段階と言ってたような。封札の古い封泥を少し削りました。控えと現物の番号を合わせる、いつもの点検作業で」
「その後、作業台へ戻した」
「はい」
「濡れた床に、線は触れましたか」
「……少し、触れたかもしれません」
リゼが、導魔線の下の床を測る。
「線が触れていたと思われる床面、低から中弱未満。柄元の裂け目周辺、局所反応あり。空気中は低」
先ほど零偏環の値は、赤線未満だった。
封瘴井の測瘴値も、低から中弱未満のままだった。
零偏環でも、封瘴井の測瘴でも拾えなかった。
だが、作業者は頭重感を訴えた。
「低度漏魔です」
レンが言った。カイウスは、すぐに被せる。
「断定が早すぎる」
「断定ではありません」
レンは答えた。
「停止申告上の仮原因です。魔工具の絶縁被膜剥がれ、濡れ床、作業者位置、頭重感。零偏環と封瘴井測定値には出ていませんが、これらが同じ場所にあります」
リゼが頷く。
「症状だけでは断定しません。測定値だけでも断定しません。ただし、条件は重なっています」
マルカが、すぐに短い札を書いた。
剥がれ工具、使わない。
濡れ床へ線を置かない。
頭が重い時は手を上げる。
封札整理場の作業者たちが、初めて見る札を読んだ。
「これを守れってことか」
マルカは頷き、答える。
「置いておくね」
マルカは仮札として作業台の横に立てた。
カルムが、停止申告欄へ書く。
申告者。北第三の作業者。
見たもの。頭重感、目の奥の重さ。
場所。北第三配分塔南側、封札整理場、封札整理台周辺。
零偏環。赤線未満、二拍目収まり遅れあり。ただし遮断条件未満。
封瘴井測定。低から中弱未満、開始時から明確な変化なし。
設備。小型魔工具、導魔線被膜剥がれ。
湿り。作業台脚元、床水膜あり。
処置。該当魔工具を外す。封拭き待ちではなく隔離。封札整理場床面測定。次段階保留。
カルムは、そこで手を止めた。
「工具番号がありません」
王都側の作業員が言う。
「工具番号?」
「局の工具台帳にはあるはずです」
セラが、王都側の記録係へ視線を向けた。
記録係が慌てて台帳を開く。
「北第三配分塔、現場工具箱、封泥削り小型魔工具、二号。前回点検は……半年以上前です」
バルツが、低く唸った。
「半年か」
カルムは、停止申告欄に書き足した。
工具番号。北第三工具箱、封泥削り小型魔工具二号。
前回点検、半年以上前。
「番号と繋がりました」
その言葉は、小さい。
だが、王都の現場で意味を持った。
ラウレンが確認する。
「該当魔工具を外してください」
マルカが手袋を確認し、封札整理台の作業者へ言った。
「触る人は手袋。使った手袋は黄板。工具は線を引きずらない。持ち上げて」
作業者は、それに従う。
小型魔工具が工具台から外され、封拭き待ちの黄板へ置かれた。
リゼが測る。
「工具外側、低。柄元裂け目、低から中弱未満。導魔線裂け目周辺、中弱。封拭きではなく隔離してください。再使用不可です」
「危険値ではないのに?」
王都側の若い技官が訊いた。
「使用すれば、また漏れる可能性があります」
リゼは答えた。
「危険値ではないことと、使えることは別です」
その言葉に、レンは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
危険値ではないことと、測れる状態であることは別。
危険値ではないことと、使えることは別。
彼らは、同じ形をしている。
基準値は必要だ。
だが、基準値だけでは、ものの意味を決められない。
該当魔工具の隔離と封札整理台まわりの確認が一段落すると、試験関係者は仮制御台の側へ戻った。
マルカは仮札を作業台の横に残し、リゼは封瘴井側の再測定へ移る準備をした。
カルムは停止申告欄を抱え、レンの隣ではなく、王都側の記録机の近くに立った。
カイウスは、静かに言った。
「該当魔工具が原因であれば、それを外した時点で再開可能ではありませんか」
レンは、首を横に振った。
「まだです」
「理由を」
今度は、ラウレンが訊いた。
「封瘴井周辺の背景反応が残っています」
レンは、塔の基礎と封瘴井の蓋縁を見た。
「今回の低度漏魔は、零偏環にも、封瘴井の測瘴値にもはっきり出ていませんでした。作業者の申告がなければ、北第三はそのまま続いていたはずです」
北第三で上がっていたのは、送魔を滑らかにしてほしいという声ではなかった。
見分けられない。
昨日から残っていたものと、いまの送魔で漏れたものが、同じ低い反応に見えてしまう。低唸りや床下の湿りを見聞きしている現場は、しかしその違和感を数字で表すことが出来ないと訴えていたのだ。
「また初期脱瘴か」
カイウスの声は、少しだけ硬かった。
「はい」
レンは答えた。
「初期脱瘴です」
作業員の何人かが、顔を見合わせる。
時間がかかる。
手間が増える。
王都の北第三は、生活線につながっている。長く止めれば、下町も治療院も困る。
その重さは、レンにも分かる。
だから、言葉を選ぶ必要があった。
「初期脱瘴は、送魔を安定させるためではありません」
レンは言った。
「測るためです」
同じ言葉を、規格局でも言った。
だが、現場で言うと重さが違う。
「いま、魔工具を外しました。これで新しく漏れる成分は減るはずです。ですが、封瘴井蓋縁や井口泥に古い残瘴が残っていれば、次に同じような低い漏れが出ても、いま漏れた分なのか、前から残っていた分なのか見えません」
リゼが続ける。
「背景反応を下げて、基準を取り直します。その後、同じ段階負荷で再測定します」
バルツが、工具袋を肩から下ろした。
「やるなら、蓋縁からだ。井口の奥は、いきなり掻くな。乾いた泥がある」
リゼは頷く。
「噴霧してからです。乾拭きは禁止です」
セラが、王都側の記録へ書いた。
該当魔工具外し後、封瘴井周辺初期脱瘴を通常手順で実施。
目的、背景反応低減および再測定条件の復帰。
ラウレンが、短く確認する。
「所要時間は」
バルツが答えた。
「蓋縁と井口泥、封札整理場の床面だけなら、半刻で一次処理。奥までやるなら、今日は無理だ」
リゼが補足した。
「今日必要なのは、再試験前の測定条件をそろえる範囲です。奥の本復旧は別記録にしてください」
ラウレンは頷いた。
「では、一次初期脱瘴を実施。対象範囲は、封瘴井蓋縁、井口泥、封札整理場の床面、封札整理台脚元、導魔線接触床面。奥の本復旧は別件とします」
カルムが停止申告欄へ書く。
再開条件。
該当魔工具隔離。
封瘴井蓋縁、井口泥、封札整理場床面、封札整理台脚元の初期脱瘴。
背景反応再測定。
同段階負荷で再試験。
レンは、封瘴井の蓋を見た。
王都の整った塔の下で、地方から持ち込んだ札が立っている。
その光景は、少し不格好だった。
だが、不格好でも止まれた。
それでいい。
【一言メモ】
この世界の送魔では、誰かが体調不良になるのは日常茶飯事で、あとは誰がどこで声を挙げるかだけの話です。仕込みとかではありません。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




